第5話

 小説を書けなくなった拓人にとって、一日は酷く長く感じた。バイトを増やそうと思ったが、まだ年始ということもあって募集しているところは少ない。


 眠る以外にやることがなくて、身体は更に太った。母からまた蔑まれそうだが、もう二度と会わないかもしれないと思うと少し気が楽になった。代わりに、更に自分のことが嫌いになった。


 一度だけ義理の弟である健太から連絡が来た。彼が言うには、ここ最近、俊也が多感な時期ということもあって美由は精神的に疲労していたらしい。だからそのイライラを拓人にぶつけてしまっただけで、あれは本心からの言葉ではないとのことだった。


 嘘だ。本心に決まっている。

 美由は何年も前から拓人のことを見下していた。あれは今までの積み重ねが爆発しただけなのだ。拓人の切り捨ててきたものが、美由の心を何度も突き刺し、蝕んでいた。


 罪を思い出しながら毎日を過ごすうちに、怠惰な生活に嫌気が差した。こと小説の執筆に対しては、拓人はどこまでも勤勉で貪欲だった。寝ても覚めても創作活動に没頭していた拓人は、外見とは裏腹に堕落した人生を満喫できる性分ではない。自由が苦痛に変わるまで、そう時間はかからなかった。


 気まぐれでSNSを始めた。プロフィールには元作家志望とだけ書いたが、三十秒ほど悩んだ末に元の部分を消す。


 拓人が今までSNSから遠ざかっていたのは、他者との関わりが小説の執筆に不純物を持ち込むと思っていたからだった。小説の執筆は思想や理念を燃料にして行うものだ。他人の思想に汚染されると、自分だけの世界を表現できなくなる。


 だが、二十年間握り続けてきた筆を易々と折ってみせた孤独には敵わなかった。

 拓人はSNSで小説に対して思っていることをひたすら呟いた。時折、己の失態についても書いた。原稿は書けなかったが、不思議とSNSで呟きを書くことはできた。どちらも屑籠に向かって言葉を投げ捨てているようなものだが、SNSの呟きは、夜空に向かって思いの丈を叫んでいるような爽快感もあった。誰かに聞いてほしいわけではない。しかし何かに向かって叫ばずにはいられない心持ちだった。


 ある日、作家志望者たちが集まる新年会が都内で開催されるという呟きを見た。参加資格は作家志望であれば誰でも問題ないらしい。年齢も性別も不問だ。


 興味はあったがどこか他人事のように感じたので、いいねだけ押した。すると主催者から参加しませんかとメッセージを貰った。拓人の今までの呟きを読んで会ってみたいと思ったらしい。数合わせのための社交辞令かもしれないが悪い気はしなかった。それに、久しぶりに感じる人との縁だった。


 拓人は「参加します」と答え、新年会の開催場所を調べた。


◆ ◆ ◆


 作家志望の新年会は、都内のイタリアンレストランで行われた。

 参加者は五十人程度。今は原稿を書いていないため、身だしなみを整える時間はいくらでもあった。しかし整え方が分からず、髭を剃ることくらいしかできなかった。外に出てから爪も切るべきだったかと反省した。


 店の前に十人程度の人集りができていた。彼らが新年会の参加者だろうか? 確信できないため人集りの前を二往復くらい歩き、会話に聞き耳を立てた。しかし上手く聞こえなかったため、仕方なくこちらから声を掛ける。


「すみません。こちらって新年会の集まりで……?」


「あ、そうですよ。作家志望の方ですか?」


「はい。徳田ベトです」


 SNSはペンネームで登録していた。他の作家志望も同様のようだった。

 人集りと一緒に店の中に入る。店の内装はお洒落だったが、それを打ち消すのが作家志望たちの見た目だった。右を見ても左を見ても中年の男ばかり。それも、太っていて不衛生で、鏡の前で毎日見るような容姿の男ばかりだった。

