51:2人の守護者/前編

 番人が開けてくれた、永遠の塔へ繋がる金色の扉を通り抜ける。

 この扉には、舌の無いドアチャイムは取り付けられていない。あれは何だったんだろうと思うけど、さっき番人に「うるさい」と難癖をつけられたので黙っておく。


 しかし、今の私が身に着けているのは、シャツとズボンとスニーカーだけ。シャツは地面に転がったりして薄汚れて皺くちゃだし、髪もくしゃくしゃ。完全な手ぶら状態でかなり心細い。


 ――大丈夫、菜月なら必ず上手くやれる。頑張れ


 その時、父親の励ましの言葉を思い出して、急いで背中はまっすぐにして頭を上げる。そうだ。私は何としても、ダンジョンの守護者として、番人と喧嘩してでも、深海魚の事を納得させないといけないんだ。でも体中のあちこちが痛む。


 永遠の塔に足を踏み入れるのは2度目だけど、前回は扉を開けると石造りの通路が伸びていた。

 今回は、入るとすぐに円形の広い部屋だった。ガランとしていて、これも円形の大きくて重厚なテーブルだけが部屋の中央に置かれている。ただし椅子は無い。

 薄い灰色の壁に、シンプルな扉が3つある。天井は曇りガラスのようで、白っぽい光が室内に柔らかく差し込んでいる。物音はしないけど、やっぱりお香のような匂いが漂っている。番人の趣味なんだろうか。何となく足を止めて、天井の光を反射するテーブルの表面を眺めていると、番人に「こちらへ、守護者」と声をかけられた。

 番人の後について、一番右端のドアを別の部屋に入る。あんまり歩くと、右足首が辛いけどな……。


 扉を一歩入ると、そこは晴れ渡った青空の下、見渡す限りたくさんの花々が咲く美しい庭園が広がっていた。


 思わず「うわー」と歓声が出てしまう。

 様々な花が咲き誇る花壇の中央にある噴水からは、水が落ちて涼し気にキラキラと煌めいている。

 ここは永遠の塔のてっぺんだろうか? 前とはずい分雰囲気が違うけど。

 ついつい周囲の景色などを楽しみながら、つるバラのアーチが続く通路を番人について歩いていくと、前方に大きな樹が見えてきた。低い所の枝の葉の間には幾つもの小さな鈴が結びつけられ、時々澄んだ音色を響かせる。

 ああ、この樹は前回来た時には、だだっ広い石造りの広場の中央にあったなあ。


 大きな樹の木陰に、白いテーブルクロスをかけてピンク色の可愛い花が飾られたテーブルと白い大きな椅子が2つ置かれていた。

 番人が座り、白いシルクハットを脱いで地面に放り投げながら「どうぞ座ってください」と向かいの椅子を勧めてくれた。良く見ると、地面のあちこちにスミレが咲いている。

 いつの間にテーブルを準備したんだ、と思いつつ、遠慮なく大きな椅子に座り込む。はあ、身体が楽だし落ち着く……落ち着いちゃ駄目かな。見上げると、気持ちの良い風が吹き、木の葉がさらさらと揺れ、鈴の音が響く。


 番人の背後に、前に来た時に番人が座っていた白い石で出来た東屋が見え、黄色に輝くエニシダのような花に埋もれたようになっている。

 私の視線に気づいたらしい番人が、とりあえず愛想の良い感じで話しかけてきた。

「先日は、時間がなくてきちんともてなす事が出来ませんでしたからね。今日はじっくり、お茶会でお茶やお菓子を楽しんでください」

「お茶会……はあ、どうも」

 喧嘩をするつもりで身構えていたから、思わず間抜けな返事をしてしまう。


 ちらちらと煌めく木漏れ日を眺めていると、同じように眺めていた番人が言った。

「この大木は世界樹です。まあ本物ではないですが」

 心なしか、雰囲気が穏やかだ。

「世界樹って、あちこちの国の神話に出てくる巨大な樹の事だよね」

「そうです。本物の世界樹はこの宇宙のどこかにあります。でも誰も決して見る事が出来ないんですよ。実はこの樹は永遠の塔を貫く巨大さなので、私は世界樹と呼んでいます」

「へえ。意外とロマンチストなんだね」

 私にロマンチストと言われて、浮かべた笑顔が優しい。ふーん本当に花や樹が好きなんだな。15階で番人が、殺風景だから花をお裾分けしたと言ったのは本気だったのかもしれない。大きなお世話と言い放って悪かったかな。でも勝手にダンジョンを変えられるのもなあ……。


