第7話
家に帰った拓人は、脇目も振らずにパソコンを起動して原稿と向き合った。
二ヶ月前から一歩も進んでいない原稿は、瑞々しさに溢れていた。時間を空けたからだろうか。いつもより客観的に見ることができる。荒っぽくて詰めの甘い文章だ。けれど躍動感に満ちており、筆者が楽しそうに書いている姿が連想できる。
帰ってきた。
二ヶ月前の、いや、初めて小説を書いた時の気持ちが帰ってきた。
キーボードに指を載せると、自然と文章が出てきた。指が弾み、空白が目立っていた原稿はあっという間に埋まっていく。拓人は堰を切ったように言葉を吐き出した。原稿は乾いたスポンジのようにその言葉を吸収して膨らんだ。
俺はただ、こうして小説を書くことが好きなだけだ。
そんな単純な気持ちをどうして今まで忘れていたのか。現実を切り捨てる度に、いつか取り返さなければという焦りから我を忘れてしまったのだろう。我に返ったのではなく我を忘れていたのだ。それも、もう随分と長い間。
ただ好きなことをしているだけだ。楽しいから続けているだけだ。決して自分を見下してきた奴らに一矢報いるために書いているわけではない。
多くの人が、仕事はやる気がなく、休日はテレビやパソコンの前でだらだらと過ごしている。そんな世の中で、打ち込むものがあることに誇りを感じる。……それだけでいいのだ。他人と比べなくてもいい。その誇りがあるだけでこの人生は満ちている。
普通が一番幸せ? よくもまあそんな言葉が己の口から出てきたものだ。
普通の人は、拓人が今、原稿を書きながら感じているものをきっと知らない。
断言する。――この瞬間が一番楽しい。
夢のために本気で努力することは、この世で一番楽しい。
どんなスポーツよりも激しくて、どんなゲームよりも奥深い。どんな賭博よりもドラマチックで、どんな恋愛よりもロマンチックだ。
ああ、やっぱりこれに勝るものなんてない。
幾度となく壁にぶち当たっても、こんなにも楽しいなんて。
青い野心が蘇る。俺はプロになってみせるという強い想い。その想いに背中を押されて無心になって原稿を書く。そんな日々の積み重ねが、戸部拓人の生き様だ。
多分、登山が好きな人間なら分かってくれるだろうと拓人は思った。登山家は、きっと登頂の景色だけが好きなわけではない。登頂の絶景を目指して、山を登ること自体が好きなのだ。険しい坂道も、獰猛な野生動物も、全部丸ごと愛している。
悪いことをしてしまった。
北本にも、美由にも、バイト先の若者にも、そう思う。余計な劣等感と、それを隠している後ろめたさが拓人の心の余裕を奪っていた。
今は違う。誇りを取り戻し、心に余裕のできた今の拓人なら、きっと角の取れた北本のことを尊重できるし、家族にも自分は怠惰に生きているわけではないのだと伝えられる。
改めて執筆中の原稿を見ると、社会への不満ばかりが書かれていた。そういうテーマを選んだには違いないが、これじゃあ小説というより愚痴を書いているだけだ。
よく考えれば、今までの全ての作品がそうだった。唯一違ったのは十年前にだいち小説賞で二次選考まで通過した小説だ。あれは確か、芸術家を目指す少女の苦悩と葛藤、そして希望を書いたものだった。
多分、今書いている小説よりも、十年前のあの小説の方が面白い。
心に余裕がないと、作風にも余裕がなくなるようだ。
「ははっ」
なんだ、まだ成長の余地はあるじゃないか。
ならば全然、諦める必要なんてないじゃないか。
今なら希望というものを、十年前よりも鮮明に書けそうな気がする。
拓人は原稿の方向性を練り直し、この小説をただの愚痴で終わらせないようにした。
だいち小説賞の応募締め切りは今月末。ギリギリ間に合うはずだ。
原稿を書きながら、風太のことを思い出した。
有り余る才能と情熱に反して、根気がないという致命的な欠点を抱えるあの青年。彼の書く長編小説は、どんな物語になるんだろうか。
完成したら、読んでみたいなと思った。
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