筆よ走れ

サケ/坂石遊作

1章:戸部拓人

第1話

 戸部拓人が夢のために犠牲にしたものは計り知れない。

 埼玉県の、東京に憧れるも金のない人間が渋々住むような町で、拓人は十年近く暮らしていた。十一月の風は肌寒く、バイト先へ向かう拓人の鼻孔に錆びた鉄の臭いを運ぶ。都会の忙しなさに包まれるような日々を期待していた。蓋を開けば、古臭い空気に押し潰されるようにうだつの上がらない日々を過ごすだけだった。


 拓人のバイト先は地域密着型のスーパーだった。人と喋ることが苦手なので客と会話しない環境で働きたいと思い、商品の陳列なら気も楽かと考えて選んだ仕事だ。別に責任もやり甲斐もほしくない。この仕事を、一時凌ぎ以上のものにする気はない。

 予定では、とっくにこの町を出ているはずだった。

 今頃は、世界中の誰もが知る天才作家になっているはずだった。


「戸部さん」


 小一時間ほど商品の陳列に没頭してから小休止していると、若いバイトリーダーの男に声を掛けられた。爽やかな短髪と浅黒く焼けた肌からはスポーティな雰囲気を感じる。だがその眦は、石の裏で蠢く虫を眺めるかの如く嫌悪に満ちていた。


「パンの売り場に台車置きっぱなしですよね? あれ、お客さんの邪魔になるって前も言ったじゃないですか」


「すみません」


「気をつけてくださいよ。最近、クレーム多いんですからね」


 男は溜息を吐く。拓人は眼鏡のズレを正した。

 似たような注意は確かに前も受けた。クレームも自分のせいかもしれない。

 だが、だから何だと言うのか。

 下らない世界だと思った。小さな島国の中にある、小さな県。小さな県の中にある、小さな町。小さな町の中にある、小さな店で誰かが言った、酷く狭量なクレーム。


 狭い世界だ。俺に相応しくない。

 こんな小さな社会の評価なんてどうでもよかった。人間関係にも興味はない。だが、先日他のバイトをクビになったばかりの拓人にとって、このスーパーで今すぐ働けなくなるのは少し困る。三十八歳の独身、独り暮らし。守るべき人間もいない拓人にとって毎日の出費は大したことないが、これ以上の貧乏は人間らしい生活を放棄することになる。


「すみません」


 取り敢えずもう一度頭を下げておいた。すると男が鼻で笑う。


「適当に流してません?」


「は?」


 反射的に苛立ちが露わになると、男はしてやったりと言わんばかりに笑った。


「ほら、すぐ怒る。全然悪く思ってないじゃないですか」


 思うわけないだろ、糞餓鬼が――。

 年下に指図されて心の底から従う人間なんているものか。拓人にとってこの男は若さと自信を混同している人間に感じた。余計な一言を口にせずにはいられない。口にしたところで牙を剥かれるとは思っていないから。


 目に物見せてやる。

 もう何度目になるか分からない怒りを抱いた。けれどそれを今この場で発散する術はなく、拓人は強く拳を握り締めた。


 不衛生に伸びた爪が掌の肉を抉り、痛くなる前に拳を解いた。

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