第13話

 今まで何度も眺めていた丘からの景色に実際に入り込んでみると、その暗さと生温かさの正体は、留まる魔法と記憶を空気いっぱいに含んだ古の湿地帯だった。

 いつも静かに浮かんでいた真っ白な雲も、見上げた先では意外なくらいたっぷりの日差しを含んだ黄色い光の透かしで、自分たちを歓迎してくれるように温かく見下ろしている。偶に雲の切れ間から目をつむりたくなるような日差しのカーテンが差し込んできて、その裾足が馬車の窓から頭を乗り出した自分の眼球を刺した度に、太く小皺の隠せなくなった指でおでこを小突かれるような小さな驚きがあり、それが僕の知っていたつもりのこの浅い谷の一番新しい景色だった。

 大人にならなければいけない。そんな予感の只中にいる。背筋を伸ばして胸を張らなければいけない時が来たのかもしれない。今は亡き親の優しさが自分を守り、自分はそのおかげでここにいるという知るべき事をやっと知れて、その事が、やっと自分という人間が何にも寄りかからずに立てるようになった喜びとなって、この湿地帯の景色を不安も余所にぼんやりと自分の将来に重ねる遊びに興じさせていた。もうただ世界の変化に祈りを送る必要などない、この澄んだ気持ちに幸いを見出すのは自分の意思と行動なのだと、やっと胸を張って思う事ができると、そんな気持ちを伝える為に、自分は天使を連れてこの馬車に乗っている。そんな気がする。


 「モウすぐ着くゾ。イェルダ、警戒しろ。ラダ、臨戦態勢。」

 「えぇ、了解しました。」

 「言われなくても。」

 一際鋭い緊張感が馬車の中を包んだ。こういう空気を一瞬で作れる人というのを自分は見た事がなかった。

 「ラダ・・・。」

 「ルイン坊。ニーナと一緒に姿勢を低くしてな。そこの木箱より低くだ。」

 「うん。」

 「わかりました。」

 馬が馬車を引く音一定の音だけが空間を満たす。5人もいる筈のこの狭い空間に呼吸すら聞こえない。2人は息が詰まるような緊張で、残りの3人は、自分でも計り知れない程の経験の中で身に着けた知恵のようだ。


 ・・・。


 ・・・。


 ・・・。


 「・・・来たゾ。」


 最初は何のことか分からなかった。しかし次第にある事に気付いた。音。馬の足音に隠れて、いや隠せなくなった低い地鳴りのようなリズムがどんどん馬車に向かって近付いてくる。

 恐る恐る馬車に被さったテント屋根の隙間から音のする方を覗いたのが悪かった。

 光の隙間の先に1人の影が見えた。いや、影というにはあまりに明るすぎた。全身の節々から真っ白な炎のような光を漏らしながら、まるで怒り狂った獅子のように迫りくる見覚えのある存在が全速力でこちらに接近していた。

 「いた!!」

 「坊ちゃん伏せて!!」

 イェルダの叫びに反射的に身体を沈ませるよりも一寸早く、空間そのものが地面にめり込むような圧倒的質量の透明な波紋を感じた。一瞬バランス感覚が消え失せるような気分になる。こんな感覚は自然なものではないだろう。恐らくイェルダの魔法だ。

 「イェルダ!!なるたけ押さえつけてろ!!」

 「言われなくたって!!」


 「ぐあああああ!!!」

 勇者は久し振りの感覚に襲われた。

 「クソが!マネキン野郎か!」

 結界魔法を喰らうのは大戦の最後の夜、魔王城に突撃をした時以来だ。まさか久し振りの本格的な戦闘で初っ端からこんな面倒なモノを喰らうとは思わなかった。まだ魔王軍の残党にこんな術者が残っていたのかと驚く。というより、魔王城の突撃作戦の時に喰らった結界の主が、正にあの馬車の中にいるのかもしれない。

 「舐めやがって!だが今の俺には効かねぇ!」

 この日の為に神々から反吐が出るような強い”加護”を喰らっているのだ。最早自分の身体が保てる限界など悠に越えても、この身体は動き続ける。


 「おいおい!!動き止まんないよ!!」

 「おかしいです!!!もう人の範疇の力ではないわ!!」

 「ラダ。」

 「なんだいゲール!?」

 「『私が喰い止める。手綱を任せる。』」

 「・・・死んだらその首噛み切るからね。」

 「『ありがとう。』」


 「もう少し!もう少しで馬車に手がかかる!踏ん張れ俺の脚!」

 自分でも半ば理解できない力のみなぎりに助けられながら少しずつ馬車に近付いている。今の自分は正に獲物を追う獅子のようだ。倒れ込みそうになれば腕を伸ばして地面に突き立て無理矢理次の一歩に繋げる。また全力で後ろ足を蹴る。最早四足歩行だ。

 我武者羅に走ろうと思った矢先、見据えた馬車の先頭部分に一瞬光の点滅のような影を見た。

 「あぁ?」

 瞬きも許さないような超速の投げ槍が、気付いた瞬間には自分の眉間を貫こうと目前に迫っていた。全身に怖気が走る。世界の時間が一瞬凍り付いたように止まって感じる。

 ゲールが馬車から飛び降りてから、投げた槍が勇者に衝突し木製の柄が粉々に砕ける乾いた音を聞いたのはほぼ同時だった。凡そ150m先の着弾、耳に届いた音はさらに半秒遅れて届いた筈。この日の為に忘れずにいた幾夜もの戦闘の記憶は、戦場における半秒が一体どれほど命取りになり得るかを嫌という程教え込んでくれた。

 「・・・来る。」

 半ば勘に従って構えた防御の構えは正解だった。槍の着弾地点の砂煙が晴れる間もなく、まるで音すら切り裂けそうな速度で壊れた槍の刃の部分だけが一直線にこちらに飛んできた。落ち着いて剣の脇で自分の後方、馬車が既に通過した方向に弾き逸らす。背後では自分の投げた時よりもさらに一回り大きな衝撃が弾けた。


 「キャァ!」

 「ちゃんと掴まってるんだよニーナ!・・・ゲール、武運を。」

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