第3話

 家に帰った拓人は、すぐさまその日の不満を原稿に向かって発散していた。

 友達とは何なのか。孤独と孤高の違いは何なのか。北本を怒らせた主張を覆す気はなかった。拓人は穏やかな人間を愚かに思っている。あれらは、ただ生きてるだけで偉いなんていう慰めを本気にしなければ気が済まない弱者の群れだ。本気でそう思っている。


 しかしふとキーボードを叩く指が止まった。

 これは、現実逃避なのか?

 いつもよりキーボードを叩く指に力が入っていた。ひょっとして俺は、気を紛らわすためだけにこんな大層なことをしているのではないか。そんな疑問が沸々と湧く。現実から目を逸らすためだけに、文字の羅列をひたすら積み上げているのではないか。だとしたら馬鹿みたいな人生だ。


 北本との縁が切れたという事実が、じわじわと心を蝕んでいた。拓人にとって北本は最後の友人だった。他の知人が自分のもとから離れていっても、北本だけはずっと自分を気に掛けてくれていた。心のどこかで北本は自分を嫌わないと高を括っていた。

 夢のために色んなものを切り捨てている自覚はある。だが、北本は。長年の友人であるあいつまで切り捨ててしまうとは、予想外だった。

 指が止まる。筆が止まる。そのまま心の臓まで止まってしまいそうな静寂を感じた。


 遂に訪れた完全な孤独。しかしそれもまた夢の糧となるだろうと少し前までは思っていたが、どうしても原稿に集中できない。

 俺は、お前らとは違うはずだ。

 自分で自分に言い聞かせた。バイト先の糞餓鬼も、北本も、所詮は夢を諦めて無味無臭の生き様を晒している愚民に過ぎない。諦めて、二度と夢を叶えられない彼らと違い、自分の未来はまだ可能性に満ちている。


 てらてらと輝くモニターをじっと睨んだ。

 プロにさえなれれば――。

 現実逃避でないことを証明できる。北本と縁を切ったのも仕方ないことだったと言えるようになる。これまでの全ての犠牲を肯定できるようになる。


 書け。


 書けば、世界が変わる。


 変わらなければ――終わりだ。


 危機感が集中力に変わった。原稿の執筆に没頭する。だいち小説賞へ応募するには最低でも八万字近くの文量が必要だ。拓人の場合、その文量を書くには大体一ヶ月くらいはかかる。締め切りは三月末。余裕で間に合うはずだが、急かされるように書いた。


 薄暗い部屋で原稿だけを目に映す。モニターが放つ無機的な光を浴びている間は心が安らいだ。しかしこの光は確実に陰も落としている。陰は今も少しずつ膨らんでいる。


 もう、引き返せない。

 プロになる以外で、失ったものを取り戻す方法はない。

 呼吸の震えを自覚したその時、机の上に置いたスマートフォンが通知を報せる。

 バイト先のグループチャットで、年末年始の予定を共有するようにと連絡が入った。すぐに何人かが出勤できない日を書き込む。

 恐らく、今年も年末年始は実家に帰らなければならない。

 陰は、背後から躙り寄っていた。


◆ ◆ ◆


 交通費を出すからと言われ、拓人は年始に実家へ帰ることにした。

 ダウンジャケットのポケットに片手を突っ込みながら久々に実家のドアを開ける。すると丁度、玄関前の廊下を歩いていた母と目が合った。


「もう皆来とるよ」


 あけましておめでとうの挨拶もなく、息子の名を呼ぶことすらなく、母は下らないものを見るような目で拓人を一瞥し、居間へ向かった。その手にはおせち料理の入った重箱がある。居間に家族たちが集まっているようだ。

 拓人は洗面所で手を洗いながら鏡を見た。髭くらいは剃った方がよかったか。しかしそんなことする暇があるなら小説を書きたい。

 居間に入ると、家族たちの視線が一斉にこちらを向いた。

 その視線が離れる前に、素早く挨拶をした。


「あけましておめでとう」


 溜息を吐く母。微笑する父。顔を顰める妹。苦笑する義理の弟。今年で中学二年生になる甥は、冷たい瞳をこちらに向けていた。

 拓人に会いたい人間は一人もいなかった。この家は、年末年始は親戚一同で集まるという慣習があり、そこに長男が一人だけいないのは決まりが悪いという理由だけで毎年呼ばれている。居たたまれない空気を避けるためにいつも断っているが、母はその度に「お父さんが会いたがってるよ」と連絡してくるのだ。母自身が会いたいと言った試しは、拓人がフリーターになってからは一度もない。

 取り敢えず、義務を果たすことにした。拓人は財布の中に入れていた小さな封筒を取り出して、甥の俊也に渡す。


「お年玉。大きくなったな」


「……ありがとうございます」


 昔は純真に慕ってくれた俊也も、いつしか冷たい目で拓人を見るようになった。拓人の妹である美由が、拓人を見る目と全く同じだ。血を継いでいるのは間違いない。成長し、社会を知り、拓人が世間一般の中のどの枠に所属している人間なのか分かったのだろう。

 早く、プロにならなくちゃいけない。

 俊也の信頼を取り戻すためにも。


「お義兄さん、いつもありがとうございます」


「いや、このくらいはね」


 義理の弟である健太がお年玉の礼を口にした。だがその笑みはぎこちない。去年、口論になりかけたことを思い出しているのだろう。

 健太は去年、負担になるようならお年玉は必要ないと言ったのだ。それは十中八九優しさによる発言だが、拓人には哀れみに聞こえた。


 お年玉すら払えない人間と思われてたまるか。

 ぎこちなく笑う健太を見て達成感を覚えていると、美由が鋭く睨んできた。私の愛する夫とそれ以上喋るなと言わんばかりの眼光に射貫かれ、適当に笑う。分かってる。別に俺も話したいわけじゃない。


