祖谷の乃地日草子 〜月の扇子と星の剣〜

第1話 奥祖谷行きのバスで

　徳島の秘境と呼ばれる祖谷（いや）地方は、平家（へいけ）の落人（おちうど）の隠れ里と言われており、かずらの木を結んで作った「かずら橋」を目当てに大勢の観光客が訪れる。しかし、その先の奥祖谷は昔ながらの静かな山村である。

　２０００年７月１６日、日曜日の午後。

　一台の路線バスが、谷川と木々の間の細い道を縫うように走っていく。バスの中では観光客に交じり、買い物袋を肩にかけ、赤いポロシャツにデニムのショートパンツ、肩までの髪を一つ縛りに結んだ少女がつり革を掴んで揺られていた。

　その時、カーブを曲がろうとしたバスが大きく揺れ、少女の隣に立つTシャツにカーゴバンツの青年が抱えていたリュックサックが飛び出した。

「おっと」

　少女はとっさにリュックを受け止めた拍子に、あわててリュックの肩紐を掴んだ青年と向かい合った。鳥の巣のようにもつれた髪の毛で顔立ちはよく分からない。

「ありがとうございます」

　青年はすまなそうに頭を下げる。

「気ぃつけてな」

　少女は笑顔でリュックを返すとつり革を握り直した。

　かずら橋のバス停で観光客の大半は降りた。少女は空いた後ろの座席に座り、隣にいた青年も腰掛ける。前の座席で車窓を見つめる青年を見ながら少女は思った。

（観光客みたいやけど、かずら橋には行かないんか。奥祖谷の宿に泊まるんかな）

　やがて車がすれ違えないほど狭い林道に入ったバスは終点の奥祖谷に止まり、引き返していく。降りたのは少女と青年だけだった。観光パンフレットを手にした青年が少女に話しかける。

「先ほどはすみませんでした。『民宿　山乃端（やまのは）』ってご存じですか」

　少女は改まった顔で答えた。

「うちの宿ですね。ご案内いたします」

　集落の入口には小さな谷川が流れており、軽トラックが渡れるほどの大きさのコンクリート橋がかかっている。

「ダムができてから水の量も減ったんですが、昔はこの川を渡るのも大変で。大雨に流されないよう昔の人が工夫したのが祖谷のかずら橋なんですよ」

　解説しながら橋を渡る少女に青年は自己紹介した。

「今夜予約した斗南（となん）速登（はやと）と言います。茨城県から来ました」

「山乃端（やまのは）鐘子（しょうこ）、高校２年です。うちは小さな民宿だけど、剣岳（つるぎだけ）への登山客がよく泊まってます。温泉も引いてるし、料理もおいしいって評判ですよ。お客様も登山にいらしたんですか」

「いえ、僕は高いところは苦手で。正直言ってこの下を見るのも怖いんです」

　緊張したようにリュックを背負い直す速登を見ながら、鐘子は思った。

（確かに登山にしては身軽すぎる格好やし、きっとかずら橋も苦手なんやろな）

　『民宿　山乃端』は名前通り、森が広がる山裾に建つ一軒家だ。一階が家族の部屋に食堂と温泉風呂、二階が宿泊部屋になっている。鐘子は玄関の引き違い戸を開けて呼びかけた。

「ご予約のお客さまです」

「斗南様ですね。遠いところをようこそいらっしゃいました」

　鐘子の父親、貴星（きせい）が速登を出迎える。髭面（ひげづら）の精悍（せいかん）な山男だ。

「今日は日曜なので、予約のお客さまはお一人だけです。息子が食事の支度をしてますのでお待ちくださいね」

　母親の美紀子（みきこ）が厨房を見やった。鐘子の兄、幸星（こうせい）は板前として父の後を継ぐべく腕を磨いているのだ。

「鐘子も一緒にご飯済ましとき」

　美紀子の言葉に鐘子はうなずいた。

　一階の食堂に速登の夕餉（ゆうげ）の席が整えられた。美紀子は部屋の布団を準備しているので、貴星が献立を説明する。

「鮎の塩焼きに阿波尾鶏（あわおどり）と根菜の煮物、ご飯に祖谷名産のこんにゃくと豆腐の味噌汁でございます。祖谷そばの小椀を後でお持ちします」

「ありがとうございます。いただきます」

　速登は手を合わせると早速鮎の塩焼きに箸を付ける。隣のテーブルで夕食をとっていた鐘子は、テレビのニュースに見入っていた。

『今夜２２時０２分から２３時４９分まで、２０世紀最長時間の皆既月食が起こります。既に各地の観測ポイントでは、大勢の天文ファンが待機しております』

「月がよく見える南向きの部屋をお取りしましたので、斗南さまも今夜はごゆっくりお楽しみくださいませ」

　貴星が速登に話しかけるが、速登は箸を置くと答えた。

「すみませんが、午後９時からお時間をいただいても大丈夫でしょうか。うちに伝わる古文書についてお話ししたいんです」

「予約のお手紙に書いてあった件ですね。それでは９時に食堂へおいで下さい」

　貴星はそう言うと、鐘子に呼びかけた。

「お客さまがうちに伝わる『鎮（しず）めの舞』を見たいそうだ。鐘子も浴衣に着替えて食堂に来てくれないか」

「あ、はい」

　貴星に呼びかけられ、鐘子は時計を見た。午後７時１５分を指している。

（お父さん、そういうことは早く言ってよ。とにかく食べてお風呂に入らんと）