2章:青井奈々
第8話
小説を書く時、背中を丸めるのが癖になった。
小さなノートパソコンのモニターには執筆途中の原稿が映っている。別に誰も覗き込んでいないのに、背中を丸めて画面を覆い隠すような姿勢じゃないと安心できない。
静かに、息を殺しながら執筆する。まるで万引きでもしているかのように。
その時、玄関から鍵が開けられる音がした。奈々はすぐに原稿を閉じる。それから、別に興味もないネットニュースの記事を開いた。
「ただいま」
「お帰り~」
帰宅した勇樹に、奈々はひらひらと手を振った。鼓動が早い。じわり、と掌に汗が滲んだ。勇樹と目を合わせることができず、視線を宙に彷徨わせる。
勇樹はレジ袋をテーブルに置いた後、その中に入っていたものを取り出した。
「今日も言われた通りテイクアウト買ってきたよ」
「ごめんね。最近調子悪くて」
「別にいいけどさ。俺はウーバーかなって」
「チップあげま~す」
「おい」
勇樹は笑いながらネクタイを緩め、スーツから着替えるために寝室へ向かった。その間に奈々はパソコンのモニターを一瞥する。何も不自然な点はない。そう確認した後、パソコンを折り畳んでテーブルの隅に置いた。
部屋着に着替えて戻ってきた勇樹は、奈々の対面に腰を下ろす。
テーブルには、中華チェーン店の天津飯と餃子が二人前ずつ置かれていた。これが今日の夕飯だ。三日前も同じものを食べた。
「奈々、パソコンで何やってたの?」
「ん? ネットサーフィン」
自分でも驚くほど自然に口から嘘が出た。こうして誤魔化し続けて一ヶ月となる。
青井奈々の人生はほどほどに満ち足りていた。幼少期から運動も勉強も人並み以上にできて、容姿も整っていて聡明でもある彼女は、予定調和のように難関大学に合格し、そのままスルリと大企業の事務職に就職した。
しかし仕事には馴染めなかった。ワークライフバランスを何より重視した結果、仕事が酷くつまらないものになってしまったと気づいたのは就職した直後だった。毎日毎日、地味で単調な雑務ばかりでうんざりする。そのくせ仕事量は少なくないので心労はみるみる溜まっていった。そんな時に限って生来優れていた容姿も悪い方向に働いてしまう。結婚して身を固めたい男たちに度々標的にされ、時には強引に迫られることもあった。心身ともに削れた奈々が、会社を辞めるまでそう時間は掛からなかった。
それでもほどほどに満たされていた。転職先を探す奈々に友人が紹介した芹沢勇樹という男は、奈々の就職先に負けず劣らずの大企業に勤めており、長い独り暮らしの経験から家事も一通りできる好青年だった。目鼻立ちが整っているかと問われると言葉に詰まるような顔だが、地味で真面目な印象は結婚を意識すると好感を持てた。向こうからのアプローチを受け入れて、それから二年。勇樹と同棲している奈々はまだ再就職しておらず、自然に家事を受け持つようになったが、そんな日々が積み重なることで専業主婦という未来が自動的に決まりつつあることを実感していた。勇樹も別にそれで問題ないらしく、むしろ自分は仕事が好きだから奈々には専業主婦になってほしいと度々話すくらいだった。
「ごめんね、最近家事できなくて」
「仕方ないって。風邪って長引く時は長引くし」
勇樹は餃子を一口で食べた。思ったよりも大きかったのか、野菜の欠片が唇からはみ出て口角のあたりにつく。勇樹はそれに気づいていない様子で二つ目を食べた。
交際経験が少ないのか、勇樹は最初、奈々と一緒に食事する度に酷く緊張していた。育ちが悪いと思われたくなかったのだろう。少しでも口元が汚れたら紙ナプキンで拭いていて、食べ終わる頃にはいつも彼の手元に大量の紙ナプキンが転がっていた。
二年も同棲すれば、流石に自然体でいてくれるらしい。
「口、なんかついてるよ」
「まじ? ありがと」
奈々は勇樹の、不器用だけれど一生懸命なところが好きだった。
勇樹は優しい男だ。家事は奈々の役割なのに、連日テイクアウトが続いてもなんだかんだ許してくれる。年齢は奈々の四つ上で、今年で二十九歳になる。この四歳の差が勇樹に懐の広さを与えているのかもしれない。
或いは、その余裕は慎重の蓄積が裏打ちしているのだろうと、奈々は考えている。
勇樹は安定志向だった。慎重の上にも慎重を期する、生真面目な性格だった。
