第6話

 思いがけない再会は、三月に訪れた。


「徳田先生!」


 東京郊外の駅前にある本屋に向かっていた拓人は、横合いから声を掛けられ振り返る。

 新年会で顔を合わせた風太が、目を輝かせてこちらに近づいてきた。


「徳田先生、久しぶりですね」


「……久しぶり、風太君」


 一回り以上若い相手からここまで親しげに声を掛けられるとは思わず、拓人は少し動揺した。新年会で軽く話した時は子犬のような無邪気さを感じたが、ああいう場には皆で仲良くしましょうという抗い難い空気がある。その空気に飲まれ、人当たりのいい好青年を演じているだけという線もあったが、どうやら彼は裏表ない性格らしい。


 実際、風太は新年会が終わった後もSNSで度々拓人に接触してきた。何気ない日常のことから、堪えきれない小説への想いまで、拓人は人からの反応を気にすることなく様々な呟きを投稿したが、風太は時折それに文章で反応してくれることがあった。


「もしかしてこの先の書店に行く予定ですか?」


「ああ。例の投稿に触発されて」


「僕も同じです!」


 風太が明るく笑う。

 先日、新年会の幹事を務めた男が、東京郊外に新しい書店ができるとSNSで呟いていた。最近流行りのカフェと一体になった店だ。外出する予定があった拓人は、近場だしついでに足を運ぶことにしたわけだが、風太もあの呟きを見たらしい。

 拓人は風太の装いに注目した。光沢のある濃紺のスーツ。無地で張りのある生地は下ろしたてのように皺一つなく、風太の若さを一層引き立てている。


「就活生だったのか」


「そうです。さっきまで合説に行ってました」


 書店に向かいながら、風太と話した。

 風太は大学三年生で就職活動の最中らしい。今日は大規模な合同説明会があり、その帰りに件の書店へ向かうことにしたようだ。


「徳田先生も何かのついでですか?」


「俺は、バイトの面接を受けた後で……」


「あ、そうなんですね。今はフリーターってことですか?」


 ずけずけと踏み込んでくるが、嫌な感じはしない。純粋な好奇心で聞いているのが分かるからだろう。ただ、それでもその質問に正直に答えるには、まだ拓人のコンプレックスは解消されていなかった。


「前はちゃんと働いてたけどね」


 微かに見栄を張る。ちゃんと働いていた時期などない。

 風太は、今はフリーターなのかと尋ねた。よく考えたら風太なりに気遣って逃げ道を用意してくれたのかもしれない。その逃げ道に易々誘われた自分が恥ずかしかった。


「徳田先生。ちょっと相談に乗ってもらっていいですか?」


「……まあ、いいけど」


 その相談があるから、わざわざ自分に声を掛けてきたんだろうかと拓人は思った。金銭絡みだとしたら、期待されたところで申し訳ないが力になれそうにない。

 書店に着き、拓人は二人分のブレンドコーヒーを注文した。財布を出す風太に奢ることを伝え、代わりに席を確保するよう伝える。


 席を探しに店の奥へ向かった風太の背中が、俊也の後ろ姿と重なった。

 失ったものは、取り戻せない。多分プロになれたとしても……。

 どうして大事なことほど、手遅れにならないと気づけないのだろう。……違う。大事なことだから、重たくて、窮屈に感じて、楽になりたくて捨てたのだ。天運ではない。

 そんなふうに考えていたから、風太の相談は拓人にとって全く予想外のものだった。


「進路に悩んでまして」


 コーヒーを一口飲んだ風太は、あちっと言いながら軽く舌を出し、カップを置いた。猫舌のようだ。拓人も同じなのでカップにはまだ口をつけていない。


 いつの間に俺は、人様に人生相談されるような身分になったんだ?

