第9話
十一月になると急に冷える日が増えた。勇樹が出社して一人になった2LKの賃貸で、窓を開けて掃除機を滑らせていると、肌寒い風が髪を揺らす。
時刻は午後二時。そろそろ出なければならない。
ここ数日、奈々はひたすら普通と特別の間で揺れ続けた。同棲中の恋人に対して後ろめたい気持ちを抱えながら過ごす毎日は予想以上に辛く、誰かに相談しないと身が持たないと思ったのは三日前のことである。
相談相手として真っ先に浮かんだのは真澄だったが、どうにも気が乗らない。いや、正直に言うと意地を張りたいだけだ。ただでさえ同期であり親友でもある彼女の後塵を拝する羽目になったのだ。その上で大事な相談なんてしたくない。
かといって他に相談相手が思いつかなかった奈々は、SNSで人を探した。勇樹が知らない、奈々の二つ目のアカウント。ナナという名前で登録している作家志望のアカウントを駆使して見つけたのは、
作家志望である奈々にとって、現役のプロ作家にSNSでフォローされるのは珍しい話であり、だからこそ当時のことをよく覚えている。魚棲は、奈々がSNSで自撮りの写真を投稿した直後にフォローしてきた。勿論、顔は加工して隠したが、体型から女であることは一目瞭然である。性別が明らかになった瞬間フォローしてきた魚棲のことは正直気色悪いと思っているが、背に腹はかえられない。
ダイレクトメールで奈々の方から魚棲に連絡を取り、今日の午後三時に喫茶店で会うことにした。軽く化粧をして家を出た奈々は、電車の中で魚棲について調べる。
魚棲清水。東京都在住。八年前、限界集落の復興を目指す魔法使いを描いた小説『因習と魔法使い』でファンタジー小説大賞を受賞し、デビューを果たす。同作は繊細な情景描写とさり気ない風刺が評判となり、漫画化もした。
しかしその後、人気作に恵まれなかった魚棲は、一般文芸からライトノベルへ畑を変える。中高生向けの、言葉を選ばずに言ってしまうとオタク向けの小説であるライトノベルの世界において、魚棲はこの八年間で六シリーズもの小説を世に出していた。
SNSを見た限り、重版も一度だけ経験しているらしい。しかし突き抜けたヒット作があるわけではなく、魚棲は典型的な中堅作家といったところだった。
駅の地下にある喫茶店に着くと、男性が入り口付近で立っていた。魚棲だ。インタビュー記事に写真が載っていたので、その顔を覚えている。
「はじめまして、ナナです」
「あ、はじめまして。魚棲です」
魚棲は朗らかに笑みを浮かべながら、礼儀正しく挨拶した。
茶髪のセンターパートに、清潔感のある服。白い肌の童顔も相まって若々しい印象を受けるが、結婚を視野に入れている奈々にとっては若さを通り越して子供っぽく感じた。お洒落の感性が大学生で止まっているような、記号的なセンスに身を包んでいる。
インタビュー記事によると魚棲は三十代前半の男だ。就職はせず、大学卒業後に専業作家になったので、社会の荒波に揉まれた経験がないのだろう。だが、それでも奈々よりは立派に違いない。この男は真澄と同じステージで生きている。奈々が長年追い求めていたプロの小説家という世界で、今も結果を出し続けている。
「予約してるから、取り敢えず中に入ろうか」
喫茶店に入るとすぐ店員に席まで案内され、それぞれコーヒーを注文した。数分後、コーヒーが運ばれてきたので魚棲は一口飲んでから奈々の方を見る。
「小説に専念するべきか、それとも結婚するべきかで悩んでるんだよね?」
「はい、そうです」
魚棲は世間話もせず、早々に本題を切り出した。素直にありがたい。こういう合理的なところがプロの世界でもやっていく秘訣なのだろうか。
「結婚してから小説を書くのは難しいの?」
「そうですね、結婚したら色々忙しくなると思いますし……あと、なんていうか、結婚後にそういうことしているイメージが湧かなくて」
普通の人生と特別な人生の間で揺れているとは言えなかった。初対面の相手にそこまで赤裸々に語るのは抵抗があるし、それを語る以上は勇樹の人格などについても触れねばならない。だが、この魚棲という男はプロの小説家で、きっと自分の気持ちも察してくれるんじゃないかという仄かな期待があった。
「取り敢えず、作家の現実を教えた方がいいかな」
魚棲はもう一口コーヒーを飲んでから言う。
「小説家って、そんな夢のある職業じゃないよ。このご時世、本は全然売れないし。ほとんどの作家は一作か二作しか発表できず、あっという間に出版社から見放されて姿を消す羽目になる。プロの間ではよく言われるんだけど、作家になるよりも作家を続けることの方が難しいんだ」
