二一章 妻となってくれ

 「……永都ながと陛下」

 それが、医師によって人工呼吸器を外されたあと、ノウラが口にした最初の一言だった。

 その言葉のあと、その美しい顔に浮かんだものは、永都ながとが無事な姿を見ることができて安堵した、優しい笑みだった。

 「……よかった」

 ノウラはそう呟き、息をついた。

 その言葉はさすがに、ノウラ本来の快活さや力強さには欠けていたがそれでも、しっかりと意思の込められた口調だった。

 永都ながとを見る目にも弱ってはいるが回復しつつある力強さが宿っており、急速な生命力の回復を感じさせた。そんなノウラの声を聞き、姿を見たとき――。

 永都ながとはボロボロと涙を流し、年若い王妃の身を抱きしめて泣いていた。


 さすがに、若く生命力に富んでいるだけのことはある。

 そう言うべきだろう。一度、峠を越えて危機を脱するとノウラは急速に回復した。口調も表情もすぐに本来の快活さと力強さとを取り戻したし、食事も普通にとれるようになった。消化しやすさを考えて病院側が病院食を用意しても、

 「病院食なんていや! 豆料理を詰めたピタとタンドールチキンをもってきて!」

 と要求する始末。

 そして、看護士が怖々と運んできたそれらの料理を、健康な一〇代男子もかくやというほどの食欲を見せつけて盛大に平らげた。その旺盛な食欲振り、たくましさには医師としても、

 「少しは、病人であることを自覚するように」

 と、苦虫を噛みつぶしながら注意したほどだ。

 ともあれ、そんな調子だったので、すぐに会話も許可された。

 永都ながとはその間もずっとつきっきりであり、ノウラが倒れたあとの説明も自ら行った。

 「……そうですか。ズフラにそのような尋問を」

 「すまん」

 と、永都ながとはノウラに頭をさげた。

 「君の妹にひどい真似をしてしまった。だが、あのときは、おれも手段を選んでいる余裕などなくて……」

 実のところ、永都ながとにとってはズフラがどうなろうと知ったことではない。ノウラを殺しかけた相手など、わずかでも気に懸けてやるつもりなどなかった。

 それでも、ズフラはノウラの妹。ズフラではなくノウラに対する気遣いからそう謝った。

 しかし、ノウラはいたって淡々とした態度で言ってのけた。

 「お気遣いなく。もともと、妹などとは思ったことのない相手。永都ながと陛下を殺そうとした憎むべき人間でしかありません。もし、立場が逆なら、わたしこそが徹底的な尋問を行っていました」

 そう。どんな手段をつかってでも。

 そう言って『ニヤリ』と笑うノウラの姿は――。

 控えめに言っても『魔女より怖い』ものだった。

 「ノウラ……」

 「それより……」

 ノウラは心からの安堵を込めて言った。

 「永都ながと陛下がご無事でよかった。それだけです」

 そう言ってちょっと首をかしげて微笑みながら言う姿は、万人が『なんだ、ただの女神か』と呟くようなものだった。

 「おれが無事でよかった、か……」

 永都ながとは、その微笑みのあまりのまぶしさに顔を背けながらそう言った。

 「なぜ、君はそこまでおれのことを気に懸けてくれるんだ?」

 「愛する夫を気遣うのは当たり前のことでしょう」

 なにか理由が必要なのですか?

 心から不思議そうに尋ね返すノウラだった。

 「愛する、か。おれも……」

 永都ながとはいったん、口ごもった。そらしていた顔を必死の努力の末にノウラに向け、その目をまっすぐに見ながら口にした。

 「おれも、君を愛したかった。君と過ごした時間は楽しかった。七海なみを失い、終わったと思っていたおれの人生にもう一度、火がついたようだった。君と一緒に過ごせれば残りの人生をいままで通りに充実して過ごせる。そう思った。だが……」

 永都ながとは言葉をとめた。

 ほう、と、息をついた。

 「おれはもう歳だ。若い君にふさわしい相手ではない。それに……」

 永都ながとは顔をうつむけ、膝の上でふたつの拳をギュッと握りしめた。

 「おれには七海なみがいる。七海なみが死んで五年。しかし、たしかに、七海なみはいまもおれのなかにいるんだ。それはどう否定しようもない。七海なみを忘れることはできない。そんな状況で君を愛することは君に対してあまりも不実。だから、おれは、必死に君を愛したいという思いから目をそらしていた……」

 「いいではありませんか」

 「えっ?」

 思いがけないノウラの言葉。その言葉に思わず顔をあげた永都ながとの目。そこに飛び込んできたのは、いつもの快活で勝ち気なノウラにはいっそふさわしくないと言えるほどの慈愛に満ちた微笑み。

 聖母と言ってもいいほどに優しさと愛情に満ちた笑みだった。

 「七海なみ殿下のことをお忘れになる必要などありません。わたしはもともと、おふたりの妻となりに来たのですから」

 「なんだって?」

 とまどったように尋ね返す永都ながとに対し、ノウラは聖母の笑みを浮かべたまま言った。

 「永都ながと陛下。幼いわたしが愛したのは、永都ながと陛下個人ではありません。お互いによりそい、同じ目標に向かって全力で生きている永都ながと陛下と七海なみ殿下というご夫婦だったのですよ。わたしは、あなた方ご夫婦に恋をし、そして、愛したのです。ですから、七海なみ殿下のことを忘れる必要などありません。わたしは永都ながと陛下個人の妻ではなく、永都ながと陛下と七海なみ殿下というご夫婦の妻となります。もともと、そのつもりで来たのですから」

 「ノウラ……」

 にこり、と、ノウラは小首をかしげて微笑んだ。

 「きっと、すべては運命。神さまの思し召しなのですよ。五〇以上も歳のはなれた立場で出会ったのも。いま、ここに、こうしていることも。

 『永都ながと七海なみという夫婦の妻となれ』

 わたしはきっと、神さまからそう運命を与えられて生まれてきたのです。わたしはその運命に、神の意思に従います」

 「運命、神の思し召し、か」

 永都ながとは『ふふ』っと笑って見せた。

 「君には似つかわしくない言葉だな。君は運命なんぞ笑い飛ばして、強引に自分の望む道を突き進んでいくタイプだと思っていた」

 「わたしもそう思います」

 ノウラがそう言って照れくさそうな笑みを浮かべたのは、自分でも似合わない台詞を言ってしまったと思ったからだろう。

 「ですが、わたしもイスラム教徒として育てられた身。神さまにすべてを委ねる道は知っています」

 イスラム教徒らしいことなどなにひとつ、してきませんでしたけど。

 ノウラはそう言って笑い、イタズラっぽく舌など出して見せた。

 「ふふ。それなのに、いまは神さまの思し召し、か。神が聞いたら怒り出しそうだな」

 「ご心配なく。われらの神がこの程度のことで怒るような、そんな器の小さい存在であるはずがありません」

 きっぱりと――。

 なんのためらいもなくそう言いきるノウラの姿に永都ながとはあっけにとられた。それから、思いきり笑った。七海なみを失って以来、一度もあげたことのない大笑いだった。

 「はっはっはっ! 神たる身に広量大度を要求するか! それでこそノウラだ」

 永都ながとはそう言ってひとしきり、爽快な笑い声を立てた。それから七〇過ぎとは思えない若々しい表情を浮かべて、ノウラに言った。

 「よろしい。ならば、おれも神の思し召しとやらに従おう。ノウラよ。おれの、いや、おれたちふたりの妻となってくれ」

 「はい」

 ノウラは手を差し出した。

 永都ながとはその手を握った。

 ここに改めて夫婦の契約が結ばれた。

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