第2話
朝、先週までは窓の隙間から吹き込む冷たい風に震えるように目が覚めていたのが、今日はまるで白い絹の中を浮かび上がるみたいに、音もなく、ただ仄かに暖かい日差しが長い指で頬を撫でたような、そんな心地の良い目覚めに変わった。恐らく春が来たというここ数日の予想を説得するような朝の静かな暖かさは、体温と重なり、まるで世界という絵に身体が溶けて吸い込まれていくような、そんな心地の良い目覚めだ。
こういう朝の良くない所は、うっかり瞼を開け忘れることだ。
ベッドの脇に揃えていた靴の穴に勘と習慣でもって足先を引っかけ、靴ひもに手を伸ばす。短く切った前髪が隠せていない筈の剥き出しのおでこに、サラリと髪の毛が擦れてくすぐったい感触がある。くすぐったい、くすぐったい?
「ん~?」
ぼんやりとしていた意識をくすぐった朝日の眩しさに瞼をこじ開けると、そこには大きな碧い眼が並んでいた。少女は少年の顔を、まるで葉に付いたてんとう虫でも観察するみたいに覗き込んでいた。
「・・・わぁ!」
ベッドの上でバタバタと後ずさる姿はきっと転がされた虫みたいだ。
「目が覚めたの!?」
「・・・ん~?」
彼女の丸い目を見開いて首を傾げる様子を見るに、彼女はなぜ自分の目覚めを案じられているのかを不思議に思うくらいには容態は良さそうだ。なぜ僕のベッドに来ているのかは、聞くべき事なのだろうか。
「イェルダは・・・あ、家にもうおばあさんは来ているかい?昨日君の手当をしてくれた人なんだけど。」
「ん~。」
彼女は言葉がわかるのだろうか。
「ん~!」
彼女は突然腕を大きく上げてノビをした。まだ目覚めた直後なのかもしれない。一度に全身の筋肉を強ばらせた後に来るのはその反動としての小さな身体の痙攣。彼女の小さな肩は数mmの振動し、それが末端の肢体へと伝播していく、腕、頭、翼。
「あ・・・。大きな翼だね。」
「ん?」
湖畔で見つけた時は泥で汚れていた羽は、イェルダに一先ず濡らした布か何かで拭かれたのだろうか、地の晴れた日のお日さまのように真っ白な色のせいで、泥のシミ跡を隠せずにいる。昨日彼女と出会ってから初めて、翼を落ち着いて見る機会を得た。僕が今まで見た事のある中で一番大きな羽だ。恐らく肩甲骨のあたりから伸びているのだろう太い翼は、普通の鳥や蝙蝠なら腕にあたる筈だけど、彼女にはちゃんと人間らしい腕が別に生えている。これじゃあ腕が4本付いているようなものじゃないか。どうやって動いているんだろう。肩甲骨で翼を動かしているなら空を飛ぶ時は腕も一緒に大きく振らなければいけないのだとしたら、それは、少し、美しくない。なら、彼女の翼は、ひょっとすると魔法かなにかで動いているのだろうか。今まで見た中で一番大きな羽だ。
「翼は重くないの?」
言葉が分からなそうだったから背後の翼を指さしてみると、初めてマトモなコミュニケーションらしい感覚を得た。彼女はハッとしたように振り返って背後の泥シミ付きの翼を眺めると、一瞬眉間に皺を寄せて肩に力を思い切りかけ始めた。
「あ!ちょっ!部屋の中でバタついたら!」
大きな翼で部屋の中がメチャクチャにされる光景を想像して青ざめたが、その期待も余所に、彼女の羽は少しピクピクと小さく持ち上がっただけで、それ以上動くことはなかった。少女は未だに力を振り絞るように顔をしかめてか細い呻き声を漏らしている。
「翼、動かせないんだ。」
これはきっと調子の所為だろう。これからリハビリが必要になる。そんなぎこちの無さだった。
重い玄関扉の開く音がした。
「おはようございます、ルイン。イェルダが来ましたよ。」
玄関の方からイェルダが来訪した声が聞こえる。彼女が起きて僕の部屋にいることを知ったら怒られるだろうか。ただこれについてはちゃんと、彼女の方から僕の部屋に来た事の言い訳ができる。
「おはようイェルダ!ねぇ!女の子起きたよ!」
「あなたのお部屋にいるの!?」
恐らく一番に少女の様子を見に行ったのだろうイェルダ、が驚いたような叫び声を返して足音をこちらへ向かわせてくる。開きかけだった寝室の扉が音を立てて開き、顔を覗かせたイェルダは大きな溜息を部屋の中に吐き捨てた。
「まったく、頑丈なこと。でもまだ足は良くない筈よ。」
「足・・・。」
彼女の瞳と翼にばかり気を取られていたことに気付いて足元を見ると、まだまだ包帯で厚く巻かれた右足は痛々しく足枷のように彼女の自由な動きを阻害している。この部屋までは、
「這ってきたの?」
「ん~。」
「あなたに随分懐いているようね。その大きな翼といい、目覚めて一番に見たあなたの事を親鳥と勘違いしているのかもしれないわね。」
「えぇ、そうなのかなぁ・・・。」
「まだ安静にしておきたいの。部屋に戻すかそこに寝かしとくかしておいてちょうだいね。私は今から3人分の朝食を用意しますから。」
「はい、イェルダ。」
「よろしい。」