宣言通り、現実を突きつけられたような気分だった。
なかなか酷なことを言う。プロを目指して悪戦苦闘している奈々に対し、この男はそこから先の方がもっと厳しいぞと言ってのけたのだ。
「ライトノベルの業界も同じですか?」
「同じだけど、まだマシかな。あっちは部数が多いからね。最近は新文芸っていう大判のジャンルも台頭してきたし、収入面で考えたら一般の世界より圧倒的にいいよ」
「部数、そんなに違うんですか?」
「ラノベは一般の二倍くらい刷られる」
奈々は溜息を我慢できなかった。それを見て魚棲も力なく笑った。
奈々は一般文芸の小説家になりたいと思っている。だが、一歩隣の世界にそんな豊かな土地があると知ってしまった今、やるせなさが込み上げた。
今なら魚棲がライトノベルの世界に足を踏み入れた気持ちもよく分かる。正直、軟派な道に逃げたなと心のどこかで馬鹿にしていたが、世間が求めているのはまさにその軟派な小説だったわけだ。
「魚棲さんは、一般文芸はもう書かないんですか?」
「書きたいとは思ってるけど、なかなか企画が通らなくてね」
「じゃあ逆に、ライトノベル一本でやっていくつもりはないんでしょうか?」
「可能か不可能かなら可能なんだけど、別にお金を稼ぐためだけに作家になったわけじゃないしね。僕が表現したいものは、やっぱり一般の方が向いてるかなって」
お金を稼ぐためだけに作家になったわけじゃない。
大事な言葉だと思った。
「ネガティブなことを最初に言ったけど、それでもこの仕事は楽しいよ。自分の考えた世界を色んな人たちに見てもらえる。見ず知らずの誰かの人生に、一冊の本を通して影響を与えることができる。他の仕事ではなかなかできない貴重な経験だ。それに、時間の融通も利きやすいから、こうして平日の昼でも自由に過ごせるしね」
確かに、と奈々は笑った。今日は木曜日。勇樹はまだ会社で働いている時間である。
「ちなみにナナさんは、新人賞とかには応募してる?」
「はい。次のだいち小説賞に応募しようかなと」
一瞬、魚棲の顔が強張ったような気がした。
「いいね。だいち小説賞は、大衆文芸の中では最大級の文学賞だから、あれを受賞したらヒット作家にもなりやすいよ」
「私もそう思ってました。直木賞作家も、だいち出身の人が多いですもんね」
だいち小説賞は文学賞の中でも規模が大きくて有名だ。それゆえ倍率も高い。毎年、千編以上もの小説が応募され、その中で受賞するのは一作か二作だけである。
しかしその狭き門を潜りさえすれば、華々しいデビューを飾れる。あのだいち小説賞の受賞者という肩書きがあれば、業界でも有利に立ち回れるに違いない。そんな奈々の戦略は、魚棲の反応から正しいと証明された。
逆に言えば、そうでもしないと生き残れない厳しい業界であることも奈々はなんとなく知っていた。電子書籍の登場でやや息を吹き返してはいるものの、市場が縮小気味なのは魚棲に言われるまでもなく認識している。作家として長生きするには、大きな賞を獲って世の中に実力を示すしかない。魚棲の話を聞いてその気持ちは一層強くなった。
真澄は……。
醜悪な感情がうねりを打つ。魚棲を相談相手に選んだ理由は、SNSで相互フォローだからというだけではなかった。
真澄は、魚棲と同じ賞を獲ってデビューした。
ファンタジー小説大賞は、文字通りファンタジー小説を募集した文学賞で、そのジャンルの中では最大級の賞だ。
だが、だいち小説賞ほど大きくはない。
「あの」
意地悪な好奇心を抑えきれず、奈々は口を開いた。
「今年の、ファンタジー小説大賞の受賞作……売れると思いますか?」
「どうだろう。僕は審査員じゃないからまだ中身も読んでないし、今、表に出ている情報だけだと分からないかな」
そうですよね、と相槌を打ちながら、奈々は酷く惨めな気分になっていた。
売れないと言われていたら、きっと安心していた。
奈々がだいち小説賞への挑戦を決めた理由は、先程魚棲に言った通りデビュー後の生存率を考えてのことだが、ここに真澄への対抗心が含まれていないと言えば嘘になる。
真澄より、大きな賞を獲ってデビューしたい。
浅はかで独り善がりの、しかし正気を保つには必要不可欠な意趣返しだった。
「話をまとめると、小説家という仕事は楽しいけど、やっぱり生存率は厳しいから、変に焦って目指すものではないと思う。結婚を検討しているなら、今はそっちを優先してもいいんじゃないかな。作家になったら人と会わなくなるし。兼業なら別だけど」
