第10話

 奈々が通っていた遠山大学の大学祭は、十一月の中頃に行われる。

 久々に訪れた母校の景色はあまり変わらなかった。真っ平らなコンクリートの地面。我が物顔で鎮座している豆腐のような建物。等間隔で配置された細い樹木。階段を上った先にある創立者の像。


 卒業してまだ二年しか経っていないというのに懐かしさが込み上げる。しかし周囲の喧騒がすぐに感傷的な気分を掻き消した。郷愁に浸るには、今日は人が多すぎる。

 既に各部活やサークルの露店が並んでおり、幾つもの行列ができていた。焼きそばやフランクフルトを食べ歩く集団とすれ違い、奈々は豆腐のような建物へ向かう。


「奈々!」


 本館の入り口で、奈々は旧友と再会した。

 加藤真澄も二年前とあまり変わらない見た目だった。ロングスカートにブラウスという組み合わせは学生時代からのお気に入りだ。しかし眼鏡が黒から赤に変わっている。自然体でも滲み出てしまう個性を象徴しているように見えた。プロとしての自覚が、彼女に赤色を身につけさせたのだろうか。


「久しぶり、真澄」


「久しぶり。元気そうでよかった」


 元気なわけあるか。

 どろりとした感情が渦巻いた。学生時代の記憶が蘇る。どっちが先にデビューしても恨みっこなしだからね、と青春漫画のような約束を交わした。切磋琢磨し、互いに背中を押し合う関係はとても居心地がよかった。


 だが、今思えばそれは、マラソンで一緒にゴールしようねと誓い合うかの如くみっともない関係だったのかもしれない。抜け駆けしないで、独りにしないで、お願いだから私を傷つけないで……心の弱さが招いた歪な同盟だった。

 だから奈々は、内心では真澄がプロになるなんて思っていなかったのだ。

 自分が小説を書かなくなったんだから、きっと真澄も書いてないだろうと思っていた。


 浅はかだった。真澄は奈々よりも努力していた。二人は同類ではなかった。


筆章会ひっしょうかい、見に行くんだっけ?」


「うん」


 真澄は楽しそうに頷いた。

 筆章会とは、奈々と真澄が所属していた遠山大学の文芸サークルである。週に一度の読書会と、月に一度決められたお題の短編を書くことが活動内容だった。メンバーの中には更に精力的に執筆活動を行う者も数人いて、奈々と真澄はその一部だった。


 別に最初はプロを目指していなかった。サークルで何度か執筆するうちに熱中し、いつの間にかプロになりたいと思うようになったのだ。短編を皆に読んでもらって、当たり障りのない賞賛を真に受けるうちに、自分には才能があると感じたのかもしれない。


 切っ掛けなんてそんなものだ。そしてその切っ掛けは奈々や真澄だけでなく、筆章会に所属する全てのメンバーに平等に与えられたはずだ。しかし結局、最後まで本気で執筆したのは奈々と真澄の二人だけだった。ほとんどのメンバーは、一度だけ、或いは一瞬だけプロを志すが、すぐに諦める。挑戦なんかより継続の方がよほど難しくて価値ある行為なのだと、奈々はその時に知った。


「実は今、いい文章を書く後輩がいて、奈々に紹介したいと思ってたの」


 学祭に行かないかと提案されたあの日、メッセージのやり取りはもう少し続いた。

 筆章会に才能のある後輩がいるから、久々に顔を出してみないか。それがあの日、真澄がした提案だった。承諾はしたが、提案の真意はまだ分かっていない。どうして真澄は後輩を紹介しようと思ったのだろうか。


 話の流れで、奈々がだいち小説賞への応募を狙っていることも、真澄には伝えた。真澄はそれを聞いて、更に後輩へ会うべきだと主張した。


「真澄って、卒業後も筆章会に顔を出してたの?」


「ううん、ちょっと前に一度来ただけ。デビューが決まった後、SNSで講義をしてくれないかって依頼が来たの」


 筆章会の現役メンバーが、最近デビューが決まった真澄のことをOBだと知ったのだろう。真澄は既に、今まで以上に小説に関わる様々な活動をしているようだった。


 人垣を通り抜け、奈々たちは体育館が入っている建物に向かう。ガラスのドアを開けて中に入り、エスカレーターで二階に上がると複数のサークルがブースを作っていた。もう一度、懐かしさが込み上げる。例年、筆章会はここで展示物を飾っていた。


