4-2
グロツキンの病室へと続く廊下を、タリヴァスは車椅子で移動していた。膝の上にはバスケットを乗せ、それを三角巾で吊るした右腕で押さえながら、左腕だけでぎこちなく車輪を回し進んでいく。ライソンはタリヴァスの部屋で留守番をしており、誰かに聞かれたら便所に言ったと答えるよう指示を受けていた。
時折看護師が怪訝そうな視線をタリヴァスに向けるが、タリヴァスは微笑みを返して気にしない。何度か部屋に戻るように注意を受けているが、戻っても隙を見てまたタリヴァスは抜け出してしまう。この数日の間にそれが何度もあり、看護師もすっかり呆れほったらかしになっていた。
やがてグロツキンの部屋に辿り着き、閉まっているドアをノックする。入口の名札入れにはグロツキンのものがはめ込んであり、まだ退院はしていないようだった。
「はい、どうぞ」
グロツキンの返事があり、タリヴァスはドアを開けて中に入る。部屋はタリヴァスと同じく一人部屋で、手すりのついたベッドが部屋の奥にある。タンスやテーブルやソファの配置も同じで、部屋の脇に見舞客用のベッドがあるのも同じだ。ただタリヴァスの部屋と違って、窓際の花瓶は空で花は飾っていなかった。病院全体に漂う消毒薬の臭いを紛らわせる香水の香りもなかった。
「タリヴァスか。どうした?」
タリヴァスを認めると、グロツキンは少し驚いた様子で言った。
タリヴァスがグロツキンの部屋に来るのは、これで三度目だった。一度目は目が覚めたあと。まだ動いてはならないと言われたが、無理を言って会いに来た。グロツキンが生きていることをどうしても確かめたかったのだ。
その翌日にも来た。特に用があるわけでもなかったが、タリヴァスはダンジョンを出てからの顛末をグロツキンに聞いた。
壁を吹き飛ばし脱出したもののタリヴァスは瀕死で、ゴーレムスーツを脱がせ応急処置をしてダンジョンから続く道を歩いていった。その途中で猟師に助けられ、そして病院に来た。幸いにも女戦士が追いかけてくるようなことはなく、今は軍が調査を進めている。軍はダンジョンにも調査に入ったが、タリヴァス達が閉じ込められていた一〇階に女戦士の亡骸はなく、ボスモンスターのロングネックの死体だけが転がっていたとのことだった。女戦士の行方は今日に至るまで行方不明。他にも行方不明の技術者が数人いて、それも調査中らしい。その情報はトレシオンからも断片的に聞いていたが、改めて聞きながらタリヴァスは情報を整理していた。
それから数日はグロツキンと顔を合わせることもなかったが、今のグロツキンは患者衣ではなく普通の長袖のシャツと紺色のズボンを履き、荷物を入れたカバンを手に今まさに病室を出ていこうとしているようだった。
「どうしたはこっちの台詞だ。退院するんだって? 水臭いじゃないか、一言もなしだなんて」
少し責めるようにタリヴァスが言うと、グロツキンは苦笑しながら答える。
「男同士で別れを惜しんでもな。こういうのは苦手なんだ。それに君は安静にしてなきゃいけないはずだろう?」
「医者の言うことなんてほっときゃいいよ。どうせこの怪我自体は時間をかけて直すしかないんだ。大人しく寝てて二、三日で治るんならいいが、そういうわけでもない。それに、少しは動かないと血の巡りが悪くなる」
「それだけ元気に喋れるんなら、確かに平気そうだな。私も体の方はもう問題ないから、帰るところだったんだ。事情聴取も終わったからな。軍ももう私に用はない」
「そうか。家族が待ってるもんな、あんたは」
「……ああ。それで、用ってなんだ? ハグでもしたいのか?」
グロツキンがカバンをベッドの上に置き、自分も腰掛ける。タリヴァスは車椅子でグロツキンに近づき、膝の上のバスケットを開いて中からグラスと酒瓶を出す。ライソンに用意させたブランデーだった。もちろん病院では飲酒禁止だ。それを見てグロツキンが喉の奥で笑う。
「一杯やろう。遅くなったが、生還祝いだ」
タリヴァスが差し出したグラスを受け取り、グロツキンが呆れた様子で言う。
「具合が悪くなっても知らないぞ」
「酒を飲まないほうが体に悪い。冷え性でね。飲んだ方が足先の血行が良くなるんだ」
言いながらブランデーの栓を抜いてグロツキンのグラスに注ぎ、太ももで挟んだ自分のグラスにも注ぐ。生のままの度数の強いブランデーだ。それほど高価なものではないが、かぐわしい香りが病室に広がっていく。タリヴァスは瓶をバスケットに戻し床に置き、左手でグラスを持ち上げる。
「ダンジョンからの生還に。それと、これまでに犠牲になった技術者に」
「生還と、ナバルたちの犠牲に」
二人はグラスを合わせ、そしてタリヴァスはブランデーを一気に飲み干した。強いアルコールが喉を熱くし、香りが鼻に抜けていく。その余韻を楽しむように目をつむり、タリヴァスはゆっくりと息を吐いた。満足そうに目を開けると、グロツキンがグラスを干していないことに気づいた。というよりも、少しも減っていないように見える。
