第4話
「・・・ルイン?帰ったの?」
「うん。ただいまイェルダ。」
「ちゃんとソーセージと私の家のパンは取って来てくれたかい?」
「うん。町のいつもの肉屋で、ハーブ入りのソーセージと、イェルダの家のキッチンの、机の上に置いてあった大きな黒いパン。」
「そう、ありがとうございます。夕ご飯まで少し待っててちょうだいね。」
「はーい。」
帰りに走ったせいで汗をかいてしまった。この上着ももうそろそろ着なくていい季節かもしれない。屋内に掘られた井戸から水をコップに汲んで一気に飲み干してから、部屋に駆けていく。やけに疲れてしまった。夕食まで少し横になりたい。
自室に入ってベッドに飛び込もうとした瞬間、先客の存在に気付き全力で身体にブレーキをかけた。
「イェルダ!この・・・えぇと、あの子が僕の部屋にいるよ!?」
「あぁ、そうね。なんだかそこが落ち着くみたいだから、そっとしといてあげなさいね。」
「えぇ!?でも・・・」
「仕方ないでしょう言葉も聞かないんだから。小鳥が窓から舞い込んだようなものよ。」
「・・・うーん。」
上手い例えに反論ができずに間が空いて、今回の問答の決着となってしまった。少女の顔を見れば、やはり午前の疲労があってかスヤスヤと深い眠りの中にいるようだ。今ならその心地よさが自分も嫌というほどわかっているのに。
「おーい。僕のベッドなんだけど。」
少女が目を開いた。
「・・・起きてたのかよ。」
ため息を吐いた視線の先、背中を丸めうつ伏せ気味な姿勢で半分枕にうずまった顔がジっとこちらを見てくる。
「・・・ごめんよ。でもなんで自分の部屋で寝ないんだい。せっかくイェルダが用意してくれたのに。」
返事が返ってきたことは一度もないけれど、折角人の形をしているんだから根気強く話しかけてはみる。しかし、彼女はまだ同じように背中を丸めてこちらを見つめてくる。まるでトカゲとにらめっこをして遊んだ時みたいだ。彼女の瞳は宝石のように綺麗だけれど、しかし町の人のように目を見ていれば彼らの感情がわかるような事が、彼女には全く感じられた事がなかった。僕だって疲れているんだ。自分のベッドに腰掛けるくらい、彼女にだって責める事はできないだろう。
さっき道を聞いて来た男は今頃町に着いて宿屋にでも入ったのだろうか。いきなりおかしな事ばかり起きている気がする。別に普段から体力がない訳ではないのに、こうも色んなことを見続けると頭がまいってしまう、そんな感じの疲れだ。
物思いの切れ間に袖を摘ままれている感覚に気付く。例の少女だった。
「なに?」
「・・・。」
「・・・本当に話せないの?」
「・・・。」
「なんか、こう、『ウン』とか『スン』とか、言えない訳?」
「・・・受けぬ者」
「・・・え?」
「”祝福を受けぬ者。”」
「え!?」
いきなり少女の口から今まで聞いた事の無いような語彙が流れ出てきて、あまりの驚きに心臓の鼓動が早くなる。
「”地上の浅黒い谷の畔に立ち、この世界を不浄に染める。”」
「ちょっと!それどういう事!?」
「”神の御心に抗い、一度はこの世界を・・・”」
「だからどういう事!!」
「”我らの愛おしい白い世界の秩序と平穏は守られなければならない。”」
「・・・なんだよそれ。」
「”よって汝らの血の残火を・・・汝、なんじ・・・」
「おい、今度はどうした?」
「なん・・・ん~!」
折角思い出しかけた言葉にとうとう詰まって、一瞬不機嫌そうに顔を膨らませたと思うや否や、今度は当てつけみたいに身体を起こして突然こちらにしがみ付いて倒れ込んで来た。
「わぁ!ちょっと!なんだよ!」
「ん~!」
状況が飲み込み切れていない事への若干の不機嫌は余所に、取り敢えずはベッドに横になれた事への安堵と、少女にしがみ付かれている事への仄かな愉快さもあってか、途端に身体の力が和らいでいった。まだ靴も脱いでいないけれど、夕食まではしばらくこうして・・・
「ルイン、起きなさい。夕食よ。」
「ん~・・・。」
「ルイン、起きなさい。晩御飯ですよ。」
