二二章 わたしが受け継ぎます
「足元に気をつけろ! 滑りやすいからな。転ばないよう気をつけるのだぞ」
「そこ! 段差があるぞ。気をつけろ」
「ああ、ほら! 小石があるじゃないか。つまずいて転ばないよう気をつけろ」
ここに来るまで、万事がこの調子。一歩歩けば『気をつけろ!』、二歩歩けば『気をつけろ!』、途絶えることのない『気をつけろ!』の連発に――。
ノウラはとうとうキレた。
「
「夫が妻を心配してなにが悪い!」
ノウラはまなじりをつりあげて怒ったものだが、
ノウラを妻として受け入れたあの日以来、
はああ~、と、ノウラはそんな夫の態度に深いふかいため息をついた。
「あのですね、
と、両手に腰をつけ、まるで生意気盛りの児童を諭す女教師のような態度で
「ご心配してくださるのはありがたいですよ? でも、ものには程度というものがあります。あんまりしつこくされるとありがたいのを通りこして、ウザったくなるだけです」
「なにを言うか。お前はまだ退院したて。つい先日まで死にかけていたのだぞ。いくら心配しても足りると言うことはない。まして、ここは氷の船の船上。滑りやすくて危険だからな」
「この霊園はきちんと土を入れられて、草も生えているではありませんか。滑る心配なんてありません」
「生えている草に足をとられるかも知れんだろう。小石だってあちこちにある。つまずく危険は常にあるではないか。そうだ。いっそのこと、おれが背負って……」
「
ノウラはさすがにたまりかねて叫んだ。もう一度、思いきり重いため息をつく。
――まさか、
「そいつは、昔からそうよ。最初のうちはそっけないくせにいったん、心を許すとデレデレになるんだから」
そう言って、天国で苦笑いしながら語りかけてくる
「あのですね、
ノウラは両手に腰をつけたままため息交じりに言った。
「お互いの歳を考えてください。わたしは二〇代。
「なにを言うか。いまどき、七〇代などまだまだ若造。そう言って、おれにハッパをかけたのはお前だろう」
「だからって。体が衰えていることは確かなんです。若い頃のようなわけにはいかないんですよ。
高齢者にとって一番、怖いのは転倒することなんですから。なんでしたら、わたしの方こそ背負ってさしあげたいぐらいです。
ノウラはため息をつきながらそう言った。
「なにを言うか。おれはまだまだ他人の世話になる必要など……おわっ!」
ノウラの言葉に自分の体力を誇示したくなったのだろう。
悲しいかな。やはり、七〇代。張りきりすぎて頭に血がのぼったか、息がつまったか、はたまたバランスをくずしたのか、地面に倒れ込みそうになった。
「危ない!」
ノウラがあわてて
しかし、相手は七〇代とはいえ、決して小柄ではない男。若い頃に比べて筋肉量はさすがに落ちているがそれでもまだ、体重は七〇キロ以上ある。その重量を女の細腕、それも、お姫さま育ちのノウラの腕で支えるのは厳しい。あわてて抱きついたはいいものの、支えきれずに一緒に倒れ込みそうになってしまう。
――そうはいくかあっ!
ノウラは心に叫んだ。
この歳になって一〇代バカップルのようにお互いにもつれ合って倒れて、偶然――そんな偶然があるか! と、叫びたくなる形で――思わず唇と唇を接触させてしまったり、もっときわどくスカートのなかに頭を突っ込んだり……などと言うラブコメ展開などやっていられない。
そもそも、一〇代ならともかく、七〇過ぎて転んで、怪我などしたらシャレにならない。病院のベッドに縛りつけられ、そのまま寝たきり生活直行である。
そんなことにはさせられない。夫を支える妻として、夫の身は守ってみせる!
――どおすこ〜い!
