第2話
築四十年を超える三階建てのアパートに帰ってきた拓人は、玄関のドアを開く前にゆっくり深呼吸した。職場でのストレスを部屋の中に持ち込みたくない。肺に溜まった酸素に怒りと不満を押しつけ、呼気と共に無に還す。
俺の本当の居場所はここだ。
小さなスーパーで働いている自分は、本当の自分ではない。そう強く念じ、拓人は狭い賃貸の部屋に入った。部屋に溜まった冷たい空気は埃っぽかったが、らしいと感じる自分がいる。この高揚感があるからマメに掃除する気はない。
時刻は午後九時。バイト前に軽く食事は済ませたのでまだ腹は空かない。パソコンとモニターの電源をつけ、インスタントコーヒーを入れた。
そして、原稿と向き合う。
書き始めたばかりの原稿だった。大抵、小説は書き出しで躓くことが多い。しかしそこさえ乗り越えれば、筆の乗る楽しい時間がしばらく続く。まるで離陸した後の飛行機のように、安定した速度でありながら雲を突っ切るような爽快感をずっと得られる。
作家になりたいと本気で思い始めたのは大学に入った後だった。しかしそれまで平凡な人生を歩んでいたというわけではない。生来、口下手で無愛想と言われ続けてきた拓人は人付き合いへの猜疑心を捨てきれず、選んだのか強いられたのかは分からないがほぼ孤独な人生を過ごしてきた。しかし心の奥底に眠る承認欲求という名の獅子を持て余し、発散する先を求めた末に執筆という趣味に出会った。この頃、拓人は高校生だった。
やがて受験という一大行事が終わり、心と時間に余裕ができた大学生の頃にプロの作家になるという道を見た。以来、拓人の人生は小説の執筆と共にあった。逆に言えばそれ以外の全てを傍らに置くことはなかった。大学の成績、交友関係、就職先、女、全てを容赦なく切り捨ててひたすら執筆に没頭した。毎日モニターの前でカタカタとキーボードを打つ。ただそれだけの一日を無限に繰り返す。その粘着質な生き様は、自他共に趣味の一言で片付けるには難しい。プロ志望。胸を張ってそう名乗ってもいいくらいには努力していると拓人は確信した。
現在の戸部拓人は、そうして生まれた。
多くのものを犠牲にした。友達は殆どいないし、もう長いことフリーターとして生計を立てている。散髪はいつも千円カット。眉は剃ったことなんてないし、服なんて着れるなら何でもいい。出不精なので腹はどんどん膨らんだ。
貧すれば鈍するというわけではなかった。原稿の執筆に集中したいがゆえに、人の視線を気にすることをやめたのだ。
厚顔無恥、そう言ってきた数少ない友人とは縁を切った。自分は誰よりもストイックな人間であるという自負が、軽率に自分を馬鹿にする発言を許さなかった。
順風満帆だった。
プロにさえなれれば。
本気で原稿と向き合ってから二十年近くが過ぎた。まだプロにはなれていない。
プロになっていないせいで、拓人はただの惨めな男だった。プロにさえなれたら全てが報われるのに。パズルの最後の一ピースがいつまでも埋まらない感覚だった。
プロの小説家になる道筋は幾つかあるが、拓人は新人賞の受賞を目指していた。受賞した暁には、応募した原稿がそのまま書籍になる。だから拓人はこの二十年間、今書いている原稿が本になって書店に並ぶ妄想をしてきた。
受賞しなければ、原稿は一銭にもならない。
紙とインクを無駄使いしただけのゴミとなる。拓人はもう数え切れないくらいのゴミを産出してきた。
今度こそ、と思う。
いつだって思っている。
今書いている原稿は、己の葛藤を赤裸々に、純粋に語ったものだった。社会の生きづらさを書き、読者の共感を呼ぶ。社会性もあるしドラマもある。力作になる予定だ。
腹の虫が鳴り、時間を忘れて没頭していたことに気づいた。時刻は午前零時。簡単に食事を済ませることにする。
湯を沸かす間、バイト先にも持って行った鞄の中から一冊の文芸誌を取り出した。『だいち十月号』、それは拓人にとってお守りのような存在で、常に携帯している雑紙だった。
