二〇章 峠を越えた朝

 その場にいるすべての人間のなかで、そのことに気がつくことのできたのはノウラただひとりだけだったろう。

 ズフラが指輪をつけている。

 その点ではなく、そのことに対する違和感に、だ。

 ズフラが、自分の外面を抜け目なく完璧に取りつくろうことにしか興味も関心もないあのズフラが、自分に不釣り合いな無骨な指輪などつけるはずがない。

 ――おかしい。

 ズフラの指にはまる指輪に気がついたその瞬間、ノウラの頭のなかではその警戒信号が鳴り響いた。

 そして、思い出した。

 自分の一族、国と一緒にとっくに捨てて出てきた一族が、かつては毒殺を生業なりわいとする砂漠の民であったことを。

 その技術を駆使して成りあがり、ついには王族にまでなった一族であることを。

 そして、いまにいたるまで、その秘術をひっそりと伝えてきていることを。

 そして、もうひとつ。

 ズフラは幼い頃から、ノウラのものはなんでもほしがってきた。奪いたがってきた。そして、『奪う』という言葉の意味には『自分のものにする』という以外の意味があると言うことを。

 それらすべてを思い出したとき、理性よりも先に本能がそれらの事実のすべてをつなげ、ひとつの結論を出していた。

 ノウラはとっさに動いていた。それは、ノウラ自身にも自覚していない動き。本能が命じるままに行った無意識の動きだった。

 永都ながとがズフラの手を受けとり、指輪をはめたズフラの指が永都ながとの手に包まれるまさにその寸前、ノウラはふたつの手の間に自分の手を滑り込ませていた。

 永都ながとよりも早く、ズフラの手をつかんでいた。力いっぱい、ズフラの手を握りしめていた。

 チクリ。

 かすかに、本当にかすかに、しかし、たしかに、手になにかが刺さる感触があった。ズフラが驚愕の視線でノウラを見ていた。

 この世の終わり。

 世界一と呼ばれるその美貌びぼうは、そう叫び出しそうな表情にこわばっていた。

 その表情を見たとき、ノウラは叫んだ。

 「毒よ! この女は永都ながと陛下を毒殺するつもりよ!」

 叫びと共にもう一方の手でズフラの手首を握りしめる。むりやりに、ズフラの指にはめられている指輪をむしりとった。

 そのときにズフラの発した叫びは、とてもではないが『世界一の美貌びぼう』と称される美女の発することのできるものとは思えなかった。

 ノウラはズフラの手首を握りしめたまま、指輪を掲げて叫んだ。

 「見て! この指輪には毒針が仕込んである! 警官隊、この女を取り押さえて!」

 「うぎゃああああっ!」

 ズフラは、もはや人間とさえ思えない叫びを発した。怒り、困惑、憎悪、恐怖。それらすべての感情に美しい顔を歪ませて、左手を掲げ、マニキュアを塗った爪先でノウラの顔をかきむしろうとした。その手が二本の、老いてなおたくましい腕につかまれた。

 永都ながとだった。永都ながとが怒りの表情でズフラにつめより、その腕を押さえつけたのだ。

 「我が妻に仇なすことは許さん!」

 その叫びと共に永都ながとはズフラの腕をねじりあげた。

 枯れ枝の折れるような音がして、ズフラが恐ろしい絶叫をあげた。王女さま育ちの細い腕。スプーンよりも重いものをもったことがないその華奢な腕は、永都ながとの怒りに耐えきれずあっけなく骨が折れたのだ。

 永都ながとはかまわなかった。怒りの形相のままにズフラの腕をねじりあげ、床に組み伏せ、その上にのしかかった。

 「警官隊! 早く、この女を拘束しろ! そして、ノウラをすぐに病院に運べ!」

 国王の命に――。

 あっけにとられ、身動きできずにいた警官隊がようやく動き出した。現場に殺到し、ズフラの身を拘束した。

 ズフラは断末魔の魔女のような恐ろしい悲鳴をあげて抵抗したがしょせん、か弱い王女。屈強な警官隊に抵抗できるはずもなく、たちまちのうちに拘束されて連行されていった。そして――。