 かつてなら意気揚々と相談に乗っていただろう。しかし北本に見捨てられ、家族から突き放され、居場所を失った今の拓人には力不足の相談だ。

 拓人の沈黙を、風太は話の催促と受け取って語り続ける。


「サラリーマンになるつもりだったんですけど、この前の新年会で色んな人と話して、やっぱり小説家になりたいって強く思ったんです。でも僕って、実は今まで一度も小説を完成させたことがなくて」


「短編、書いてなかったか? SNSで宣伝してたの見たけど」


「短編は書けるんです。ページ数が少なくて済むから」


 妙な話だなと思った。文章は書ける。しかし書き続けることはできないということか。


「風太君がネットに投稿してる短編を読んだけど、正直、俺は才能を感じた」


 SNSで頻繁に絡んでくれる若者に対し、無関心を貫くことはできなかった。風太がネット上にも小説を投稿していると知って、拓人はそれを何度か読んだことがある。


 風太には間違いなく才能があった。彼の文章は荒波のように猛々しくて、まるで書道のパフォーマンスのように一字一字から豪快な勢いを感じる。なのに、時折凄く繊細な文章もあって、その落差が形容し難い快感を生む。


 拓人が読んだのは陸上部の少年が主人公の物語だった。走っている時の疾走感と臨場感は、読んでいるだけで手に汗握るほど伝わってきた。その一方で、走者の胸中にある穏やかな気持ちが語られているシーンでは、みるみる共感し、目尻に涙が浮かんだ。チームのエースという重責を背負う少年。しかし少年はただ走ることが好きなだけだった。たったそれだけのストーリーをこの上なく面白く書いていた。

 題材がシンプルなので、あれを長編でやろうとすると尺が足りないだろう。しかし風太なら別に、長編に相応しい壮大な物語を綴れるような気がした。


「短編と同じクオリティで、長編も書ければ……」


 口を閉ざした。

 書ければ、何だ? プロになれる? ――二十年間、小説のことだけを考えて生きてきたにも拘わらず、プロに掠りさえしなかった自分にそれを説く資格などあるのか?


「……プロを目指すとして、どういうルートにするつもりなんだ?」


「新人賞を獲りたいです。今月末に締め切りがある、だいち小説賞とか」


 話題を変えるためだけの空虚な問いかけをしてしまったが、妙な偶然が発覚した。


「俺も、だいちはずっと狙ってるよ」


「ほんとですか!? やっぱり、だいちは憧れますよね。あ、でもそしたら僕たちってライバルになるんですかね」


 もう俺は書いてないけどね、とは言えず適当に笑って流した。

 お守りも、もう持ち歩いていない。今思えばあれはお守りなんかではなく、たちの悪い呪いだったのだ。あれのせいで自分には可能性があると思ってしまった。あれのせいで自分にはプロを目指す資格があると勘違いしてしまった。


 雑紙に名が載った時は、跳び上がって踊るほど歓喜した。だが、今思えば――完膚なきまでに叩きのめしてほしかった。

 この世界は残酷だ。お前には才能なんて皆無だぞと、誰も言ってくれない。


「徳田先生?」


 風太の純真な瞳が向けられる。拓人は「何でもない」と言って誤魔化した。

 もし、自分が今も小説を書いていたら――彼のことを脅威だと認めていただろう。相談にも乗らなかったはずだ。敵に塩を送るなんて、少し前の拓人なら考えられない。

 燃え尽きたからこその優しさが、今の拓人にはある。

 それはかつて、愚かだと感じていた穏やかさに他ならなかった。


「長編が書けないのは、やる気の問題か?」


「多分、そうです。途中でダレてしまうというか」


 恥ずかしそうに笑いながら風太は言う。だが拓人は、今の回答で風太が抱える致命的な欠陥を理解した。

 単純に、やる気がない。

 珍しい話ではなかった。だいち小説賞に応募するなら、文章量の下限はおよそ八万文字となる。だが一般的な小説の文量はもう少し多い。大体、十万文字は超えるだろう。


 小中学生の頃に宿題で出されるような作文は、四百字から八百字くらいの文量だ。仮に一日八百字を書くとしたら、一冊完成させるのに百日以上はかかる。

 拓人は一日に安定して五千字書くことができるが、それはつまり一日に六枚の作文用紙を埋められるということだ。新年会で話を聞いた限り、作家志望の人間にとって一日五千字は優れても劣ってもいない速度のようだが、これができない人間は多いだろう。

 小説を書くには、世界一地味な根気がいる。


「でも短編はたくさん書いてるだろ? それこそ、全部合わせたら一本の長編くらいにはなるはずだけど」


「連作短編の形式は僕も考えましたけど、短編繋げるだけで長編にはならないじゃないですか。やっぱり長編にするなら、全体に繋がりが必要だと思ってて。でも、その繋がりを考えているうちにどうしても筆が止まってしまうというか」