かすむ視界には、腕を腰に当てて声を振り落とすイェルダが立っている。その背後から、さっき買って来たソーセージのハーブのいい香りが鼻に流れ込んできた。
「・・・。はい、イェルダ。」
「どうしたの、そんなにしがみ付かれて。」
「なんだか思い出しかけた言葉が出て来なかったみたいで、八つ当たりでこうなった。」
「・・・言葉を思い出したのね。」
「うん。そうみたい。」
首を起こして自分の胸の方を見ると、案の定そこには少女がうつ伏せでしがみ付いて、ついでに気持ち良さそうに寝息を立てていた。起こさないようにそっとベッドに降ろして立ち上がる。
「夕ご飯を食べながら、どんな事を話していたのか教えてちょうだい、ルイン。その子は寝かしたままでいいからね。」
「・・・うん。」
夕食の席は昨日の芋と玉ねぎのスープ1皿に比べればよっぽど豪華なものだった。スープにはブロック状に切られたジャガイモと人参と、そしてブツ切りにされた太めのソーセージの断面には、刻まれた香草の緑色が複雑な模様を描いている。玉ねぎは、半濁のスープの中ににすっかりドロドロに溶けてしまったようで、スプーンにすくって口に注げばたちまちその甘さが腔内に広がった。身体も温まる。そして傍らの小さい丸皿には切り分けられた黒パンが置かれていて、初めて食べるような気がするけど、想像していたよりも塩気とナッツの香りが効いていて、こちらも食欲をそそられた。
「それで、彼女はいったいなんて話したんだい?」
「えぇとね・・・その、難しい感じの話し方だったんだ。そう、なんていうか・・・」
「まるで物語の中に登場する天使みたいだったかい?」
「うん、そんな感じだった。それもかなりカタイ言い回しのね。」
「思い出せる範囲で良いから聞かせておくれ。」
「うん。えっとね・・・祝福を受けぬ者・・・浅い谷の・・・白い世界を不浄に染める・・・?そんな感じの事を・・・」
「『祝福を受けぬ者』って、言ったんだね?」
「うん。それは言ってたよ。」
「そうかい・・・。」
イェルダはしばらく黙りこくって、手を両膝の上に置いたまま視線を落としてしまった。確かに、翼の少女から放たれたこの言葉の内容は、そもそも気味の悪い彼女の存在にさらに不穏な影を落とした、そんな事はイェルダに比べてまだまだ幼い僕にも分かる事だった。
まだ切り取られていない黒パンの塊と、それを切り分ける為に置かれた銀色のよく研がれたパン切り包丁の刃の鏡面が丁度ランプの光を反射して、イェルダの鼻の上に置かれているレンズの小さい丸眼鏡を白く光らせている。彼女も僕と同じようにパン切り包丁を見ているのか、という事は、彼女が今見ているのはひょっとすると僕の顔かもしれない。日頃から半ば見張られるように彼女からの教育を受けているけれど、こうまじまじ見つめられているとしたら、少しの恥ずかしさを感じる。イェルダの頭の中では、まだ僕の知らない色々な”大人の事情”という奴がグルグルと状況を思案していて、それに対して1つの適当な指針を立てなければいけないという気苦労が行われているのが、いつも通りの彼女の姿として想像されるのにはこの食卓を包んだ一瞬の静寂は充分な長さだった。
「ルイン。スープが冷めないうちに食べてしまいなさい。」
「ありがとうイェルダ。君もね。」
「ふふ、ありがとうルイン。」
湯気の上がらなくなったスープにスプーンを通す。
「ねぇ、ルイン。あなた、あなたのお父様のことはどれくらい覚えてるかしら。」
「父さんかぁ・・・。父さんは、あんまり。馬に乗せてくれた記憶は何となくあるんだけど、あんまり顔は覚えてないな。父さんって凄い大男だったんでしょう?やっぱり顔をちゃんと見上げられたことが少なかったのかも。」
「そう、そうね。」
「それに、この家って、その、父さんの物って少ないじゃない。あんまり思い出せるようなきっかけも無くてさ。」
「あまり物を多くは持たない方だったかもしれないわね。」
「うん。なんで父さんの事を聞いたの?」
「実は、あなたのお父様のお墓があるのよ。」
「・・・まぁ、そうか。死んだ人だもんね。」