 悶々と考えていると、番人は横手の小卓の上に置かれた大きな籠の中から、小さな白いカップと小瓶を取り出し、液体を注ぎながら呟いた。

「世界樹は、実在するのか夢想の存在なのか、どちらだろうかと良く考えます」


 小さなカップが私の前に置かれた。

「どうぞ。体の痛みが和らぐ薬草シロップです。眠くなったりしませんので安心してください」

「あ、はあどうも。頂戴します」

 思わず丁寧に礼を言ってしまう。やっぱり足を引きずっているのに気づいてたのか。濃い紫色の液体を、まあ毒じゃないだろうと思い切ってグイと飲み干す。とても甘いけど美味しい。

「スミレの花から作ったシロップです。喉の痛みにも効きますよ」

「ああ。確かに喉も痛かったので、助かります」

 思わず番人の顔をしげしげと眺めてしまった。永遠の塔に籠っているようなのに、不思議な才能があるんだな。

 間違いなく目鼻立ちの整った、年齢不詳の美青年なんだけども、印象には残らない感じだ。やっぱり人間じゃないからかな。でもその分、紫色の瞳の印象は強い。


 椅子にゆったりと座り直した番人が、指を組んで私の方を見た。

「さて。まず何から知りたいのですか?」

 私はカップを置いて、ふうと息を吐いた。改めて聞かれると少々焦る。

「えーとあの、夢現の守護者って、あなたは何を守護しているのかなと」

 番人は、軽く頷いた。

「この宇宙は、夢にも現にも満ちていて、そしてどちらもとても不安定です。夢と現はほとんど同じです。けれどどちらも違い、朧げでも境目は厳然としてあります。私はどちらも見て、どちらも守護し、境目が混濁しないように注意しています。あなたには非常にわかりにくいでしょうが」

 わかりにくいどころか、さっぱりわからない。


「うん。あなたが、大事な事をしているのだけは良くわかった」

「夢も現も、生も死も、ほとんど同じです。けれど完全には同じではない。あなたたちは、その不安定な境目に着かず離れず、意識せず漂っている存在なのですよ」

「はあ」

「記憶は決して消えず永遠に残ります。そして人は記憶を元に夢を見る。そしてその夢も記憶する。夢は不安定です。けれど人はその夢に憧れ、その憧れも記憶します。人の記憶とは、どこまでも夢に満ち、不安定なのです」

「そういえば、暗黒女王が似たような事を言ってたかな。私を記憶庫のどこかに連れ込んだ時に」

 番人は少しだけ苦笑した。

「ああ、そうかもしれませんね。彼女は人間の記憶というものに、ひどく固執していましたから」

「そういえば、あなたと暗黒女王はどういう関係なの。仲間じゃないって言ってたけど」

「単なる知人です」

「知人って……あなたがダンジョンの14階に<裂け目>を開けて、彼女をダンジョンに引き入れたんでしょう?」

「そうです」

「どうして」

「あのダンジョンに、無限の記憶庫の扉があると教えたら興味を持ったからです。あとは好きにさせました」

 呆れて、番人の顔をまじまじと見つめてしまった。


「彼女はあなたに<裂け目>を閉じられて、裏切られたって怒り狂ってたんだけど」

「裏切ってなどいませんよ。私が開けた<裂け目>が閉じられても、彼女は自分の世界に帰還できました。普通にダンジョンの壁に通路を開ければ良かったんです。ただ<裂け目>は、彼女の世界に直接繋がっていて、出入りが簡単でした。それがひどく気に入っていたようですから、怒ったんでしょう。壁の通路を利用すると行き来に時間がかかりますから」

 私は、大きな黒猫のようになって鱗氏に抱えられて去って行った暗黒女王を思い出した。


 ――お前も利用されているだけだ。良い気分になっていられるのも今だけだ。ざまあみろ守護者


 今、こうやって話していても、私は番人に利用されているんだろうか……? いやそれは覚悟の上だ。

「あなたの好奇心のためにもう少し詳しく言うと、彼女も本質の星から作られた存在です。私のように直接作られた訳ではありませんが……そうですね、いうなれば遠縁のような関係です。宇宙には、全ての均衡を保つために暗闇の世界が幾つかありますが、彼女はその世界に属する一人です。女王と自称している理由までは知りませんが」