この少女を家に招いてからのイェルダは少し態度がきつい気がする。普段から別に特別優しい老婆ではないけれど、あの真っ直ぐに伸びた背筋から来る少し威圧的な風格に拍車がかかっている。しかし、よくよく考えればこんな訳の分からない、行ってしまえば怪物の類を家に置いているのだから、あながち間違った緊張感でもないのだろう。それよりは、自分の方が気が抜けてると思った方がきっと正しい。
「・・・お前はいったいなんなんだい?どこから飛んできたの?」
「・・・。」
今度は何も言わずにジッと僕の目を、また青い釉薬の塗られた白磁の瞳で覗き込んでくる。髪の色も瞳の色も違うけれど、なんだか少し妹ができたような気分だ。
「部屋に戻ろう。朝ご飯まで安静にしなきゃいけないんだ。僕が運ぶよ。」
これだけ近寄ってくるなら嫌がらないだろうと思いよいしょと抱きあげた体は、やはり羽のように軽かった。明らかに彼女くらいの女の子より軽い。それも背中の翼を含めて。抱き寄せた時に自分から首に絡めてきた腕からも、全く首を絞めるような重さは感じられない。
キッチンからパンの焼ける匂いがする。
2人でまた家の前の丘を散歩している。僕の右腕に腰掛けるように座る彼女が、空の遠くの方を真っ直ぐに眺めているのを、僕はまた彼女の顎の下から見上げている。いつも通り頬を撫でて背後に吹き去っていく生温かい風が、ゆっくりとした時の流れを、雲と大気の対流を生み出している。彼女の空色の瞳にはどんな風に見えているのだろうか。
彼女は黙っている。唇は静かに閉じられ、何度も言うようにその丸い瞳は、彼女は故郷を見ているのだろうか。帰るべき場所を、この身体の傷が癒えれば今すぐにでも帰巣本能が羽を広げて地平線の向こう、雲の遥か上へ帰ってしまうのだろうか。
この空がこんなに広い事を、彼女と食後の散歩に出てからほんの少しの時間で彼女から教わっている。僕にとってこの景色はまるで画家がカンバスに描いた絵画だった。地平線が示すものは僕にとって単なる視覚的な消失点とその水平であり、ここから見える池も木々も、いつも通りそこにあるだけの、平凡な暗い景色だった。しかし今僕の肩を止り木にしているこの少女は、風が吹く度に首を捻って風上から風下までの流れを何度も何度も追っていく。雲の切れ間から網膜に射し込んだ日差しの度に機敏に瞼を小刻みに動かしては、空を見上げて太陽の位置を見定める。明らかに軽い身体は僕の肩や首から伝わるあらゆる揺れを受けて揺り籠のように揺れ、風が吹く度に僕の頭に軽くしがみ付いてくる。僕の耳にかかる彼女の小さく柔らかい指の感触は、街に出た時に路地裏で嗅いだ香の煙のように顔を押した。彼女にとってこの景色は、きっと飛び立てば一瞬で通り過ぎてしまえる一地点に過ぎず、僕のようにこの土地に捉われた人間における静かな箱庭にはなり得ないのかもしれない。彼女がもし口を聞けたら、どんな僕の知らない表現で今を伝えてくれるだろうか。
「君はどこから来たの?」
返事は返ってこない。今、僕の言葉はきっと耳を掠める風の音と同じなのだろう。
「・・・!」
一際強い風が来た。丘の下から撫で上げるように吹いた大きな波が、眼下から揺れた草の作る横一線の縞模様となって身体に衝突する。空いていた左手を眼前に翳して身構えた、瞬間、横からまた予想していなかった風の乱れを感じた。少女が翼を広げて風に乗ろうとしていたのだ。
少女は朝のベッドで見せたのと同じように眉間に皺を寄せて、今度は下から羽を持ち上げる風の助けも借りて、少しずつ、その大きな翼を広げようとしていた。まだ翼が開いたところを見た事がなかった。翼はまだ完全に開いていないにもかかわらず、既にその幅は彼女の身長を悠に越している。どれ程大きな翼なのか。そもそもこんなに大きな翼が、自分よりも背の低い少女の背中に付いているという現実に、やっと今更違和感を帯び始めた事で、背筋に冷たい水を垂らしたようなと悪寒が走る。
「ちょっ、ちょっと!」
咄嗟になんて声をかければいいのかわからない。ただ、翼に集中している彼女の耳には尚更僕の言葉なんて入らない事はわかる。翼がいい加減に風を受け止め始めて、首に回されていた腕が離れたと思った瞬間から、みるみるうちに右腕に乗っていた体重が軽くなっていく。今目の前で少女が飛ぼうとしている。きっと飛び立ったら、風に乗って、見果てぬ大地の先、地平線のさらに奥へと消え失せてしまうのだろうか。
そう思った矢先、一しきり吹き付けて満足したかのように、風の波は引いていった。一瞬は完全にこの腕から消えた少女の重みも、どんどん戻ってきて、しまいには開き気味の翼でバランスを失いヨロヨロと転げ落ちそうになった身体を抱き直してやる。再び首に回された腕からは少女の少し不機嫌そうな高い唸り声が伝わって、風の中の緊張と集中で伸びていた背筋もまた、頭に寄りかかるように丸まってしまった。
「気長に練習しよう。足も治さないと。」
それっきり、少女は散歩の間黙りこくってしまった。
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