「あんまり驚かないのね。」
「うん。たしかに、考えて見ればあってもおかしくはなかったのか。って思うよ。」
「今度、一緒に伺ってみませんか。」
「うん、いいよ。」
「ありがとうございます。」
「どの辺にあるの?」
「表の丘がありますでしょう。その丘を降りてまっすぐ、湖を越えてしばらく行ったところにあるんですよ。」
「そうだったんだ。知らなかった。」
いつも眺めている地平線の向こうには父が眠っていたのか。
「少し遠いですからね。あなたは門限をよく守るから、あんまり遠くに行くことはなかったでしょう。」
「うん。でもイェルダ、なんで今なの?」
「・・・いつかはあなたに話すべきだとも思ってたのよ。そんな矢先に、あの子、が来たでしょう。この家もいつまでもそのままでは無いのかもしれないと思ってね。あなたの将来、未来の為に、知るべき過去を教えるべきだと思ったのよ。」
「・・・そうなんだ。」
彼女がこんなに丁寧に僕に事情を話してくれた事は、少しの珍しさを持って自分の中に重い説得を受けてしまった。イェルダは優しい人だけれど、実際は年の功を使って僕に半ば強制的にさせるような事も多いし、僕は僕でその度に、彼女の助言なしになんでもこなせるほど自分が大人ではないという簡単な自覚を植え付けられた。今のイェルダは、なんだか少し僕の事を、まるで大人のように扱ってくれている感じがする。
「イェルダ、いい加減、あの子の事を名前なしで呼ぶのが不便だよ。」
「そう・・・ですね・・・。きっと彼女にも本来の名前が・・・あるのかしら・・・。思い出してくれればいいのですけれど。」
「次話す時に決めておくよ。それでいい?」
「えぇ、わかりましたわ。けれど、あまり馴れ合い過ぎて、余計なトラブルを起こさないようにね。」
「うん、わかってるよ。」
「あの子は明らかに怪物の類ですからね。絶対に町へは降ろさないように。それから、彼女も怪我が治っていませんから、あまり無暗に外に連れ出して強い風に当てたりしないように。」
「わかってるって。」
「あとは、彼女の思い出した言葉というものも、」
「もう分かってるって!それに誰がわざわざ町の子に見せたりするもんか!あんな野蛮な奴らに見せたら、途端に羽を毟られちゃうよ!ぼくはもう部屋に戻るから、スープ御馳走様でした!」
「あ、コラ!ルイン、人の話はちゃんと・・・!・・・えぇ。分かっているならいいんです。」
「・・・うん。ご馳走様でした。」
久し振りの空気の重い食卓だった。僕が町で泥だらけにされて帰ってきた時みたいな雰囲気になっちまった。スープのハーブのいい香りも、焼いたパンのナッツの香りも。
ぼくはまだ子供だ。
部屋に戻ると、少女はベッドに腰を落として背筋を真っ直ぐにして座っていた。大きな瞳は真っ直ぐ、ベッドの向かいに置かれた勉強机のそのまた正面に空いた四角い窓に向けられているのがわかる。
「あ、起きてたの。」
声を聞いてゆっくりと首を回し、僕の方をまっすぐに見て来た。
「ひょっとして、食事の話、聞こえてた・・・」
「・・・。」
「いや、君には、分からないか。」
「・・・。」
さっきの大きな声で起こしてしまったのかもしれない。まだ眠いのかな。
「君の名前を考えたいなって話してたんだよ。君、名前はあるのかい?」
「ん~ん。」
「・・・うん。そろそろ僕も寝たいから、部屋に戻ろう。足は大丈夫かい?」
いつも通り、伝えたい事はちゃんと指を向けて伝える。僕が指さした足を真っ直ぐなぞるように見て、いつも通り高い声で鳴き声のような声を上げてブラブラと揺らしている。
「運んであげるから、掴まって。」
「ん!」
まるで肩に止まるよう躾けられた小鳥みたいだと思った。僕の中の彼女に対する可愛らしさは、果たして愛玩用の小鳥に感じるそれなのか、自分に間近で接してくる同世代の女の子に寄せるものなのか、自分でも分からない。取り敢えずは眠りたい。
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