二一章 妻となってくれ
「……
それが、医師によって人工呼吸器を外されたあと、ノウラが口にした最初の一言だった。
その言葉のあと、その美しい顔に浮かんだものは、
「……よかった」
ノウラはそう呟き、息をついた。
その言葉はさすがに、ノウラ本来の快活さや力強さには欠けていたがそれでも、しっかりと意思の込められた口調だった。
さすがに、若く生命力に富んでいるだけのことはある。
そう言うべきだろう。一度、峠を越えて危機を脱するとノウラは急速に回復した。口調も表情もすぐに本来の快活さと力強さとを取り戻したし、食事も普通にとれるようになった。消化しやすさを考えて病院側が病院食を用意しても、
「病院食なんていや! 豆料理を詰めたピタとタンドールチキンをもってきて!」
と要求する始末。
そして、看護士が怖々と運んできたそれらの料理を、健康な一〇代男子もかくやというほどの食欲を見せつけて盛大に平らげた。その旺盛な食欲振り、たくましさには医師としても、
「少しは、病人であることを自覚するように」
と、苦虫を噛みつぶしながら注意したほどだ。
ともあれ、そんな調子だったので、すぐに会話も許可された。
「……そうですか。ズフラにそのような尋問を」
「すまん」
と、
「君の妹にひどい真似をしてしまった。だが、あのときは、おれも手段を選んでいる余裕などなくて……」
実のところ、
それでも、ズフラはノウラの妹。ズフラではなくノウラに対する気遣いからそう謝った。
しかし、ノウラはいたって淡々とした態度で言ってのけた。
「お気遣いなく。もともと、妹などとは思ったことのない相手。
そう。どんな手段をつかってでも。
そう言って『ニヤリ』と笑うノウラの姿は――。
控えめに言っても『魔女より怖い』ものだった。
「ノウラ……」
「それより……」
ノウラは心からの安堵を込めて言った。
「
そう言ってちょっと首をかしげて微笑みながら言う姿は、万人が『なんだ、ただの女神か』と呟くようなものだった。
「おれが無事でよかった、か……」
「なぜ、君はそこまでおれのことを気に懸けてくれるんだ?」
「愛する夫を気遣うのは当たり前のことでしょう」
なにか理由が必要なのですか?
心から不思議そうに尋ね返すノウラだった。
「愛する、か。おれも……」
「おれも、君を愛したかった。君と過ごした時間は楽しかった。
ほう、と、息をついた。
「おれはもう歳だ。若い君にふさわしい相手ではない。それに……」
「おれには
「いいではありませんか」
「えっ?」
思いがけないノウラの言葉。その言葉に思わず顔をあげた
聖母と言ってもいいほどに優しさと愛情に満ちた笑みだった。
「
「なんだって?」
とまどったように尋ね返す
「
「ノウラ……」
にこり、と、ノウラは小首をかしげて微笑んだ。
「きっと、すべては運命。神さまの思し召しなのですよ。五〇以上も歳のはなれた立場で出会ったのも。いま、ここに、こうしていることも。
『
わたしはきっと、神さまからそう運命を与えられて生まれてきたのです。わたしはその運命に、神の意思に従います」
「運命、神の思し召し、か」
「君には似つかわしくない言葉だな。君は運命なんぞ笑い飛ばして、強引に自分の望む道を突き進んでいくタイプだと思っていた」
「わたしもそう思います」
ノウラがそう言って照れくさそうな笑みを浮かべたのは、自分でも似合わない台詞を言ってしまったと思ったからだろう。
「ですが、わたしもイスラム教徒として育てられた身。神さまにすべてを委ねる道は知っています」
イスラム教徒らしいことなどなにひとつ、してきませんでしたけど。
ノウラはそう言って笑い、イタズラっぽく舌など出して見せた。
「ふふ。それなのに、いまは神さまの思し召し、か。神が聞いたら怒り出しそうだな」
「ご心配なく。われらの神がこの程度のことで怒るような、そんな器の小さい存在であるはずがありません」
きっぱりと――。
なんのためらいもなくそう言いきるノウラの姿に
「はっはっはっ! 神たる身に広量大度を要求するか! それでこそノウラだ」
「よろしい。ならば、おれも神の思し召しとやらに従おう。ノウラよ。おれの、いや、おれたちふたりの妻となってくれ」
「はい」
ノウラは手を差し出した。
ここに改めて夫婦の契約が結ばれた。
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