第2話

「はい、どうぞ。ダージリンとかはお嫌いですか?」

「いえ、とてもいい香りがしますね。いただきます」


 十分ほど経ってから来栖さんは部屋に戻ってきた。

 ほんのりと頬が赤くなっていたのは、紅茶の熱気のせいだろうか。

 ほんのり甘い紅茶の香りはどことなくさっき感じた部屋の香りに似ている。


 一口飲むと、さっきまでの緊張が少しだけ和らいだ気がした。


「ふう。ほんと美味しいですねこれ」

「ほんと? 私のお気に入りだから喜んでもらえて嬉しいです」

「そういえば、来栖さんは何学部なんですか? 俺は」

「商学部」

「え?」

「私は商学部ですけど、四ノ宮君も?」

「そ、そうなんですよ。奇遇ですね」

「ふふっ、ほんとですね。じゃあ、過去問とか参考書とかいるものあったらあげますから、なんでも言ってください」

「いいんですか? そう言ってもらえると心強いです」

「ええ、もちろん。では、紅茶もう一杯どうですか?」

「あ、いえ、そろそろ……」


 チラッと時計を見ると、時刻はいつのまにか九時前になっていた。

 さすがにそろそろ戻って準備しないと入学式に遅れる。

 田舎から父さん母さんも来る予定なのに、初日から遅刻はまずい。

 それに、大学デビューする波に乗り遅れてしまう。

 中学や高校とは規模が違うとはいえ、人間関係の構築においてやはり初日は肝心だ。

 たまたま入学式で隣になったりクラスメイトになったりしただけで、気が合う合わないは別にしてなんとなく友達になれる。

 そしてそこからだんだんと友達の輪を広げていく。

 これが学校生活を円滑に進める第一歩。

 なんとしても部屋に戻らないと。


「あの、来栖さん俺は」

「美味しくなかったんですか?」

「え?」

「紅茶、美味しいって言ってくれたのに……。嘘だったんですね。私、ショックです」

「え、いやいや嘘じゃないですよ。ほんとに美味しかったです」

「じゃあ、おかわりも飲んでいただけますか?」

「……いただきます」


 空になったカップを差し出すと、さっきまで泣きそうな顔をしていた来栖さんが少し目尻を下げた。

 そして俺のカップにまた、熱い紅茶が注がれる。

 

「……」

「どうですか? 少し時間が経つと香りが少し薄れるかもしれませんが」

「い、いえ美味しいです。ただ、ちょっとこの後」

「入学式ですよね? まだ時間はありますし、私もこの後予定があって大学に行くのでよかったら一緒に行きませんか?」

「あ、そうなんですか」

「ええ、ここからなら大学までさほど時間はかかりませんし」

「まあ、そうですね」


 このまま部屋から出してもらえなかったらどうしようかなんて、変な心配をしてしまったりしたが。

 来栖さんみたいな品のある可愛い人に限ってそんな非常識なことするはずもないか。


「じゃあ、そろそろ一度部屋に戻りますので」

「あ、そうですね。では、これをよかったら」

「これは……?」


 手渡されたのは、「交通安全」と書かれたお守りだった。


「あの、恥ずかしい話なんですが去年私が入学式に向かう途中で事故に遭いかけまして、両親が買ってくれたものなんですけど。もう必要無さそうですし、私のおさがりで申し訳ないのですが、助けていただいたお礼に四ノ宮さんにどうかなって」


 頬を赤らめてもじもじしながら恥ずかしそうにお守りを渡してくる目の前の小柄な美人に俺の胸はときめいていた。


 キュンキュンするって、これなんだ。

 うわー、可愛いなあ。


「あ、ありがとうございます。もちろんつけさせていただきます。あと、俺の方が後輩なんで呼び捨てでいいですし、敬語もいりませんから」

「そんな……じゃあ、太志君って呼ばせてもらおうかな? 太志くん?」

「うっ……可愛い」


 首をかしげながら俺の名前を呼ぶ彼女が可愛すぎて心臓が飛び出しそうだった。


 なんて、のほほんとしたやりとりをしていると、いよいよ入学式の時間が迫ってきていた。


「あ、やべっ……俺、すぐ着替えてきますから」

「うん。じゃあ、アパートの下で待ってるね」

「はい」


 俺は慌てて来栖さんの部屋を出た。

 そして隣の自分の部屋へ戻ると、ダンボールだらけの廊下とその奥の殺風景な部屋に少し寂しさを覚えた。


 本当は早起きしたのも荷解きをするためだったのだけど。

 まあ、そんなの明日やればいい話だし。


 それより、早く着替えないと。

 


「お待たせしました」


 ぎこちないスーツ姿に変身した俺はいつまでも着心地が定まらない首元をずっと触りながら、アパートの下で待つ来栖さんの元へ向かった。

 さっきまでのワンピース姿ではなく、まるで彼女もこれから式に参加するようなジャケット姿に着替えていた。


「ううん、大丈夫。でも、ネクタイが歪んでるよ?」

「あ、すみません。高校の時は学ランだったんでネクタイ初めてなんですよ」 

「じゃあ、直してあげる。ほら、こうして、こう」

「ち、ちょっと、近い……」


 俺のネクタイを器用に緩めたり締めたりしながら整えてくれる間、来栖さんの小さな顔が俺の顔の間近まで迫り、俺は仰け反った。

 また、甘い香りがする。

 でも、さっきとは少し違うような。

 香水、かな?

 いい匂いだ。


「うん、これでいいかな。じゃあ、行きましょ」

「はい」


 ようやく、二人で大学へ向かうこととなった。

 正直、時間はかなりギリギリなので小走りで向かいたいのだが、せっかく待ってくれていた来栖さんを置いていくわけにもいかず、歩調を合わせながら大学へ向かう。


「太志君、紫のネクタイかっこいいね」

「ほんとですか? これ、スーツ屋で一目惚れしたんですよ」

「一目惚れ……」

「ええ。そういえば来栖さんのそのストールも同じ色ですね」

「うん。でも、もう付けることはないかな」

「そうなんですか? 綺麗なのに」

 

 来栖さんのトーンが急に下がった、気がした。

 何かまずいことでも言ったかな?

 

「四ノ宮君、ネクタイの洗い方って知ってる?」 

「え、普通に洗濯したらだめなんですか?」

「うん。だから、そのネクタイは私が洗ってあげるから」

「そ、そんなさすがに悪いですって」

「ううん、今日のお礼だから」


 その時の来栖さんの目は、どこか力がこもっていて。

 俺は断っては行けない気がしたので素直に「お願いします」と言って。


 ようやく、大学の正門前にやってきた。




 四ノ宮君に一目惚れされるなんて、いけないネクタイね。

 あとで私がズタズタにしてあげるから、せいぜいわずかな命を彼の首元で楽しんでなさい。


 ……それにしても、大学ってほんと女子が多い。

 しかもみんな四ノ宮君を見てる。

 きっと見てる。

 絶対見てる。

 いやらしい目で。

 ダメ、そんなの。

 やっぱり、入学式に行かせてあげたのは失敗だったかも。

 もし隣が女の子だったらいけないから、式にもついていかないとね。


 それと、帰ったら家から出さないようにしないと。

 外は誘惑が多いから、真面目な彼には悪影響だもんね。


 さて、と。


「四ノ宮君、正門で写真撮ってあげるからそのネクタイ外して」



 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る