九章 寝室へ突撃!
「おはようございます、
戦争の幕開けでも告げるかのような高らかすぎるほど高らかな声をあげ、ドアを蹴破る勢いでノウラが
古式ゆかしい日本のマンガであれば、カーテンを透かして朝の光が入り込みスズメがチュンチュン鳴いている……といった頃のことだった。
あいにく、太平洋上を回遊する氷の船にスズメはいないが。そのかわりと言うべきか、氷の船体が朝日を乱反射する幻想的な光景は世界的に広く知られ、観光価値のひとつとなっている。
『戦争の幕開けでも告げるかのような』というのは実のところ、まちがってはいない。ノウラにとってはまぎれもなく、自分の人生を懸けた一大勝負のはじまりだったのだから。
ノウラが勢い込んで寝室に入ってきたとき――と言うか、悪役レスラーの勢いで乱入してきたとき――
国王の身でありながらごく庶民的な安物の寝間着を着込み、しっかりと寝るでもなく、かと言って起きているでもなく、うつらうつらとした状態で、半ば眠り込んだ意識のなかをさ迷っているところだった。
それだけに、突然の大声には驚いたし、すぐに反応して飛び起きることもできた。もっとも、このときのノウラの声であれば『死人だって飛び起きるだろう……』と、
ともかく、未来の妻たるノウラの乱入を受けて、
このあたり、すっかりふさぎ込んでいるとはいっても、これまでの人生でいかに鍛えられてきたかがわかる。
「な、なんだ、いきなり……!」
ノウラは、驚いて叫ぶ
「お目覚めください。朝食の用意ができています」
その言葉と共にシーツを引っぺがす。
もし、
まあ、それが『世界で二番目の美女』として知られるノウラであれば、奇声をあげて
と言うわけで、世間の期待を裏切らずにすんだ
「なんだ、いきなり⁉」
「ですから。朝食の用意ができたのでお呼びに来たのです」
「それは執事の役目だ! というか、なんでお前がこの部屋に入ってこられる⁉ 鍵はかけておいたはずだぞ」
ノウラは
「この国のいったいどこに、国王の妻たるわたしの前で閉ざされたままのドアがあると言うのでしょう?」
つまりは『マスターキーは入手ずみ』というわけだ。正確には前時代的な『鍵』などではなく、すべてのドアの電子ロックを解除することのできる特製アプリだが。
それにしても、ノウラのそのふんぞり返りっぷり。『国王の妻』という立場を利用して執事に圧力をかけまくり、むりやりアプリを手に入れたのだと一目でわかる。
もし、
「さあ、まいりましょう」
ノウラは
女と男、それも、王族の娘として生まれ、力仕事などなにひとつする必要のなかった身。それでも、二三歳の健康な女性と、七〇代、それも、ここ数年はほぼ寝室にこもりっぱなしの年寄りとではやはり、ノウラの方が力がある。
勝手に着替えさせようとするノウラを、このときばかりはさすがに断固たる態度で追い出して、普段着に着替えた。
それから、
しかし、そんなものはしょせん、一般庶民の反応。あいにくノウラは庶民などではない。生まれついての王女であり、未来の国王の妻である。ただ堂々と、あくまでも
いきなり、二三歳の若い肢体を預けられた七〇男はまたも飛びあがった。
「なぜ、腕を組む⁉」
「夫婦だからです」
「夫婦ではない!」
「わたしを妻として迎え入れたのでしょう」
「あくまで政略結婚だ! 実際の関係はちがう! というか、なんでアラブの女がそんな態度をとる。アラブの女は男女関係にはもっと
ノウラは『やれやれ』とばかりに首を横に振った。
「いつの時代のことを話しておられるのです? アラブの女だって進化します。いまでは、欧米の女性に劣らず活動的ですよ」
そのせいで婚約者に捨てられ、父王に売られたノウラが言うのだ。説得力がちがう。
「ええい、この世にはもうおしとやかな女はおらんのか⁉」
「
そう澄まし返って、