妻としての使命感をその胸に燃えたぎらせて、ノウラは心に叫ぶ。力士のように両足を踏ん張り、渾身の力で倒れそうになるふたつの体を支える。ドレス姿で四股を踏むかのように大股開きで膝を曲げたその格好。
はたから見れば王妃さまにあるまじきはしたない姿だが、そんなことは気にしていられない。気合いを込めて全身の力を振りしぼり、うっちゃりよろしく
おかげで、自分の方が倒れそうになったが、なんとか足を踏ん張り、転倒をまぬがれる。
「ハ、ハアハアハアッ……」
なんとか体勢を立てなおしたノウラだが、渾身の力を振りしぼったせいで息は切れぎれ、汗はビッショリ。長い髪が汗だくの額に張りついて『世界で二番目の
「す、すまん……」
さすがに
「……まったく。いい歳して、見栄を張る子どもみたいな真似をしないでください。子どものような回復力はないんですよ」
「う、うむ、すまん……」
ノウラに言われて
そんな
「仕方ありません。ここは、お互いに支えあって歩くとしましょう」
ノウラはそう言って
すると、
「うむ。お互いに支えあう。それでこそ、夫婦というものだな」
そして、新婚の歳の差カップルは霊園のなかを歩いていった。
そこは、氷の船の船上に作られた霊園。
地球回遊国家に生き、地球回遊国家に死んだ人々が文字通り骨を埋めた場所。氷の船の上で、そこだけは土が盛られ、草が生え、木が生い茂っている。花が咲き、チョウが舞い、ミツバチが飛んでいる。
そのなかで、ノウラと
ふたりとも静かに墓石を見つめていたが、その表情は神妙と言うには愛おしさと懐かしさとが含まれすぎていた。
ふたりの見つめる墓石。そこにはただ一言、
――我が妻、
とだけ、あった。
「
と、
「おれは、このノウラを妻として迎えた。だが、
「はい」
と、ノウラも
「わたしは幼い頃からずっと、おふたりに恋してきました。
ふたりはそれぞれに
ふたりは
「ノウラ。夫婦となる上でこれだけは約束してほしい」
「なんでしょう?」
「おれが将来、認知症になったり、寝たきりになったりしたら、そのときはためらわずに殺してくれ。なにもできない役立たずとなって、お前に苦労をかけることだけはしたくないんだ」
ノウラは
「いやです」
「ノウラ!」
「
「なに?」
「国王であるあなたが『役立たずになったから死ぬ』などと
「あ、いや、それは……」
「……そんな未来を望むわけではないが」
「そうでしょう? わたしも、そんな世界は望みません。ですから、
そう言われて――。
こんな爽快な笑い声を立てたのは、生まれてはじめてかも知れない。
そう思う笑いだった。
「わははははっ! よかろう! そういうことならこの
「はい。その意気です。ああ、ご心配なく。わたしは『夫の面倒は自分でみる!』なんて言い張るほど、けなげではありませんから。そのときまでにちゃんと、国をあげての介護体制を作りあげて楽しますから。共倒れになったりはしませんよ」
『いけしゃあしゃあ』という言葉の見本のような表情でそう言ってのけるノウラに対し、
「うむ。それでこそ、おれの妻だ。楽こそ正義。お互い、楽して暮らせる世界を作りあげようではないか」
「はい」
と、ノウラはうなずいた。それが『自分たちが苦労して、他人が楽して暮らせる世界を作る』という意味であることは、ふたりとも重々、承知していた。
そして、ふたりは王宮へと帰ってきた。霊園のなかを歩いていたときと同様、しっかりと腕を組み、お互いにその身を支えあって。
そのふたりを侍従長のゾマスが迎えた。ゾマスは
「お帰りなさいませ。
その言葉に――。
ノウラと
そこにいたのはそれまでの、歳の差はあれど仲の良い普通の夫婦などではなかった。危険な、あまりにも危険な策謀家たちだった。
「いよいよだな」
「はい」
「我が妻を殺しかけたものに……」
「我が夫を殺そうとしたものに……」
ふたりは危険な笑みを浮かべたまま、声をそろえて言った。
「血の制裁を!」
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