 居心地がいい。そう感じた。


「今日は貸し切りなので、存分に寛いでくださいね!」


 幹事が大きな声でそう言ったので、ますます居心地のよさを感じた。


「徳田先生は普段どんなのを書いてるんですか?」


「社会派ですね。こう、世の中全体を動かすようなドラマが好きで」


「本格的なんですね。僕はミステリーを書いてて」


 信じがたいほど居心地がよかった。

 この新年会はいわゆるオフ会で、参加者は皆、同士と言っても過言ではない。

 今まで拓人の周りに、自分以外に小説を書いている人間はいなかった。だがここにいる人たちは、当たり前だがちゃんと小説を書いている。他人と小説の話をするのがこんなにも面白いとは思わなかった。


 そして何より、皆ちゃんと堕落している。

 自分と同じだ。夢と現実逃避を区別できないままそれのみに没頭してしまい、もはや引き返すことのできなくなった人間たちが、今ここに集結していた。

 ここは、あらゆるものを切り捨ててきた人間たちの掃き溜めだった。

 そこに居心地のよさを感じている自分は、まさしく落伍者だ。


「徳田先生は、ぶっちゃけ今の業界をどう思いますか?」


「守りに入っててつまらんと思ってますよ。時代小説とミステリーばかりで。こういう偏った流行こそ、大御所に変えてほしいですけどね」


「ミステリー書いてる身としては厳しい意見ですけど、気持ちは分かります。ミステリーだらけっていうのも退屈ですよね」


 先生と呼ばれるのが心地よかった。

 ここには、自分よりも多くのものを切り捨てている人間がいる。年上もいる。バツイチもいる。無職もいる。親のスネかじりもいる。


 この世界なら、俺は尊厳を保つことができる。

 多分、全員がそう思っている。


 久々の和気藹々とした会話に背中を押され、アルコールを多めに摂取してしまった。少し酔いを抜きたくなったので、店内をうろうろすることにした。


 中心のテーブルで、名刺交換をしているグループがあった。拓人は二十年前、作家になると決めた時に作った名刺を取り出す。いつか名刺を配る日を夢見ていたが、結局今日まで小物入れの奥で埃を被らせていた。先程まで話していた男とは交換したが、他の人とはまだしていない。


「交ぜてもらってもいいですか?」


 酒の力でいつもより強気になった拓人は、自ら声を掛けた。

 直後、後悔する。

 若い人が多い。邪魔だったかもしれない。


「いいですよ!」


 鼻白む拓人に、若い青年が笑顔で言った。子犬のように明るくて親しみやすい人柄に感じた。しかし多くを切り捨てている拓人と違って、身だしなみは整っている。線の細い体型にシンプルなセーターの組み合わせは、中性的な印象を醸し出していた。


「徳田ベトです」


 名刺交換のやり方がよく分からなかったので、適当に差し出した。すると、偶々一番近くにいた若い女性が交換に応じてくれた。


「ナナです」


 お洒落な名刺だった。左半分が半透明で、受け取った自分の無骨な指が透けている。ナナという二文字だけのペンネームもアパレルブランドのような洗練された響きに感じた。


 名刺の持ち主も美人だ。二十代の半ばくらいだろうか。柔らかく巻いた茶髪が可愛らしい。白くて小さな手と、その先端にある薄い桃色のネイルに視線が引き寄せられる。

 鼻の下が伸びていないか不安を感じていると、先程の青年が近づいてきた。


「すみません。僕、名刺用意してなくて」


「あ、じゃあ渡すだけでも」


「ありがとうございます。僕のことは風太って呼んでください。本名ですけど」


 子犬のようだと思った第一印象が覆ることはなかった。

 こんな若い子もいるんだな、と思う。しかし拓人も小説を書き始めたのは高校生の頃からだ。あの頃から、探せばそこら中に同士がいたのだろう。


 彼らも堕落しているのだろうか。目には見えないどこかで凄惨な悩みを抱えているのだろうか。知りたいが、それを聞くには信頼が足りない。

 少なくとも風太と名乗った青年だけは会話に乗り気のように見えたが、若い子は若い子同士で話したいだろうなと思ってすぐにテーブルから離れた。バイト先にいる若い男にもこういう態度を取ればよかったのかもしれないと今更思う。

 深い闇が一つ、晴れたような気がした。

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