「あ、大黒先生」


 長机の前に座っていた大学生の青年が、真澄の顔を見て立ち上がる。

 真澄は困ったように笑い、その手に持っていた買い物袋を差し出した。


「ここでその名前を呼ばれるのはちょっと恥ずかしいね。お疲れ様、差し入れどうぞ」


「ありがとうございます! 助かります!」


 食べ物だと余った時に困るので、キャンパス内の自販機で買った飲み物を十個ほど渡した。コーヒーと紅茶が半分ずつ。

 丁度口寂しかったのか、学生は喜びながら差し入れをブースの裏へ持っていった。


「そういえば、なんで大黒三郎だいこくさぶろうってペンネームにしたの?」


「まあ、なんていうか、性別を隠したくて」


 真澄は複雑な表情で笑う。

 奈々と真澄は学生時代から文学賞へ応募していたが、現在の真澄のペンネームは学生時代のそれとは変わっていた。大黒三郎、随分厳めしい名前である。


「編集と相談したんだけど、ジャンルによっては女性作家だと分かると読者に敬遠されることがあるらしくて。私、これからどんなジャンルを書くか分からないし、念には念を入れとこうって思ったの」


 本当はそんなことしたくなかったと、真澄の顔は告げていた。

 実力で読者をねじ伏せられたらどれだけ楽か。しかし現実はそう甘くない。

 天才でもない限り、デビュー作がそのままヒット作になるのは稀だ。そして真澄は自分が天才でないと思っているのだろう。だからペンネームの話も受け入れた。一瞬の輝きで勝ち上がれないなら、あらゆるリスクを排除してしぶとく戦っていくしかない。


 真澄のデビュー作が発売するのはまだ先だ。だが真澄も、彼女の担当編集も、既に察しているのかもしれない。長い戦いになることを。


「プロになったら、そういうとこでも悩むんだね」


「いっぱい悩むことあるよ。タイトルも未だに決めてないし。三十個くらい候補を出したのに全部駄目になったもん」


「元のタイトルはなんだっけ?」


「奇跡の一揆。私が送った受賞作発表のページ見たんでしょ? 覚えててよ」


 覚えてるに決まっている。

 けれど、覚えていることが伝わってしまうと、なんだか一方的に意識していると思われるような気がして忘れたフリをしたのだ。


「百姓一揆にちょっとファンタジーを入れた作品でさ。どっちの要素も売りにしたいから両方表現できるタイトルを考えなくちゃいけなくて。奈々、いい案ない?」


「私が考えてもいいの?」


「勿論。猫の手も借りたい状態なの」


 真澄は両手を合わせてお願いしてきた。

 内容も知らないのに、無茶振りだ。それでも真剣に考えてしまうのは作家志望としての性か。センスのある表現を考えること自体が奈々たちにとっては娯楽なのだ。


「妖精一揆、とかは?」


「なんで妖精?」


「いや、奇跡って言葉が、なんとなく妖精を連想させるっていうか」


「なるほど。ちょっと考えてみるね!」


 社交辞令っぽい反応だった。

 学生がブースの裏から帰ってきたので、真澄が会誌を買うため財布を出す。


「会誌、二部ちょうだい」


「先生にはただで渡しますよ」


「いいっていいって、ちゃんと稼いでるから」


 後輩に千円札を押しつけて、真澄は財布を鞄に入れた。

 真澄は営業事務だったはずだ。本が出たら仕事を辞めるのだろうか。


「じゃあ、読もっか」


 真澄が会誌を渡してくる。

 少し離れたところに休憩用のスペースがあった。丁度、二人分の椅子が空いていたので並んで座り、無言で会誌を読む。隣に友人がいるのに一言も喋らずに本を読むというこの奇妙な時間は、筆章会で活動しているうちに慣れ親しんだものとなった。


 会誌は奈々たちが筆章会にいた頃と変わらず、サークルのメンバーが執筆した短編を一冊の本にまとめたものだった。面白いものもあれば、あくびを堪えきれないほど退屈なものもある。しかし奈々は退屈と感じられる自分がいることに安堵した。少なくともここに書かれているどの小説よりも、自分は面白いものを書けるという自信がある。