「何だ? 下戸なのか?」
タリヴァスが聞くと、グロツキンは困ったような複雑な表情を浮かべ、グラスを傾けブランデーを回した。
「酒は断ってるんだ。一年間……まだあと、半年くらいか」
「願掛けでもしているのか? いいだろう、ちょっとくらい」
タリヴァスは脇においたバスケットからブランデーを取り、自分のグラスに注いだ。グロツキンはグラスに口をつける様子はなく、俯いて持て余すようにグラスをゆらゆらとさせている。
グロツキンの表情には暗いものがあった。体にも異常はなく、これから退院する。ひどい目にはあったが、ようやく家族に会えるのだ。にもかかわらず曇ったその表情をタリヴァスは不思議に思った。
「なにか心配事でもあるのか? 俺で良ければ……相談に乗るが?」
タリヴァスの言葉にグロツキンは視線を上げる。迷うように視線を泳がせ、そして意を決したように口を開いた。
「言うべきかどうかずっと迷っていた。今もだが……しかし、これも全て運命なのかもしれない。私が選ばれ、君が選ばれ、そして二人が生き残った。君は……知るべきなのだろう、きっと」
「何をだ……?」
ただならぬグロツキンの様子にタリヴァスは不安を覚える。一体何をグロツキンは抱え込んでいるのか。見当もつかなかった。
「……妻と娘がいる。そう言ったが……実は、もういないんだ」
グロツキンの言葉にタリヴァスは困惑しながら答える。
「いない? つまり……どういうことだ? 離婚してた……?」
「いや、それならまだよかったな。生きているんだから。違うんだ……二人はもういない。死んでるんだ」
淡々とした言葉だったが、タリヴァスはさっと血が引くような感覚を覚えた。グロツキンの妻と娘はもう死んでいた……? すぐには理解できないことだった。
「ずっと……言っていたじゃないか……? 娘さんは誕生日で……プレゼントをって……」
「そう、生きていればね。だが私が攫われる一月ほど前にね……死んだ。殺されたんだよ、野盗に。二人共だ……村で市を開いていたが、そこを襲われたんだ」
「そんな……」
野盗が村を襲う。タリヴァスの住むラソーン市ではまず考えられないことだった。軍は治安維持のために各地を巡回し、野盗がいれば徹底的に追い詰める。アランティ工業でも野盗対策で警備員を雇っているが、実際に野盗と戦ったことがあるのはもう数十年も前のことだ。
だがその一方で、軍基地から遠い地方では今も野盗の被害が続いている。知識としてはタリヴァスも知っていたが、それはどこか遠い世界の出来事のように認識していた。軍に卸したラグニアは野盗退治にも使われるとは知っているが、実際に野盗の被害にあったという人を見るのは初めてだった。
「それは……大変だったな。しかし、何故……それなら生きていると……待っていると言っていたんだ?」
グロツキンは遠い目をして、静かな声で答える。
「私はあの地下室で死ぬつもりだった……死にたくはなかったが、死は免れないだろうと、そう思っていたんだよ。だから家族に会えると、そう思ってあんなことを言っていた。自分でもなんであんな事を言ってしまったのか……分からん。だが君は生きて帰るつもりだったからな。実は家族は死んでいて、私もあの世に行きたい。そんなことを言い出せる雰囲気でもなかったし、君のやる気に水を差したくなかった……奇妙に思うかもしれないが……とにかく、あの時はそう思ったんだよ」
グロツキンは視線を上げ、タリヴァスの目を見た。タリヴァスはその視線に耐えられないような気持ちになったが、目を逸らすべきではないと感じた。
「家族を失って……抜け殻のようだったよ。でもナバルは……あいつは俺を励ましてくれてね。少しずつ仕事にも復帰できるように手助けしてくれて……悲しみに少し慣れた頃、あの女戦士がやってきた。そして閉じ込められ、ナバルや他の二人も殺された。分かるか? すべてを失って、それでもなんとかやってこうと思った矢先にあんな目にあったんだ。まあ、ちょっとおかしくなってたんだろうな。今も、どうだか分からない……」
グロツキンの言葉にタリヴァスは返す言葉がなかった。グロツキンは家族を支えにひどい生活に耐えているとばかり思っていた。しかし、実際にはずっと失意の底にいたのだ。希望も何もなく、それでもタリヴァスに付き合って無理に明るく振る舞っていた。タリヴァスはそれに少しも気づかなかった。
そう言えばと、タリヴァスは思い出す。グロツキンの家族の話をする時、グロツキンは時折寂しそうな表情を見せた。今思えばあれはグロツキンの悲しみを抉る行為だったのだろう。残酷なことをタリヴァスは繰り返していたのだ。グロツキンを励まそうと思い、何度も、何度も。
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