機会に恵まれている今のうちに、積極的になった方がいいと言いたいのだろう。小説家は会社員との兼業でもない限り、ずっと家にいる仕事だ。異性どころか、そもそも人と会わない時間が長いと聞く。
だが、勇樹と結婚すれば、やはり引っ張られる気がした。
普通という名の沼へ、ズルズルと引きずり込まれそうな予感がある。
「……魚棲さんは、ご結婚されてますか?」
「いや、してない。結婚したいと思ってるけど」
「婚活とかは、されてないんでしょうか?」
魚棲は「うーん」と考えてから答えた。
「何回かやってみたことあるけど、結局、仕事の方が好きですぐやめちゃうんだよね。デートとかしている間も、小説書いてる方が面白いな~って思うことあるし」
どうしようもない人間だろう? と言わんばかりに魚棲は苦笑した。
何か言おうとしたが、店員がやって来てそろそろお時間ですと言った。正直ここまで話が弾むとは思っていなかった。もっと混んでいない喫茶店を選ぶべきだったか。
「貴重なお話、ありがとうございました」
「いえいえ。また何かあったら気軽に相談してくれていいから」
喫茶店を出て、改札の辺りで魚棲と別れた。あっさりした別れ際だ。恋人がいて結婚を検討していると伝えていなかったら、もう少し粘られただろうか?
すぐに帰る気にはなれず、近くにあった書店に奈々は入った。
雑紙コーナーで文芸誌の最新号をチェックする。その途中、結婚情報誌が目に入った。
一冊手に取って表紙をじっと見つめる。可愛らしいピンクのロゴ。色鮮やかな花束。満面の笑みを浮かべる綺麗な女性。これが女の幸せなのだと思わせる引力を感じる。
だが、小説家の世界と同じように、結婚も華やかなことばかりではないだろう。
陰が知りたい。結婚生活にだって理不尽はあるはずだ。
魚棲との最後の会話を思い出した。デート中に小説のことを考えてしまうと言った彼は自嘲するように笑っていたが、奈々にとってはその生き様こそがまさしく特別な人間のように感じた。奈々の周りにいる友人たちは決してそんなこと言わない。勿論、勇樹も絶対に言わない。勇樹は仕事好きを自称しているが、それはあくまで世間一般と比較したらの話であって、ぎらついた野心に突き動かされているわけではない。
結婚したら丸くなるという話をよく聞く。
私は、丸くなりたくない。
でも――だからといって、今までの日々が不幸と感じたこともない。
小説を書いていない間、奈々は普通の人生を謳歌していた。恋人とデートして、友達と遊んで、偶に料理の勉強をしたり、ピラティスで軽く汗を流したり。典型的な、どこにでもいるような女の生き方をしてきたが、その時はその時で別に幸せだった。ほどほどに満たされていたから、他人と比べるという発想がなかった。
小説に専念するということは、この日常を手放すということだ。勇樹とは今まで通りの関係ではいられない。友達と遊ぶ時間も急激に減るだろう。家事をしている暇はなく、流行りの趣味に手を出す余裕もない。
趣味ではなく本気で打ち込む以上、二足のわらじができる自信はなかった。それができなかったから長い間、小説を書けなかったのだ。自分の心はどうしようもなく惰弱で、刺激のない普通の生活に絆されてしまうことを奈々は自覚していた。
そろそろ帰ろうと思った時、スマートフォンが振動する。
画面を見て、奈々は思わず息を呑んだ。
〈久しぶりに小説の話でもしない?〉
まるで学生時代の頃と同じような距離感で、真澄は奈々に呼びかけた。捻くれているのは分かっている。分かっているが、どうしてもその言葉が、今まで通りの関係でいいからねと上から目線で言われているように感じた。
奈々は返事に迷った。
このまま無視してしまおうかと思った。けれど、真澄は……親友だった。劣等感から逃げるために、心は真澄を避けようとしている。しかし記憶が真澄を愛している。
〈私、前みたいに小説書いてないけどいい?〉
送信してしまった自分の返事を見て、冷や汗が垂れた。
こんな、分かりやすく劣等感を伝えてしまうつもりはなかった。
既読がつく。しかし返事は来ない。一分、二分と待ち続けたがまだ返事は来ない。冷や汗が更に垂れた。真澄は呆れたのかもしれない。ライバルが怠けていることに。
三分後、真澄から返事が来る。今までで最も長い三分に感じた。
〈学祭に行かない?〉
どういう意味だ。
振り回されている――奈々はそう思った。
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