 不思議な子だなと思った。

 才能はある。なのに最後まで書く根気がない。

 あまりにも勿体ない若者だ。彼が羽化すれば、一体どんな素晴らしい作家になるのだろうと空想する。いっそ自分が彼を導ければと思うが、屑籠に捨てたお守りのことを思い出した。無責任な応援をすれば、拓人は風太にとってのお守りになる。


「就活してるってことは、小説家を目指してないんじゃないのか?」


 風太の顔が強張った。


「仕事しながら小説を書き続けるのは簡単じゃないぞ。平日の朝から晩まで働いて、家に帰って小説を書くのは結構きつい。頭が疲れて一文字も書けない日だってある」


 拓人は司書補だった頃を思い出した。サラリーマンとは言えないが、日々のスケジュールは似たようなものだろう。


「だから、フリーターになったんですか?」


 風太が真剣な面持ちで拓人を見つめる。

 腹を割ろうと思った。

 こんな、みっともない人間の話を真摯に聞いてくれているのだ。これ以上、彼の前でみっともない人間でありたくない。嘘を重ねるのはもうやめることにする。


「俺は、ただの社会不適合者だ」


 風太が不思議そうに目を丸くした。その反応を見て開き直れた。世の中にはこういう情けない人間がいることを、包み隠さず彼に伝えたくなった。


「小説、もう書いてないんだ。年始に家族とトラブルになって、疲れてしまって。……俺は小説のために色んなものを切り捨てすぎた。家族も友達も、皆いなくなった。フリーターになったのも、小説を書くためでもあるけど、多分本当はそれだけじゃなくて、小説を書くことしかできない人間だからだと思う」


 己の半生を一言で伝えるのは厳しかった。自棄と恥辱、二つの感情が綯い交ぜになって話の順序もめちゃくちゃになってしまう。

 作家志望が聞いて呆れる文章力だ。いや、元作家志望ならこんなものか。


「小説を書くことしかできない人間って……どんな感じなんですか?」


 風太は純粋な疑問をぶつけてきた。てっきり馬鹿にされると思ったが、まさかそんなところに疑問を抱くとは。若い子の感受性はよく分からないな、と拓人は苦笑する。或いはこの風太という青年には、特別な感性が宿っているのかもしれない。


「野心に操られてる人形みたいな生き方だよ」


 久々に複雑な考えを言語化した。まるで小説を書いている時のような気分になった。今この時だけ、拓人にとって風太は原稿のような存在に感じた。


「昔は俺もそれなりに働いてたんだ。でも働くうちにふと疑問が湧いてな。こんなことをしている暇があるなら、もっと小説を書くべきじゃないか? って」


 風太が頷き、話の続きを聞きたがる。コーヒーはきっともう冷めているが、どちらもマグカップに見向きすらしない。


「その疑問は消えなかった。働いている時だけじゃない。友人と一緒にいる時も、家族団欒の時も、ずっと頭の中に居座るようになった。……こんなことしている場合か? 休んでる場合か? まだプロになってないのに遊んでいいのか? ライバルたちは今も小説を書いているぞ? 俺も今すぐ小説を書くべきなんじゃないか?」


 己の人生をどん底に追いやった呪いを、拓人は語る。


「お前、小説以外のことに時間を割いている場合か? ――そんな疑問がずっと頭に残るんだ。だから俺は、小説しか書けなくなった」


 戸部拓人にとって、野心とは呪いだった。それを今はっきり自覚する。

 大学卒業後、就職もしないで実家に住みながら小説を書き続けた。最初は両親も応援してくれていたと思う。だが次第に、夢を追うという大義名分に甘えているだけだと気づいたのだろう。母は親戚の伝手を頼り、図書館が司書補を募集してるからなってみないかと提案した。本に関わる仕事なのでそれなら夢の糧になるかと思い、司書補になった。


 だが、風太に語ったように、そこで呪いに侵された。こんなことしている場合じゃないという焦りは、拓人に様々なものを切り捨てさせた。俺はお前らと違う。こんなことに時間を使っている余裕はない。お前らの下らない人生と一緒にするな。俺は一分一秒を争うほど本気で夢を追っているのだ。


 そんな考えに支配された人間が、職場の人間関係に馴染めるはずもなかった。だから孤立してフリーターになった。しかしフリーターになっても呪いは消えなかった。結局、たとえ一分でも小説以外のことを考えると、拓人の心は蝕まれるのだ。野心が切っ掛けだとしても、実態は嫌なことができないただの餓鬼である。