「遠縁ねえ。でも最後は、力が無くなって大きな猫みたいな姿になってたけど」

「彼女の世界の仕組みですよ。私が関知するところではありません」

「だから、どうしてあの時に何の説明も無しに、いきなり<裂け目>を閉じたの」

「彼女の存在や行動は不要になったと判断したからです」

「はあ? 不要って、無茶苦茶じゃない!」

 番人は首をひねった。

「そうですか? 不要になった理由を説明する必要を感じなかったので」

「ひどいなあ。じゃあ15階へ下りられなくしたのも?」

「あれは、15階であなたや私の邪魔をさせないためでした。もうすぐ扉を閉めようと言う時に、彼女に記憶庫に入り込まれては色々面倒ですから。あそこまで逆上して暴れるとは思いませんでしたが」

 軽く言われて、カチンときた。やっぱりどこからか14階の騒動を見ていたんだ。

「こっちは暴れられて、大迷惑だったんだけど。ダンジョンは勝手に変えられるし。でももしエルフの王女に暗黒女王が殺されてたら、あなたはどうするつもりだったの」

「どうもしません。あなた達に降参するのを拒否したのは彼女ですから、私には関係のない事です」

 穏やかそうに見えてとことん冷酷だな、この番人。本当に守護者なんだろうか……。私は少々嫌味ぽく言った。


「でも14階で、暗黒女王とあなたの瞳の色が同じ紫色だと気づいたんだよね。だから『永遠の塔』の番人が実は仲間で、裏で手を引いてるんじゃないかと予想した」

 番人は、手を目元に当てて苦笑した。

「どうしてこの色なのかは私にもわかりません。しかし裏ですか。私は別に隠れてはいませんでしたが」

「よく言うわ。私がこの塔に来た時、初めてダンジョンの<記憶の奔流>に気が付いたような事を私に言ったくせに」

「何も知らなかったあなたを、記憶庫へ誘導しようとしたのは認めます」

 むかっとして睨んでも、番人は平気な顔だ。私の気持ちは、どうでもいいらしい。


「あなたが暗黒女王にダンジョンの過去や動かす方法を教えたんでしょう?」

「そうです」

「どうして」

 番人は、あっさりと答えた。


「深海魚を混乱させるためです」


「ダンジョンを地上と繋げて、温泉や施設を変化させたのも?」

「そうです。全て深海魚を混乱させるためです」

「どうしてそんな事を?」

「私は深海魚の思考には干渉できません。だから深海魚の行動の結果に干渉しました」


 砂浜に座って、背中を丸めて俯いていた深海魚の姿……。

「行動の結果って、深海魚は、混乱と言うより悲しんでいたよ」

 番人は表情を変えない。

「同じ事です。私は、深海魚に対してあらゆる手段を取る必要があったのです。けれど、この件は後であらためて話しましょう」

 番人は少し黙った。

「深海魚に関しては、複雑な話になりますからね」


 私は両手を握り締めた。

「わかった。でも、前にこの塔であなたに会った時に話したけど、記憶庫の扉を閉めて本の増加を止めてダンジョンを安定させるというのが、私の目的だった。でも番人、あなたの目的は何だったの? どうして記憶庫の扉を閉める必要があったの?」


 番人は、テーブルの上の花を眺めながらしばらく黙って、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

「深海魚が、<記憶の奔流>を本の形態を作るのに利用したからですよ」

「え?」

「あなたは、本が増えるのが止まれば良いと考えていた。けれど私は、記憶庫の扉を閉めて<記憶の奔流>を戻し、ダンジョンと記憶庫を完全に切り離す必要があったのです」

 番人は頬に手を当てて、考え込むような姿勢になった。


「そもそも、<記憶の奔流>はあのように使うような存在ではないのです。

 <記憶の奔流>は、本来は無限の空間である記憶庫の中だけに存在し、ある一定の複雑な法則に従って流動しています。けれど、深海魚は<記憶の奔流>を枝分かれのようにして記憶庫の外に、ダンジョンに出しました……迂闊な事に私も気が付くのが遅れたんですが……。


 深海魚は<記憶の奔流>を利用して、本の形態に変化させ、本棚に無限に増やしていった。しかし全て利用した訳ではないのです。本の形態にならなかった<記憶の奔流>の欠片かけらのような部分は、ダンジョン内で微風となり、目には見えない漂う記憶となりました。この漂う記憶も実はやっかいなのですよ。影響は小さなものですが、思考の邪魔をしたりしますから。


 けれど問題は、風の勢いが徐々に強くなる事でした。なぜなら記憶は無限に増えていき、ダンジョンでの欠片かけらも増え、大元の<記憶の奔流>も記憶が増えると法則が変化するからです。