ともかく、ノウラと
『食堂』とは言ってもごくこじんまりとした部屋である。王宮の一室とはとうてい思えないほどにせまく、天井も低く、飾り気ひとつない。小さな部屋のなかにテーブルが置かれている。ただ、それだけの部屋。
これなら、その辺の中小企業の社長の方がよっぽどいい部屋で食事をしているだろう。自分たちの生活をとことん切り詰めて、すべてを地球回遊国家の発展のために捧げてきた……というのが一目でわかる部屋だった。
実際、王宮内における
生まれも育ちも日本であるふたりにとっては、それこそが馴染みのある落ち着ける環境だったのかも知れないが。
庶民的な部屋にあわせて、と言うべきか、テーブルの上に置かれているのはさして大きくもない茶碗に盛られた梅干し一個をのせただけの
「最近はずっとこんな食事ばかりらしいですね。肉も魚も食べずに、野菜すらとらないとか。それでは、タンパク質もカルシウムも、ビタミンすらとれませんよ」
ノウラの言葉に
「おれはもう七〇過ぎだ。肉や魚など食べる歳ではない」
「お歳だからこそ充分な栄養が必要なのでしょう。高齢になればなるほど筋肉も骨密度も低下しやすくなるのですから、それを防ぐためにも充分な栄養と運動が……」
「ああ、うるさい! お前はおれの女房か⁉」
「そうです」
ノウラにきっぱりと答えられ、
「……お前こそ、その若さでそんな食事では身がもたんだろう。肉でも魚でもちゃんとしたものを食え」
「わたしはあなたの妻です。夫と同じものをいただきます」
「……たしかに、おれは結婚を承知してお前を迎え入れた。その意味ではお前が王妃なのは確かだ。だが、妻ではない。おれはお前を妻として扱う気はない。すでにそう言った」
「それは、そちらのご都合。わたしはあなたの妻になりに来ました」
「おれの妻はひとりだけだ!」
世の女性すべてが感涙にむせびそうなその台詞を、しかし、ノウラは笑い飛ばした。
「一国の王ともあろうお方が、なにを小さいことをおっしゃる。『世界中の女をおれの嫁にしてやる!』と言うぐらいの気概はないのですか?」
「おれがそんな歳か⁉ というか、なんで女がそんなことを言うんだ」
「わたしは一夫多妻の本場とも言うべきアラブの女。夫が何人の妻をもとうと気にしたりはしませんよ。むしろ、大歓迎です。王家には子どもは多くいた方がいいですし、わたしひとりでそんなに産んでいられませんから」
「都合のいいときだけ『アラブの女』になるな!」
驚いたのは執事と料理人である。ここ最近は朝はずっとベッドのなかでうつらうつらとして過ごし、朝食を食べない日も多い。食べてもたいていは半分も食べればいいほう、残すのが当たり前……という状況だったのだから。
それが、きれいに平らげるなどいったい、いつ以来だろう。
「……ごちそうさま」
「寝る」
短く言って、寝室に向かおうとする。その
「今度はなんだ⁉」
叫ぶ
「お散歩に行きましょう」
「散歩だと⁉」
「執事から聞きました。
ろくに運動しないからそんなことになるのです。きちんと運動して体を使えば気持ちよく眠れるようになりますし、食事もできるようになりますよ」
ノウラはそう言ってからさらにつづけた。
「でも、だからと言って急に激しい運動は無茶というもの。ですから、まずは散歩からはじめましょう。散歩することで体が運動に慣れたら、徐々に強度を高めていきましょう」
「おれはもう七〇を過ぎているんだぞ! 運動なんかする歳じゃない」
「百歳児が何人いる時代だと思っているんですか。いまどき、七〇代なんてまだまだ若造ですよ。さあ、まいりましょう」
ノウラはそう言いながら
地球回遊国家の国王陛下は未来の妻に引きずられていったのだった。
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