「夢ばっかり追い続けてると、こんな人間になっちゃうかもしれないから、風太君はもう少し視野を広くしていいと思う。まだ若いし、取り敢えず今は就職活動に専念してみたらいいんじゃないか?」


 親みたいなことを言っているな、と自嘲したい気分に陥った。自分は散々、親の気持ちを無視してきたくせに。父と母の気持ちが分かった気がした。


「徳田先生は、後悔してるんですか?」


 純真な眼が拓人を見る。


「してるよ」


「なんでですか。勿体ないですよ。これからも小説書きましょうよ」


 風太は前のめりになって言った。


「僕、本当に普通の大学生なんです。周りにいる友達も皆普通です。だからこそ知ってます。普通の人は、そんなふうに一つのことに打ち込めないです。打ち込まないんじゃなくって、打ち込めないんです。皆、本当は徳田先生みたいに、たった一つのことに打ち込みたいんですよ。僕だってそうです」


 かつては拓人も同じことを考えていた。

 だが結局、拓人は多くのものを切り捨てる羽目となり、そうじゃない普通の人たちは幸せになった。北本がいい例だ。彼もまた、一つの物事に打ち込む人生を辞めたからこそ幸せになったように見える。


「普通が一番幸せだよ」


「そんなわけないじゃないですか」


 当たり前のように風太は言う。


「そんなわけないから、僕も徳田先生も小説を書いてるんじゃないですか」


 ごう、と風が吹いたような気がした。

 風太から放たれる灼熱の意志が、強い風となって全身に叩き付けられる。


 なんで、この子はこんなにも、自信満々に――。

 絶対に自分が正しいと言わんばかりの風太の表情に、拓人は何も言えなかった。彼は純粋なだけの青年ではない。その内側に、譲れない熱い想いを宿している男だった。


「仕事よりも、友達よりも、家族よりも、夢中になれるものがあるんですよね。それって珍しいけど悪いことじゃないと思います」


 そうかもしれないと思ってしまった。

 悪ではないのだろう。ただ自分は、小説を書くことに夢中なだけだ。それを捨てるということは、家族以上のものを捨てることに他ならない。


 友や家族を失って、筆を折るほどの後悔をした。

 だが、友や家族を失って、更に筆まで折るのは正しい生き方なのか?


 そうじゃないだろう。

 俺にとって、小説を書くことは、幸せになるための手段なんかじゃなく――。


「そんなに小説を書くのが好きなら、一生続けましょうよ」


 稲妻が、身体の芯を貫いた。

 現実という名の澱の奥深くに沈んでいた拓人の心が、激しく揺さぶられる。


 小説を書くのが好き。そんな純粋な気持ちを、久しぶりに思い出した。


 いつからだろう。プロになったら報われるはずだという気持ちばかりが頭の中を占めるようになったのは。現実での失敗が増える度に、小説を書くことが目的ではなく手段に成り下がっていった。


 俺はただ、話し相手を欲していただけなのか?

 そんなわけがない。寝ても覚めても小説のことばかり考えてきた。バイトがない日は朝から晩までずっと原稿と向き合ってきた。これがただの話し相手だとすれば、喉が乾ききるどころか擦り切れて血反吐を吐いているに違いない。


「続けて……」


 無意識に、口から言葉がこぼれ落ちる。


「続けて、いいのか? 何もかもを切り捨てたくせに、この期に及んでまだ……」


「いいと思います」


 風太は、拓人の顔を見据えて頷いた。


「だって徳田先生、小説のこと話している時、めっちゃ楽しそうですし」


 まるでその時の拓人を模倣するかのように、風太は楽しそうに笑った。

 そう、だったのか――。

 自覚がなかった。でも、きっとそうなのだろう。


 頭でどれだけ戒めても心までは潰せない。本心では、やっぱり今も夢を追っていたいのだ。あらゆるものを切り捨てて、それでもなお続けたいと心はずっと叫んでいる。


 プロになりたいという願望は勿論ある。

 だが、決して、プロになるために小説を書いているわけではない。

 静かに一息零した後、拓人はすっかり冷めてしまったコーヒーを一気飲みした。


「風太君、ごめん。そろそろ俺は帰るよ」


 驚く風太に、拓人は言った。


「原稿、書きたくなったんだ」

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