 けれど、本を無限に増やす事だけを考えていた深海魚は、状態の変化を無視しました。

 <記憶の奔流>の風や漂う記憶は、いずれはあのダンジョンを満たし、ダンジョンと繋がる空間を強風となって通り抜けて、やがて星の世界に到達し、本質の星を揺らす恐れがあった。

 記憶庫に戻る時の、<記憶の奔流>の凄まじさを見たでしょう。あの勢いで星の世界を暴風が襲い、本質の星を襲ったら大変な事になる。

 本質の星が揺れる。それだけは絶対に避ける必要があったのです」


 星の世界で見た、真っ白な空間に浮かぶ、巨大な青い星を思い出す。あの星がある神秘的な世界を暴風が襲う……白いタンスの形のダンジョンを見守っている生意気で可愛い<夢>……。

「じゃあ、星の世界にある、私が作ったダンジョンの形や見守っている守護者も危険に」

「もちろんです。星の世界には、存在の根源に関わる様々なものが無数に保管され置かれています。加えて、あなたが会う事は無いでしょうが、番人や守護者が存在を見守っています。彼らは、存在を守る役割ですから、真っ先に暴風の危険に晒されるでしょう」

 <夢>が危険な目に? 想像しただけで恐ろしくなる。


 長く喋ったからか、番人は籠から小さなカップを取り出し、小瓶からスミレの薬草酒を注いで味わうように啜った。

「この宇宙の全ての存在は、『本質の星の輝き』と強く弱く繋がっています。意識することは絶対にありませんが、あなたはダンジョンの形を作る時に見たでしょう? 本質の星が揺れると、繋がっている全ての存在が揺れる。時間の流れが全く違いますから、揺れの発生には時間差どころか時代の差もあります。大きく揺れるのは遥か未来かもしれない。が、確実に全ての存在を根底から揺るがす。つまり全ての存在が、想像も出来ないような危険に直面するのです」

「あの、深海魚のダンジョンも危なくなっていたの?」

「すぐに危険という状況ではありませんでした。しかし時々、風が吹くので警戒はしていましたよ」


 番人は急に強い口調で言った。

「あなたが庇っている深海魚が仕出かした事の危険さを、理解してもらえましたか?」

 私は言葉につまって、思わずうつむいた。

「それは……深海魚は……危険なのを知らなかったんじゃあ……」

 冷たい言葉が返ってきた。

「知る以前の問題です。深海魚には危険という概念がありません。あれは、どこまでも自分の事だけしか考えていません」

 私は言い返せなかった。深海魚は、確かに祖父と自分の事だけを最優先に動いて、他の事を無視しているのは、私も薄々感じていたのだ。


 黙り込んでしまった私をさすがに哀れに思ったのか、番人が態度をやわらげた。

「……あなたの希望とはいえ、いきなり色々と説明されて混乱したでしょう。少し息抜きをしてください」

 そういうと、番人は、横手の小卓の籠の中から大きなティーポットや白いカップを取り出し、お茶を注いで、私の前に優雅な手つきで置いてくれた。

「どうぞ、バラ茶です。気分が落ち着きますよ」

 私はありがとうと呟いて湯気の立つカップを手に取り、お茶を啜った。バラの香りが口や鼻いぱいに広がる。

「いい香り……とても美味しい」

「それは良かった。この庭園のバラで作った、私の自慢のバラ茶ですからね」

「へえ、あなたのお手製なの」

「そうです。私の趣味です。色々な世界の花や薬草を調べて、詳細に記録するのが楽しみなんですよ」

 手品のように、番人は籠の中からスミレの砂糖漬け、メイプルシュガーをたっぷりかけたパンケーキ、バターをたっぷり塗ったミニトーストなどを取り出し、テーブルの上に並べた。これらのお菓子は、番人曰く、塔の調理場に住む子分たちが作っているらしい。妖精みたいなものだろうか。

