少年ルインと空から降った少女
音無詩生活
第1話
湿り気と暗さと冷たさを纏って丘の向こうから生温かい風を吹かせてくる。
いつもどこからか運ばれてきた真っ白な雲も、この大地の感情に同調するように、私たちの方には薄暗い表情を向けて見下ろしてくる。偶に切れ間から目をつむりたくなるような黄白色の日差しのカーテンを数本差し込んでいて、その裾足が池や湖に浸った時に、まるで優しい拒絶のように光を鋭く反射し、それが僕の目を刺して、それが僕の知るこの浅い谷の一番ありふれた景色だ。
幼さの衰えとしての青年期が始まるのであれば、彼は正にその渦中にあった。彼はズボンのポッケに手を突っ込んで、その中で上手く畳まれていないハンカチの角のシワを一生懸命人差し指と中指で挟んで伸ばそうとする。几帳面なのは育ての親である老婆の躾けの賜物で、彼にはその事が、まるで自分が自分のものではなかったような決まりの悪さを覚えてしまってから幾月の間に、いつもこの丘からの景色を1人で見に来てはぼんやりと自分の将来とこの丘の暗さとを重ねる寂しい遊びに興じる悪癖を覚えた。最初は自分のこの遊びは、普段世話をしてくれている老婆が以前母親の形見だと言ってプレゼントしてくれたそこそこの量の書籍の中から掘り起こした、古い伝承の勇者たちの物語に記される戦場司祭の祈りの時間に準えたりしてみたのだけれど、結局最近はその解釈にも納得がいかなくなってしまった。彼にとってこの時間が祈りになりえず、またそんな澄んだ気持ちや幸いな答え合わせの意味は持ちえない事に、薄々嫌々ながらも気付き始めた、そんな矢先だった。空から少女が落ちて来たのは。
彼にとって背中から翼が生えた少女の存在なんてものが、果たして空想の中だけで大空に羽ばたくファンタジーなのか、それとも現実のどこかに1人くらいいたっておかしくないものなのかという疑問は、まだまだ否定と決め付けの社会的秩序に磔にする意味も感じられてなどいない。彼はただ底の平らにすり減った革製のスニーカーが下り坂の小石に滑って頭を打たないか程度の心配ごとだけを引っさげて、鈍く輝く湖の湖畔に走り寄ったのだった。
自由落下の衝撃は少女を地面に2度も湿った丸太のように弾ませた。その事は少年の少ない経験から来る恐怖を強く駆り立てる。あれは2年前の夏の嵐の後、風に薙ぎ倒された街道の並木をどかす作業に村中の少年が駆り出された時に、大人が鋸で切った幹を荷馬車に放った時の音だった。
少年は駆け寄り、片翼を泥で汚しうずくまる少女の背中に触れようと、しかし彼女の身体にかかった落下の衝撃をもし私が受けていたのだとしたら、肩や背中を揺すられるなんて堪ったものではないという事にはすぐに気付けた。一度彼女の顔を、全容を、この視界に収め切ってみようと、動かない身体の周りをぐるりと回り込む。右脚が腫れている。頭から血が流れている。ただでさえ怪我で意識の無い、まして明らかに美しい少女を前に少年が取れる事なんて何一つなかったのだ。
彼は老婆を呼んだ。元々看護婦をしていたらしい事は話の節々から心得ていたから、下り坂を駆け下りる時には既にそうしようという事は彼の頭の中で半ば決まり切っていたのだろう。彼が結局少女を揺り動かす事も髪をかき上げて顔を覗き込もうともしなかったのは、早急に老婆に伝える方が賢い事で、大抵面倒くさがりな日頃の性格を今回も老婆に追究される少なくない可能性に思考が巡ったからに違いなかった。
夜、いつもなら夕食を済ませて暮れた星空をぼんやりと眺めている時間になっても、一向に少女を迎え入れた奥の部屋から老婆が出てこない事に不安を拭えず、少年は暖炉の前で古い勇者の物語を読み直していた。
「―――ある奥地の暗い谷の村に済む百姓の家に、1人の男の子が生れました。―――男の子はみるみる大きく成長して、牛にも負けない腕っぷしと、村一番の頭の良さで、村を襲う魔物たちを次々に懲らしめていきました。」
すっかり古びて、今まで読んだ色んな人々の手の脂が沁み込んだように薄汚れたページをまた一枚めくっていく。
「―――そんなある日、暗い谷の空が真っ白な光に満ち、・・・空から天使が舞い降りました。―――天使は純白の羽衣と大きな両翼を開いて、碧い瞳で少年に手を差し伸べました。―――『あなたは神がこの世界に産み落とした天使。魔族の王を討ち倒す為に生れた勇者なのです。あなたは立派に成長しました。さぁ、我らと一緒に旅に出ましょう。』」
ページをめくる。ページをめくる。ページをめくる。ページを―――。
・・・。
「ルイン。ルイン。寝てしまったのですか。」
「んん・・・。ごめんなさい。本を読んでいて。」
「いいえ。今夜は夕食の支度ができなくてごめんなさいね。」
「・・・あの子は。」
「やっと一通りの怪我が塞がりましたよ。全く、空から落ちてあの程度の怪我で済んだのだとしたら本当に奇跡ね。まさに天使だわ。」
「あの羽って飾りじゃなかったよね!」
「・・・あの子はいったい何者なのかしらね。私には分かりません。」
「イェルダばあちゃんも今まで見た事なかった?」
「・・・当たり前でしょう。翼の生えた人なんて。全くこの年になってそんなものと出くわすなんて。私の人生はなんて平穏と無縁の生活なんでしょう。」
「あの子を診てくれてありがとう。・・・でもお腹空いちゃった。」
「はいはい。今夜は茹でた芋とタマネギのスープで許して下さいね。」
「はーい。ねぇ、彼女の事を見てもいい?」
「今晩はそっとしてあげなさい。頭を打っていますからね。」
「はーい。」
暖炉の消えかかった炎が炭の奥でチラチラと手を振っている。
昼の生温かい風を未だに思い出す。きっと彼女が空から降ってきた光景の美しさと仄かな恐ろしさに非日常の刺激を受けた脳が、身体が、その記憶を僕の体験に刻み込もうと軽いフラッシュバックを起こしているんだろう。あれはまるで、きっと、物語の勇者も見た景色にどれくらい似ていたのだろうか。そればかり考えて、僕が再びこの世界に生まれた勇者なんじゃないかという熱い予感を何度も何度も反芻しているのだ。
「ルインぼっちゃん。」
イェルダが僕をこの呼び方で呼ぶのは珍しいことだ。その呼び方を最後に聞いたのは、去年の冬も初まろうかという季節に突然訪れた、古い父親の親友を名乗る客人をこの家にもてなした時だった。決して嫌味っぽくも引っかかりもなくイェルダの口から吹き出された僕の名前の音律に、僕が取り付く暇などないのだけれど、きっとこの呼び方にはまだ僕の分かっていない理由があるのではないだろうか。そんな疑問の解決をいつからか期待するようになったのは、まだうんと幼い頃からだった。
「これからしばらく、私は昼前にはこの家に伺います。」
「なんで?あの女の子がいるから?」
「そう、ですね。手当もしないと。明日は朝には来ることにします。」
「泊って行けばいいのに。」
「私もうちにお仕事が残っているの。家の鍵は開けておいてちょうだいね。」
「うん、わかった。」
「もうすぐスープが煮えるわよ。食卓にいらっしゃい。」
「はーい。」
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