 だがその自信は、最後の短編を読んだ瞬間に揺らいだ。

 とあるカメラの物語だった。ある日、カメラマン志望の主人公は道端に落ちているカメラを拾い、そのカメラに残された美しい写真に魅了される。この写真を撮った人と会いたいと思った主人公は、手掛かりを得るべく、カメラに映っている様々な場所を巡る旅に出る。アフリカからヨーロッパまで旅した主人公は、やがてカメラの持ち主が何を撮りたいのか気づき、次の撮影場所を予想してそこへ向かった。そこで遂に、主人公はカメラの持ち主と邂逅を果たすが、その正体がまさかの人物で――という話だった。


 最後の一文を読んだ後、息継ぎするように勢いよく顔を上げた。長い間、物語という名の湖に沈んでいた。危うく現実に帰ってこられなくなるほど没頭してしまった。

 いい小説を読むと現実が消える。今が昼過ぎであることも、ここが大学のキャンパスであることも、隣に友人がいることも、自分が女であるさえことも、全て忘れる。

 これが短編小説でよかった。長編なら日が暮れるまでここに座っていただろう。

 余韻に浸っていると、真澄が楽しそうにこちらを見ていることに気づいた。


「どう?」


「……最後の、凄くよかった」


「でしょ? 奈々にはこの子に会ってほしいんだよね」


 手すりに置かれている真澄の紅茶がほとんど空になっていた。真澄の方は結構前に会誌を読み終えていたようだ。


 大学祭で販売する筆章会の会誌は、この日のために用意した書き下ろしの小説だけでなく、今までのサークル活動で書いた小説もそのまま掲載することがある。真澄はついこの間も筆章会に顔を出していたようなので、掲載されていた幾つかの小説は既に読了済みだったのだろう。


 真澄が筆章会のブースを見て、そこにいる一人の青年に向かって手招きした。目当ての人物はブースにずっといたようだが、奈々が読み終えるまで真澄は待っていたようだ。


「大黒先生、久しぶりです!」


「久しぶり、風太君」


 はきはきした明るい青年だった。

 先輩とはいえ、初対面なのに座ったまま挨拶を交わすのは偉そうに見えるだろう。急いで立ち上がる奈々に、青年は頭を下げる。


「渡会風太です。風太って呼んでください。皆もそう呼んでるんで」


「青井奈々です。こっちの真澄とは同期で……」


「はい、大黒先生から聞いてます」


 風太は真澄を一瞥した。真澄が首を縦に振る。


「ライバルなんですよね?」


 ピシリ、と心に亀裂が走った。

 ライバル? 今となってはプロとアマチュアで明確に差ができているというのに、真澄は私のことをライバルと言って紹介したのか?

 顔が熱くなった。分不相応な尊敬を注がれているように感じる。


「いや、私は別にプロじゃないし……それに、最近はあんまり書けてなかったし」


「でも、またプロを目指して書き始めるんでしょ?」


 奈々の心を見透かしているかのように、真澄は言った。

 まだ決めていない――。

 決めていないまま、小説を書き始めている。恐らく今書いている小説は完成するだろうが今後も書き続けるとは限らない。いや、今書いているものだって、普通の人生に舵を切ると決めたら途中で捨てるかもしれない。


 風太が首を傾げた。奈々の現在地がよく分からなくて疑問なのだろう。そんな風太に真澄は親切心のつもりで説明する。


「ちょっとプライベートがバタバタしてて、小説を書く時間がなかったんだって。風太君も大人になったら分かるよ」


「そうですか。まあ仕事とか大変ですもんね」


 予期せぬ追い打ちに、奈々は視線を下に逸らした。真澄も気まずい顔をしている。

 仕事はしていない。そんな自分にとって、バタバタするプライベートとは何なのか。


 奈々は真澄に何も説明していなかった。結婚を取るか、野心を取るか、双方の間で揺れていることについては伝えていない。真澄が知っているのは、奈々が現在無職であり、恋人との結婚が秒読みであり、そして最近小説を書いていないことだ。

 奈々の機嫌を取るためか、真澄が話題を変える。


「風太君もね、プロを目指してるんだって。だからお互いいい刺激になるんじゃないかと思って会わせたかったの」


「いや、僕の方こそあんまり真剣じゃないですよ? そりゃあ、できればプロになりたいとは思ってますけど」


 白々しい謙遜だと思った。風太の短編小説は既にプロ並みのクオリティである。風太も筆章会に所属している以上、読書はしているはずだ。それなら分かるだろう。自分の小説はプロの小説と比べても遜色ないことに。