 辛うじて気持ちが落ち着き、しばらく2人とも黙ってバラ茶を飲みお菓子を食べた。


 やがて番人が、改めて私に言った。

「これから、あなたに大事な事を話します」

「大事な事?」

「そうです。我々が深海魚と呼んでいる存在に関してです。深海魚については長い話になるので、覚悟してくださいとダンジョンで言いましたね」


 そうだった。私は黙ってうなずき、番人はカップを置いた。

「深海魚は血縁者であるあなたに、巌氏と出会う前の自分の過去を話しましたか? 原風景の海辺で深海魚と菓子を食べていましたね」

 うわ。水平線の向こうの永遠の塔からあのピクニックを見ていたのか。

 祖父と出会う前? 私は思い出しながら答えた。


「えーと。深海魚は自分の姿を覚えていない。長い年月、海の底で魚だったけど、でも本当は何だったのか覚えていない。もしかしたら、転がる石だったのかも……それである日気が付いたら人間の手で剥製になっていて、でもその辺は全く記憶に残っていない。その後剥製として世界を転々として、ある日骨董品店で祖父と出会った、と」

 私の話を聞いた番人は、上着のポケットから古風な懐中時計を取り出すと、パチンと蓋を開けてしばらく眺めていた。

「……なるほど、そこまでは概ね嘘はついていませんね。というか過去を気にしていないとも言えますが」

「そこまでは? そりゃ化石レベルの遥か大昔みたいだから、色々忘れている事は多いだろうけど……」

「忘れてなどいませんよ。深海魚は、そもそも過去の記憶をほとんど持っていないのです」

 番人は懐中時計の蓋を閉めてテーブルの上に置くと、真っ直ぐに私を見た。

「この世界では、全てのあらゆる存在に記憶があります。が、深海魚は、記憶庫に記憶が存在しません。あるのは、細切れの薄い記憶の断片のみです。

 深海魚の正体は、別の宇宙から来た、本質の星と全く繋がっていない我々とは全く異質の存在なのです」

 私は目をぱちぱちさせた。

「別の宇宙……そりゃ驚きはするけど、意外じゃないな。そこまで珍しい存在なの? こっちの世界にも異星人は存在してるし、今は海底ダンジョンから、海中をうろうろする異世界の住民や、魚型モンスターがたくさん出現しているんだよ」


 番人は、いささか哀れむような眼で私を見た。

「本質の星と全く繋がっていないと言ったでしょう。あなたから見て異星人だろうがダンジョンの異世界の住民だろうが、私からは変わりがありません。この宇宙に存在する以上本質の星と繋がり、記憶庫に記憶は保管されています。が、深海魚は全く違います」


 バラ茶を一口飲んで、番人は話を続けた。

「ここからは完全に推測になりますし、便宜上、あの存在を深海魚と呼びます。


 遥か昔、深海魚は別の宇宙から、あなたの元の世界にある深海に漂着したようです。

 その時、どういう姿形だったのかは勿論不明です。やがて深海魚は、深海の魚の意識を乗っ取り、己の意識を定着させ一体化し、今の深海魚となった。あなたには乗り移ったと表現した方がわかりやすいでしょうね。

 この時から、こちらの世界の思考方法などを会得したのか、弱く途切れ途切れな深海魚の記憶が保管され始めます。ただ、原因は不明ですが、すぐに昏睡状態になった。長い年月を海のどこかで眠って過ごし、目覚めた深海魚はしばらく海のあちこちを漂っていた。けれど、次は海水が冷たくなり、また昏睡状態になった。やがて捕獲され、剥製になり地上の人間たちの間で微睡んだような長い年月を過ごした。この期間も、記憶はごく断片的にしか残っていません。人間の手であちこち移動し、やがてあなたの祖父と出会った」


 番人は、少し身を乗り出した。

「ここからが重要です。深海魚があなたの祖父、巌氏と出会った事が全ての始まりです」

 真剣な顔で言われて、私は戸惑った。

「うん、祖父は骨董品店の店頭で偶然見かけた剥製の深海魚を気に入って、話しかけてきたって深海魚から聞いた。とても嬉しかったって」


 私の言葉を聞いた番人は、珍しく考え込んでいるような表情でテーブルの上を指で叩く。

「……番人?」

「……違います」

「違うって何が」

 指の動きが止まった。


「私は、深海魚の記憶も、重要な存在である巌氏の記憶も、全て丹念に追跡し調べました。

 巌氏の趣味は知っているでしょう? 書籍以外では、可愛い小物やガラスの小瓶を好んで集めたりしていた。動物では、ウサギや猫が好きだった。そして真奈美氏が華やかなドレスなどで装うのを見る事を何よりも喜んでいた」