拓人が二十年前から応募し続けている新人賞に、だいち小説賞というものがある。その賞を開催している出版社が、だいちという文芸誌を発行していた。純文学ではなく大衆文芸。芸術性よりも娯楽に寄せた小説が幾つも連載されている、歴史の長い雑紙だ。
だいち小説賞の選考過程はこの文芸誌上で発表される。一次選考を落選した場合は名前すら公開されないが、二次選考まで進んだ場合は名前がだいちに載る。血の滲むような思いで原稿を書いた拓人は、遂にこのだいちという文芸誌に名を残すことに成功した。結果は二次選考通過、三次選考落選。三次選考の先は最終選考のみである。つまりプロ作家まであと一歩、いや二歩足りなかっただけだった。
その時の結果が記されている『だいち十月号』を、拓人はお守りにしていた。この雑紙が初めて、拓人の努力を肯定してくれた。同時に、それが世間に伝わる形で公開されたことが嬉しかった。ペンネームは徳田ベト。本名を逆さにしただけのものだ。自分からペンネームを伝えるのはなんだかみっともない気がするので、家族にも友人にも拓人はペンネームを教えていない。だが、誰かがこの名前を見て気づいてくれるかもしれないという淡い期待を胸に秘めている。
今書いている原稿も、次のだいち小説賞に応募するためのものだった。俺はだいちに縁がある。ここの審査員とは相性がいい。そう思った。
十一月の夜は流石に寒かった。暖房をつける代わりにヤカンから出る湯気で暖を取る。
沸騰する水を己の心境に重ねていると、スマートフォンが通知を報せた。
友人からの、久々に会わないかという連絡だった。
◆ ◆ ◆
北本は高校時代に一度だけ同じクラスになった友人で、将来はバンドマンで飯を食っていくことを目指していた男だった。過去形なのは、今は家庭を築き、子育てのために安定した職に就き、音楽活動から距離を置いたからである。
当時、軽音部に所属していた北本とは絶対に気が合わないと拓人は思っていたが、北本も拓人と同じく内気な男だった。軽音部は陽気な人間の集まりだと思っていた拓人にとって北本の存在は新鮮に感じ、片や文学を生み出し、片や音楽を生み出すという、創作者として共有できる価値観の多さから親しくなった。
今となっては類似した点など一つもないが。
「娘がギターを弾き始めた時は素直に嬉しかったよ。でも最近、ずっと音楽でプロを目指すって言っててさ。流石に不安を感じてきて」
北本も拓人と同じく夢のために名古屋から上京している。だが北本は都内に住んでいるため、食事の場は北本に合わせて東京にした。拓人にとっては少し遠出する羽目になったが問題ない。拓人は東京が好きだった。いつかこの街に住むための下見気分で、敢えて都内の居酒屋に集まろうと提案したのだ。
「娘さん、いくつだった?」
「十六。高一」
北本はビールで喉を潤す。
北本は二十二歳という若さで長女の出産に立ち会った。相手は当時二十歳になったばかりだったらしい。デキ婚の報告をされた時は「あの北本が」という嫉妬に駆られて毛髪を掻き毟ったが、今となってはどうでもいい。すっかり穏やかになった北本を見る度に思うが、結婚は代償がでかすぎる。
「いいじゃん。まだ若いし」
「そうは言うけどな、実際にそれで人生失敗しかけた俺からすると不安だよ」
「失敗なんてしてないだろ。北本にはまだ可能性があった」
「ないない。音楽の世界は、三十歳でろくに実績ないならもう駄目だ。子供できたのに夢ばっか追いかけて、そのせいで何年も嫁の実家から金借りる羽目になって。義祖母が死んだ後、お前は葬式に来なくていいって言われた時の俺の気持ちが分かるか? 自分が親戚一同に心底憎まれているって気づいたんだ。あの時、我に返ってよかったよ」
北本は楽しそうに語るが、拓人にはつまらない会話でしかなかった。