 絶望する。まさかこんな身近なところに天才がいたとは。きっと彼もすぐに真澄と同じプロの領域に到達するに違いない。


 いい刺激なもんか――奈々は憤慨する。

 この刺激はもう間に合っている。真澄のデビューが決定した瞬間からずっと胸中で蟠っている刺激だ。今更欲しがるはずもない。

 これ以上、私に嫉妬させないでくれ――。


「風太君、プロになるためにどんなことしてるの?」


 取り繕うように奈々は質問した。先輩という立場の仮面に素顔を隠す。


「原稿は勿論書いてますけど、最近は同じように小説を書いてる人と会って、色んな話を聞くようにもしています。この前は専門学校の体験講義を受けてきました」


「講義か……私は受けたことないなぁ。どんな感じだったの?」


「起承転結の作り方とか、オチのパターンとか、そういうのを教える授業でした。結構面白くて専門学校に通うのもアリかなって思ったんですけど、講義の最後にちょっと変な質問しちゃって、気まずくなったので入学は見送りました」


「え、どんな質問したの?」


「プロの先生に向かって、貴方はどんなものを書きたくてデビューしたんですか? って聞いちゃって。その人、色んなジャンルを書いてる人だったので……」


 要するに「お前は何がしたいんだ?」と遠回しに責めてしまったわけか。そんなつもりはなかったんだろうが、相手が色んな小説を書いている人なら、責められていると受け取られてもおかしくない。


「まあどのみち、親は僕が作家になることを反対しているので、卒業後は普通に就職するしかないんですけどね」


 子犬のように明るくて屈託のない青年に見えたが、こうして言葉を交わすうちに彼も苦労していることが窺える。


 少し、溜飲が下がった。

 まだ大学生の青年が、何の気苦労もなくあれほどの小説を書いたわけではなさそうだ。


「風太君、他にも小説書いてるの?」


「あ、はい。でも数えるほどしか書いてないですよ。短編だけですし」


「短編だけ? 長編は?」


「一度も書けたことがないんです。構想は何度も練ってるんですけど」


 まるで典型的な書けない人のような台詞を風太は口にした。偶にいるのだ。頭の中には力作がある。自分は構想を練っている。……そう言いながら結局一文字も書かない口先だけの人間が。行動せず、態度や思想だけで一目置かれたがる人間はどこにでもいる。

 しかし風太は書いていた。それも、極上の小説を。


「どうしても書き続けられないんですよね。それで悩んでいたら、大黒先生に会わせたい人がいるって言われて……」


 それで、こうして奈々と風太は顔を合わせている、と。


 あ――。


 あ、あ、あ――。


 奈々は気づいた。

 気づいてしまった。


 何故、真澄は奈々に大学祭へ行かないか提案したのか。何故、真澄は奈々と風太を引き合わせたのか。


 渡会風太という天才を、開花させるためだ。


 堪えがたい激情が胸中で渦巻いた。真澄を押し倒し、馬乗りになって何度も殴りつけたい衝動に駆られる。

 真澄は最初から奈々を利用するつもりだったのだ。最近、小説を書けていない自称作家志望の奈々を風太の前に連れてきて、こんなふうに堕落しちゃいけないよと彼に教訓を与えたかったのだ。


 養分。その二文字が脳裏を過ぎる。

 奈々は、養分として利用されたのだ。渡会風太という稀代の天才が、更に先へ進むための養分として――。


「ごめん。私、そろそろ帰らなきゃ」


「え、用事があったの?」


 真澄が信じられないものを見るような目で奈々を見た。

 信じられないのはお前だ。久々に小説の話でもしないかと連絡を受け、奈々が最近小説を書いていないと告げた時、真澄の返事がやたら遅いとは思っていたが、まさかこんな残酷な計画を企てていたとは。


 一刻も早くこの場から去りたい。

 平静を保てない屈辱だった。


「青井さん。もしよければなんですけど」


 会誌を鞄に入れた奈々に、風太が暢気な顔で声を掛けた。


「一月に作家志望の集まる新年会があって、よければ参加してみませんか? 色んな話を聞けると思いますよ?」


 施しのつもりか――?

 いや、風太にそんな気持ちはないのだろう。彼の純粋な眼を見て、悪意がないことを確信する。この子はちょっと言葉で誤解されやすい性格なのかもしれない。


 奈々は「考えてみるね」とだけ伝え、一人で帰路についた。

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