同棲の提案も彼がした。結婚する前に、必ず同棲して一緒に生活できるか確かめたかったらしい。最低でも一年。できれば二年という期間を設けたのも彼だ。将来への貯金や資産運用にも真剣で、偶に老後の人生設計について話し合うこともある。
勇樹は一生懸命、普通の幸せを掴み取ろうとする人間だった。
だから言えない。
自分が今、プロの作家になるために小説を書いているなんて――。
しかもその理由が、大学の同期であり親友でもある加藤真澄のデビューを知ったからだなんて、言えるわけがない。
旧友がプロになったからといって急に筆を取るなんて、子供みたいな動機だと笑われるに違いない。しかし奈々は本気だった。勇樹は知らないが、奈々は大学時代から作家志望でひたすら小説を書いていたのだ。
奈々は当時文芸サークルに所属していて、そこに真澄もいた。奈々にとって真澄は親友であり、共にプロの小説家を目指すライバルでもあった。
卒業後、奈々と真澄は疎遠になってしまったが、先日、真澄からメッセージが届いた。
――プロになったよ。
それが妄言でないことを示すためか、メッセージの続きには真澄が応募したらしい文学賞のホームページのURLが張ってあった。URLから文学賞の結果発表を見て、受賞者が紛れもなく真澄であることを確認した奈々は、いてもたってもいられなくなった。先を越されたという強烈な焦りが生まれた。
奈々が小説を書いていることを勇樹が知らないのは、単純に奈々が長い期間小説を書いていなかったからだった。就職し、心身ともに疲れたタイミングで奈々は小説の執筆から離れ、会社を辞めた後も真澄から連絡されるまで筆を取ることはなく、それゆえ勇樹に伝える機会を失していたのだ。先に勇樹の安定志向を知ってしまった。
「ちょっと相談があるだけどさ」
食事が終わった直後、勇樹は切り出した。
「会社が、転勤させたがっていて」
「え? 勇樹を?」
勇樹は神妙な面持ちで頷いた。
「でも、結婚してたら気遣ってくれるみたいで」
言いたいことは分かった。つまり結婚してくれということだろう。
いや、勇樹のことだ。まずは検討してくれと伝えたいのか。
勇樹は子供を欲しがっていて、結婚するなら実家と簡単に行き来できるような場所に家を買いたいらしい。実家が近ければ帰省も楽だし、子育ても色々頼ることができる。そんな勇樹の考えには奈々も全面的に賛成だ。だから転勤を避けたい気持ちも分かる。奈々も勇樹も実家は都内。他所の県にはできるだけ行きたくない。
二年間の同棲は平穏だった。小さな喧嘩はあったがすぐに関係は修復できたし、そういう衝突を繰り返す度にお互いの異なる価値観を受け入れることもできた。今となっては滅多に喧嘩もしない。友人からも結婚まで秒読みだねとよく言われる。
しかしその平穏が、奈々にとっての不安の種だった。
大学時代のことを思い出す。あの頃、燃え上がっていた青い野心はとうに潰えたと思っていたが、真澄からの連絡を受けた瞬間、激しく再燃した。……そうだ。私は小説家になりたかったのだ。選ばれし一握りの存在になりたかったのだ。
野心が首をもたげる。――私の人生はこれでいいの?
勇樹は平凡な男だ。だから勇樹と結婚したら、なんだか自分まで平凡な人間に染まってしまうような気がした。
一度消えてしまった野心が二度も枯れることを恐れていた。奈々は別に自分が特別な人間とは思っていない。しかし特別な人間を目指している。
今の状態で勇樹と結婚したら、奈々は神様にゲームセットを申し渡されたような気分になる。――残念でした。お前の夫はどこにでもいる平凡な男です。お前がこの先どれだけ努力しても、お前のパートナーは平凡です。普通です。凡人です。
ああ、自分はもう特別にはなれないんだなと、絶望してしまいそうだった。
勇樹は何も悪くない。心の奥底で燻っている火種を自覚できなかった奈々の問題だ。
真澄から連絡が来なければと思わずにはいられない。あと少し早く、真澄の連絡よりも先に勇樹からこの話を聞いていれば、すぐに承諾していたのに。
勇樹と結婚したら、きっと幸せな人生が待っているだろう。
だがそこに、野心に燃えて小説を書いている奈々の姿はどうしても見えない。
普通と特別。どちらも選べる恵まれた状況だからこそ、揺れる。
勇樹には言えない。奈々は後ろめたさを感じながら「考えてみる」とだけ答えた。
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