北本は家庭の話ばかりするようになってしまった。かつて北本とは顔を突き合わせる度に互いの夢の話をしていた。俺は小説家になる。俺は音楽で食っていく。俺は直木賞を獲る。俺は紅白に出る。魂が痺れるような熱い話ばかりしていた。
「人生、意外とどうにでもなるだろ。この国はセーフティネットが優秀だし。俺の見る限りでは中卒も高卒も健全に生きていけてる。最悪、生活保護だってある」
「まあそうかもしんないけど、敢えて下を見たくないっていうか。親目線だと、やっぱ子供には安定した道を歩んでほしいんだよ」
「それは親のエゴだろ」
「親なら誰もが持ってるエゴだよ」
北本の目が一瞬、子供を諭すような優しいものになった。しかしすぐにそれを自覚したのか、北本は誤魔化すようにつまみの枝豆に手を伸ばす。
「戸部は小説に専念するために、わざわざ司書を辞めたんだっけ? 今更だけどよく親が許してくれたな」
親の話も、昔の話も、俺にするな。
お前に何が分かる。夢を諦めたお前に、夢を追い続ける難しさが分かるか。
ぐっと堪えた。
「職場環境が悪かったからな。本に関われると思ったら、安月給のくせに拘束時間も長くて小説を書けなくなった。だから辞めるしかなかった」
色々熟考した末の結論であることを、強く印象づけるように言った。
しかし全てが真っ赤な嘘だった。前の職場は孤立したから辞めたのだ。
北本に言っていないことはもう一つある。拓人は司書ではなく司書補だった。だから後ろ髪引かれるほどの収入がなかった。代わりに責任もなかったが。
「なあ、北本。自分が叶えられなかったからって、娘さんもそうとは限らねぇだろ」
北本の目つきが鋭くなる。
だが、アルコールが脳を焼いていた。口を開けば灼熱の吐息が勝手に放たれる。
「娘さんに可能性は感じないのか?」
「分からないけど、偶に感じる。でも俺に才能を見抜く目があれば、こんなみっともない人生歩んでないしなぁ」
北本が自嘲する。警備員として週六日働く北本は既に二度の出世を経験しているが、それでも同世代の中では収入が低めらしい。正社員に登用された時は大層喜んでいたことを思い出す。あの時、拓人は悟った。この男は音楽の道を完全に諦めたのだと。
「夢を捨てる生き方なんて、俺には考えられないけどな」
酒が染み渡る。身体の中で追い風が吹いていた。
「そんなに、偉いか? 夢を追うことって」
「当たり前だろ。何の目標もなく生きる人間のどこが偉い? 人生を無駄に浪費して、やりたくもない仕事で序列決めて。虚しくならねぇのかって思うよ」
言って、気づいた。
遠回しに北本のことを馬鹿にしている。
拓人としては、日頃から胸中で溜め込んでいる主張の一つを口にしたに過ぎない。決して北本だけを対象とした言葉ではなく、社会全体への問題提起だった。いつも原稿に叩き付けているような、心の奥底で燻っている感情が唇から漏れ出ただけだった。
だが北本に、そんな拓人の事情など分かるはずもない。
夢を追わなくなったこの男に、夢を追い続ける拓人の気持ちは理解できない。
「今、分かった」
北本は舌打ちしてから言う。
「俺、娘にお前みたいな人間になってほしくないわ」
北本は財布の中から一万円を取り出し、叩き付けるようにテーブルに置いて去った。一瞬遅れて屈辱を感じ、金を突き返そうと思ったが、既に北本は店の外に出た後だった。
何故、一瞬遅れた?
一万円札を見た瞬間、家の景色を思い出した。小汚くて、薄暗くて、狭苦しい。隙間風が酷くて、空になったカップ麺の容器が台所を埋め尽くしている家。この一万円を貰えれば、ほんの少しだけいい暮らしができるんじゃないかと思ってしまった。
北本はもう二度と連絡してこないだろう。
また友達が減った。だが、そんなことより悲しいのは……。
精魂込めて原稿を書いているあの部屋が、夢を追い続けるための聖域とすら思っていたあの場所が、本心では貧しさを象徴するものだと考えていたことだ。
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