第4話
東京へ向かう新幹線の中で、拓人は呆然としていた。
年始ということもあって新幹線は混んでおり、自由席しか取っていなかった拓人は辛うじて通路側の席に腰を下ろすことができた。そこら中から賑やかな話し声が聞こえる。帰省していた家族たちの幸せそうな歓談が拓人の心を揺らした。
鞄からノートパソコンを取り出し、テーブルの上で開く。小説を書くための準備だけならいつでもどこでも完璧だった。外出中も執筆できるように奮発して購入したノートパソコンはすぐに起動し、明るい画面を映し出す。
だが、書けない。
書けない。完全に、一文字も書けない。
北本の冷たい目が、美由の泣き叫ぶ顔が、頭の中で反芻される。
勘当してよ、なんて残酷な言葉は咄嗟に出るものではない。きっと自分の知らないところで美由は何度も言っていたのだろう。兄は勘当した方がいいんじゃないか。俊也の人生に悪影響を与えたあいつは家の敷居を跨がせない方がいいんじゃないか――。
二十年間プロを目指してきたが、ここまで調子を崩したのは初めてだった。だが、いつ来てもおかしくない異変だったに違いない。今までずっと瀬戸際で生きてきたのだ。正気と狂気の境目で。現実と夢の狭間で。
北本の話を思い出した。葬式に来なくていいと言われて、我に返ったという話を。
我に返る。今がまさにその時だと思った。
何故、自分は小説を書いているのだろう。こんなにも苦しい思いをして。
小説を書き始めたのは高校生の頃だった。
あの頃から拓人は対話が苦手だった。相手の気持ちを察することが苦手だった。だから小説の執筆に夢中になった気がする。否、小説の執筆に逃げたのだ。
何故なら原稿は人と違って立ち去らない。こちらの考えが纏まるまでいつまでも待ってくれる。それに原稿は編集できる。失言してしまっても気楽にその事実を抹消できる。原稿は反論しないし、ずっと傍にいてくれるし、陰口も叩かない。何を喋っても、どんな言葉でも受け入れてくれる。
拓人にとって原稿は最高の話し相手だった。
つまり求めていたのは、人との繋がりだった。
吐き気を催し、口元を抑えた。隣のサラリーマンが嫌そうな顔でこちらを睨む。申し訳ないと思った。今まで見下していた普通の人に、拓人は申し訳ないと感じた。
俺はただ、話し相手を欲していただけなのか?
二十年間ずっと原稿を書き続けてきた。それは、孤独を紛らわすという有り触れた現実逃避でしかなかったのか?
俺はお前らとは違う。そう自分に言い聞かせてきた。
何も違わないじゃないか。俺はただの、どこにでもいる凡庸な人間だ。
鞄の中から『だいち十月号』を手に取った。このお守りは、己の人生は間違っていないと証明するためのものだ。
だが、十年前のものだった。
あれ以来、一度も選考を通過していない。全て一次落選。十年前を最後に、拓人のペンネームは一度も雑紙に載っていない。
マグレだったのだ。
あと一歩でプロに届くなんて、妄想だった。
背後から陰が迫った。もう逃げられない。家族、友人、成績、職歴、貯金――今まで切り捨ててきた全てのものが反旗を翻し、深い闇となって拓人を飲み込んだ。
十年前の紙切れで、食い止められるわけがない。
蹲って、涙を流す。新幹線が暗いトンネルの中に入った。正月の温かい雰囲気に包まれる車内で、拓人はただ一人、絶望の底へ墜ちていった。
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