「拓人は、仕事はどんな感じだ?」


 こたつに入って寛ぎ始めると、父から話題を振られた。銀行員だった父は生来の真面目さから同寮たちに慕われていたらしいが、今や白髪と皺がよく目立つ老人になった。六十で仕事を辞めてから新しい趣味を見出すことはできず、自ら振れる話題といえば精々仕事のことくらいしかないのだろう。

 だから、父に対しては仕事の話をするなとは思えなかった。


「まあまあかな。生きていく分には問題ないよ」


「ん、それなら大丈夫だな」


 去年も一昨年もずっと同じ答えしか告げていないが、父は納得した。

 父は視線を左右に彷徨わせ、モゴモゴと唇を動かした後、黙る。この口下手さが自分にも移ったんだろうなと思った。


「あんた、ほんとみっともない見た目ね」


 母が睨んでくる。まるで父の代わりに口を開いたかのような様子で。


「もう結婚してとは言わんからさ、せめてマトモに見えるように生きてほしいわ」


 溜息交じりに告げる母は、もはや息子のことを愛してなんかいない。健太が「まあまあ」と宥めにかかるが、母の言葉を否定する者は誰もいなかった。

 総意だった。この家族の、戸部拓人に対する認識だ。


 マトモ……。

 マトモって何だ?


 胸中がささくれ立つ。どうして彼らは認めてくれないのだろうか。マトモという概念に全く惹かれていない自分の存在を。

 父は銀行員。母は専業主婦。美由は事務員。健太は薬剤師。


 この中で、歴史に名を刻む者はいない。

 いるとしたら――俺だけだ。

 普通との決別を果たした、俺だけだ。


 家族に対する苛立ちは諦念に変わった。無言で立ち上がり、トイレに行くフリをして別の部屋でしばらく時間を潰すことにする。親戚の集まりで社交的でないことをしている自覚はあるが、もう奴らと話す気にはなれなかった。

 鞄から『だいち十月号』を取り出し、静かに読む。

 誌面に刻まれた徳田ベトの名を見て笑みを浮かべた。家族はまだ知らない。この雑紙に拓人のペンネームが載ったことを。あと一歩でプロになれることを。


 やがて日が暮れたので、帰ることにした。

 部屋を出て、トイレへ行く。気は進まないが最後に軽く挨拶だけはしておこう。使い古したボロボロのズボンを下ろしながらそう考える。


「あの人ってさ」


 廊下の方から、俊也の声が聞こえた。


「今、何してんの?」


「さぁ。まあ、関わらんとき。痛い目遭ったでしょ?」


「うん」


 話し相手は美由のようだった。ガサゴソと物音がする。丁度、美由たちも帰る予定だったのだろう。貰ったお土産などを整理しているようだ。

 二人の話し声が聞こえなくなって、しばらくしてから拓人はトイレから出た。

 美由が一人だけ残っていて、こちらを振り向いてぎょっとする。今のは聞かれたくない話だったようだ。

 あの人とは、俺のことか。


「痛い目って何?」


 そう尋ねると、美由は微かに身体を震わせて答えた。


「昔、あの子に、普通に生きるのは間違いだって教えたでしょ?」


 教えた気がする。記憶にはない。だがその価値観は今も持っているため、教えたとしても不思議ではない。


「あの子、それを真に受けたせいで虐められたのよ」


 え、と掠れた声が出た。

 その他人事のような反応が駄目だったのかもしれない。美由は瞳に憎悪を灯した。


「アンタの真似して、友達に偉そうなことばっかり言うようになっちゃったのよ。お願いだからもうあの子には関わらないで。もしくは真人間になって」


 泣きそうな顔で美由は言った。

 だがその心底人を見下すような態度を見て、落ち着かせたばかりの怒りが蘇った。俊也が虐められてるなんて知らなかった。流石にそれは俺が悪い。……理性はそう言うが、熱を帯びた頭は冷めない。切り捨てたからだ。人に対する我慢を。


「真人間って、何だよ」


 北本のことを思い出した。目の前から去る直前の、こいつは駄目だと言わんばかりの北本の目。己の人生にコイツは不要だと断定した時の冷めた態度。


 やめろ、もういい、喋るな。

 心が叫ぶ。だが口は止まらない。

 プライドが……二十年分のプライドが、勝手に言葉を作る。


「自分が地味な人生歩んでるからって、俺に嫉妬してるのか?」


 美由の顔が真っ赤に染まった。

 恥ではない。怒りだ。そう思った直後、拓人の頬を美由の掌が叩いた。

 眼鏡が床に落ちる。


「いい加減にしてよ!」


 美由が叫ぶ。両目からは涙が零れている。


「母さん!」


 何事かと駆け寄ってきた母に、美由は泣きついた。


「私、もうコイツやだ! 勘当してよ!」


 がつん、と頭蓋を殴られたような衝撃だった。頬の痛みなんて比ではない。

 勘当して――まさか実の妹に、泣きながらそこまで言われるとは思わなかった。

 全身から力が抜け、床に尻餅をつく。

 視線が集まった。母の、父の、美由の、健太の。


 ――出て行け。


 家族の総意を感じた拓人は、眼鏡を拾い、逃げるように実家を後にした。

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