 ノウラ。

 夫に対する毒殺を寸前で防いだ王妃は、証拠品である指輪を手にしたまま虚脱したように立ち尽くしていた。

 出席者たちの悲鳴と、世界中から集まったプレスたちの盛んに切るシャッター音とが鳴り響くなか、ノウラのまわりに永都ながとが、警官隊が集まり、その身をいたわりながらその場をはなれ、病院へと運んでいった。


 その日は世界中が大騒ぎになった。

 無理もない。なにしろ、一国の代表として参列していた王女殿下が、こともあろうに他国の王を暗殺しようとした。その寸前、王妃が身を張って阻止し、さらには、王自らが犯人を取り押さえたのだ。

 ノウラが必死にズフラと組み合い、毒殺用の指輪を奪いとる様。

 永都ながとが自らズフラの腕をねじりあげ、床に組み伏せる様。

 それらは永都ながとの、

 「我が妻に仇なすものは許さん!」

 の、叫びと共に世界中で放映された。

 この大事件に世界中がたちまち沸騰した。

 「まさに英雄的行為!」

 「我が身の危険をかえりみず、夫を救う淑女の鑑!」

 「奥方を想う国王陛下の叫びが素敵!」

 そんな賞賛の声があふれかえった。

 その一方では当然と言うべきだが、暗殺を行おうとしたズフラとナフード王国への非難と弾劾だんがいの声も沸き起こっていた。

 

 一般レベルでの糾弾きゅうだんの声があふれかえったのはもちろん、各国も正式な外交ルートを使ってナフード王国に抗議し、正式な説明を要求した。

 これらの国にしてみれば、せっかく地球回遊国家が悩みの種である難民を吸収してくれているのに、その国王を暗殺などされて機能が麻痺してしまってはたまったものではない。自然、ナフード王国に対する非難と追求の声は高くなった。

 一方のナフード王国は『すべてはズフラ個人の行ったことであり、政府は関係ない』との声明を発表したあと、つづけてズフラの王家からの追放を宣言。『まったくの無関係』と言い張った。そして、それきりダンマリを決め込むという戦術に出た。

 もちろん、そんなことで世間や各国の追及の手が緩まるはずもなく、非難の声は高まるばかり。さらに、ナフード国内でも王家に対する抗議のデモが繰り広げられた。

 ナフード王国内でただひとり、改革を志していたノウラの存在はナフードの民衆にとって言わば希望の星。その希望の星が王家から追放され、他国の王のもとにとつがされた。

 それだけでも充分に、民衆の王家に対する怒りと不満は高まっていた。そこに来て、この騒ぎ。民衆の我慢もとうとう限界に達し、溜まりにたまった怒りと不満をもろともにぶちまけたのだ。

 この点に関してだけは、国王アブドゥル・ラティフの反応は素早かった。すぐさま戒厳令を宣言すると全土に軍を展開し、民衆を力尽くで黙らせる手に出た。

 各地で軍による民衆への暴行が行われ、その映像が世界中に流された。その行為がまた世界中の人々と諸外国の批判を買った。

 「国連軍を動かして、制圧してしまえ!」

 ネット上には、そんな声まであがる始末だった。

 そのなかで、ただひとつ。当事者である地球回遊国家だけが不気味とも言うべき沈黙を貫いていた。ただ一度、外交筋からナフードへの抗議が行われただけで、あとはなにも言わない。

 永都ながと国王が姿を表し、正式な意見を発表することもなかった。

 それどころではなかったのだ。

 ノウラの命が危機にさらされていたのだから。

 ノウラは永都ながとの危機を救った。その代償として、自らが指輪の毒針に刺されていた。すぐに毒が効いたわけではない。自然死を装うために遅効性の毒だったらしく、ノウラが呼吸困難を起こして意識を失ったのは、病院に運ばれてから数時間たってからのことだった。