「そうだね。そうだったみたい。仲良し夫婦だったそうだから」

 真奈美という、写真や映像でしか会った事のない祖母の名前を聞くのも久しぶりだ。

「そういう趣味の持ち主だった巌氏が、骨董品店の店先で半ば忘れられ、埃をかぶっていたような魚の剥製に興味を持ったのを、あなたは不思議に思ったことはないのですか?」


 突然の質問に、私は固まってしまった。言われてみれば、確かに。

 でも確か深海魚は……。

「でも深海魚は、祖父が笑顔で、お前は生きているなって話しかけてきたって……珍しい剥製だから、好奇心の強い祖父が興味を持ったんだとばかり」

「改めて言いますが、違います。まず深海魚が骨董品店に来た巌氏の存在に気づき、巌氏の思考に影響を与え、自分に話しかけるように仕向けたのです」

「えっ!? 深海魚から?」

 それは、話がかなり違う。

「深海魚と巌氏の出会いは、完全な偶然です。巌氏は確かに好奇心が強かった。また深海魚と精神の波長が合う部分もあった。微睡んでいたにも関わらず、深海魚は幸運な偶然に気づき、即座に巌氏に働きかけました。そして巌氏の反応を見てから自分を買わせて、巌氏の手元に『非常に気に入った貴重な剥製』として常に置かせたのです。

 もちろん、深海魚が巌氏の思考を乗っ取った訳ではありません。人間の思考は、感情や知識も含めて非常に難解で複雑ですから。が、深海魚は巌氏の思考や言動に始終強い影響を与え続け、世界の様々な事を巌氏経由で学んだのです」


 ――世界をただ見ているだけだった私に、世界を理解させてくれたのがあの人だったの。驚いたなあ。


 深海魚の嬉しそうな、懐かしそうな言葉は嘘だったの? 呆然としている私に、番人は語り続けた。

「深海魚は、やがて巌氏と共に帰国しあの屋敷の書斎で、微睡む事もなく巌氏と過ごしました。この辺りは、記憶庫の記憶も明確です。深海魚は書斎での日々に満足していたので、巌氏の恋愛や結婚は無視していました。深海魚は真奈美氏に興味が無く、真奈美氏も書斎の剥製などは眼中に無かったのです。やがて勇氏が生まれました」


 ちょっと待て。父親があそこまで剥製の深海魚を徹底的に嫌った訳はもしかして。

「まさか。私の父が深海魚を破壊しようとまでしたのは」

「……勇氏は、深海魚が巌氏の思考や行動に影響を与えているのを、無意識に察知したのですよ」

 私はテーブルの上で手を握り締めて、番人の顔を凝視した。頭の中で色々な事が、混乱しつつ繋がり出す。


「真奈美氏が死亡した時、もちろん巌氏も勇氏も嘆き悲しんだ。が、深海魚は何も感じなかった。当然です。そして巌氏が悲しんでいるのを無意味に思い、巌氏の悲しみの感情をほとんど取り去ったのです。結果として、巌氏の行動に怒り不審に思った勇氏との衝突が始まった」


 私は体中が冷たくなったような気がした。ずっと不思議だったのだ、なぜ祖父と父親はあそこまで仲が悪かったのかと。父親は、母親にも祖父と険悪になった詳しい理由は決して口にしなかったらしい。いや、父親にも上手く説明できなかったのだろう。でもまさか深海魚の影響だったなんて……。

「今は関係がありませんから、これ以上の詳しい記憶の話はやめておきます。ともかく巌氏と勇氏の仲が更に険悪になったのは、深海魚が何かと自分を攻撃し破壊しようとしてくる勇氏を遠ざけようとしたからです。そしてそれは成功し、勇氏は書斎を訪れる事は無くなった」


 猛烈に、無念さと悲しみの感情が沸き上がって来た。もしかして若い頃の父親が、深海魚の剥製の破壊に成功していたら、何もかも違っていたのだろうか……過去は変えられない……でも……。

 番人は、小さく溜息をつくとバラ茶を飲んだ。


「あなたにとっては辛い記憶でしょうが、しかしここまでならまだ良かったのです。

 深海魚がずっと剥製として巌氏の書斎に置かれていれば。巌氏の寿命が尽きても、ずっとそのままだったら。いや、元の世界ならば剥製が破壊されても、深海魚の意識はまた漂って何かに定着するだけだったでしょう。そして長い年月の間に、意識は弱まりいずれ消滅したかもしれません。

 けれど、大陥没が起きた。あの事故で全てが変わりました。深海魚は、異世界の空間で破壊された事で、別宇宙の恐ろしく強大で危険な力を持つ存在として、完全に甦ってしまったのです」


 急に風が吹き、世界樹の枝に結び付けられた幾つもの鈴が揺れて、ちりんちりんと鳴った。

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