 もちろん、その間、医師たちはただノウラを寝かせて観察していたわけではない。解毒しようと手を尽くしていた。

 しかし、なにしろ、毒の種類がわからない。ズフラの指輪に仕込まれていた毒針はあまりにも小さいもので、そこから検出された毒は微量過ぎて成分分析の役に立たなかった。

 外交ルートを通じてナフード王国に対して毒の正体に関して説明し、解毒薬を送るよう要求したがもちろん、そんなことに答えが返ってくるはずもない。

 残るはズフラしかいなかった。

 ズフラ本人に毒の正体を説明させ、解毒薬を用意する。

 それしかなかった。

 しかし、それがまた難問だった。

 なにしろ、ズフラは事態が露見したショックと腕を折られた痛みとで半狂乱になっており、意味不明の奇声をあげては『痛い、いたい!』と叫ぶばかり。折られた腕を押さえては暴れまわり、誰彼かまわず爪でひっかき、歯で食らいつく。

 尋問どころか、折れた腕の治療さえまともにはできない状態だった。

 さらに、恐ろしいことが発覚した。

 ズフラの爪で引っかかれたものたちが次々と昏倒したのだ。

 ズフラの爪にはマニキュアを装った毒が塗られており、ひっかかれることでその毒の影響を受けたのだ。

 こちらは本当にいざというときのとっておきで、即効性の猛毒だった。その毒を分析した医師は首を振りながら言ったものだ。

 「もし、あのとき、永都ながと陛下があの女の腕を取り押さえることなく、ノウラ殿下がひっかかれていたら……まちがいなく、ノウラ殿下は亡くなられていたことでしょう」

 妻のために身を張った永都ながとの行動で、最悪のケースだけは防ぐことができた。しかし、ノウラの身命が危機にさらされていることにちがいはない。人工呼吸器につながれ、かろうじて生きている、いや、生かされている状態。これらの機械のない時代ならとっくに死んでいるという状況だった。

 そして、機械の力も無限ではない。このままならいずれノウラの命は尽きる。かと言って、肝心の毒の分析は行えず、ナフード王国からの返信もない。唯一の希望とも言えるズフラは狂乱状態でまともな尋問もできない……と、まさに、八方ふさがりの状況だった。

 その状況を一変させたのは永都ながとの一言だった。

 「我が妻を害したものに気遣いなど無用。あらゆる手段を用い、毒の情報を引き出せ」

 つまりは、拷問だろうが、自白剤の多用だろうが、あらゆる手段を使え、と言うわけだ。

 聞くものすべてがゾッとするような、静かな口調と静かな表情。そんな様子で命令されて、警察も覚悟を決めた。

 かくして、警察内の一室では、とてもではないが正規の歴史書には載せられない行為が行われた。

 後の世に知られれば、まちがいなく地球回遊国家の汚点として語られるだろう行い。しかし、その甲斐あってどうにか毒の正体が判明した。直ちに解毒薬が作られ、投与された。だが――。

 「正直、確率は低いと言わざるを得ません」

 人工呼吸器につながれてどうにか死なずにいる妻の姿を、身じろぎもせずに見守りつづける永都ながとに対し、医師はそう言った。

 「毒針を刺されてからあまりにも時間が立ちすぎています。恐らく、今夜が峠でしょう。今夜を乗りきることができれば助かるはずですが……乗り越えられるかどうかは、ノウラさまの体力次第」

 医師は、妻の身を案ずるあまりなにも聞いていないように見える、しかし、その実、すべての神経を耳に集中させて医師の言葉を聞き逃すまいとしている永都ながとに向かい、そう言った。

 「ですが、きっと大丈夫。ノウラさまは若く、健康で、体力は十二分にあります。まして、ノウラさまは活力にあふれた生命力の固まりのような方。必ずや毒に打ち勝ち、生還されることでしょう」

 その言葉は果たして本心だったのか、それとも医師ならではの『必要な嘘』だったのか。

 いずれにせよ永都ながとは、他のすべてのことを放り出して妻の姿を見守りつづけた。たったひとり、夜通し、側にいつづけた。

 「……ノウラ」

 永都ながとは呟いた。

 「……頼む。生きてくれ。おれは二度も妻に先立たれたくはない。まして、お前はまだ二三歳じゃないか。そのお前が七〇過ぎのおれより先に死ぬなんてまちがっている。生きてくれ。なんとしても」

 永都ながとは両手を強く握りしめた。噛みしめた唇から血がにじみ、流れ落ちた涙が床に落ち、冠の形に跳ねて、消えた。

 そして、朝。朝日が差し込み、鳥たちの声が響く頃――。

 ノウラの目が開いた。

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