✕日目の朝

「まあ、そんなに肩ひじを張らなくても大丈夫。君が何もしなくても、世界は勝手に救われるんだからさ。観光気分で楽しんでおいで」


 綺麗なくせにどこか性悪な笑顔を浮かべた××××は、そう言ってわたしを突き飛ばした。



     ◇◇◇



「――――いだっ!?」


 ごんっという音とともに、後頭部に痛みが走る。突然の痛みによって眠りの世界から叩き出されたわたしは、見慣れてしまった天井を見上げたまま、目をぱちくりと瞬かせた。

 上体を起こせば、目線よりやや低い位置にベッドがあることに気づく。加えて、お尻に感じる硬い感触。寝起きの頭でも、ベッドから落ちたことはすぐに理解できた。


「あれー……? わたし、寝相悪かったっけ……?」


 首を傾げながら、ベッドの縁に手をついて立ち上がる。そのまま窓に近づいてぴっちり締め切ったカーテンを開ければ、白み始めた空と、顔を出したばかりの太陽に照らされる中華風建築の街並みが一望できた。

 寝て起きたら元の世界に戻っているだなんて都合のいい展開は、今日もない。


「この感じだと……六時くらいかな」


 空の明るさを見て、おおよその時間を推測する。

 普及こそしているものの、一家に一台ならぬ一部屋に一台置くには、この時代の時計はお高い。そんな高級品がつい先日まで物置だった部屋にあるはずもなく、こうして空の変化を時計代わりにする習慣がついてしまった。

 異世界に来てからひと月と半。我ながら順応性が高い。


「……っと、いけない。着替え着替えっと」


 ハッと我に返り、慌てて窓から離れた。

 自分しかいない部屋では、恥じらいもへったくれもない。ぶかぶかの寝間着を脱ぎ捨て、ベッドに放る。そして小ぢんまりとしたクローゼットから制服を取り出し、手早くそれに着替えた。一応アオザイももらっているけど、推しに言われたのもあり、なんとなく洗濯した時以外は制服を着続けている。「ゆら恋」と同じで今の季節は秋の終わりらしいから、そろそろタイツは欲しいけど。


「……よし、今日もばっちり! 推しの前に出ても恥ずかしくない!」


 最後に姿見で、メイクも決めた自分の姿をチェックする。

 今の言葉はもちろん自己暗示である。自然にそう思うには娟や珊くらいの美人に生まれ変わる必要があるため、毎朝こうして言い聞かせることで自分を奮い立たせていた。

 まあ、厚化粧すると推しに「臭い」って怒られるらしいし。

 これくらいナチュラルな方がいいよね。ね!

 そうやって必死に言い聞かせてメンタリティを整えてから、わたしは部屋を後にした。


 まだ寝ている人が大半なので、なるべく音を立てないように階段を下り、目的地を目指す。一歩、二歩と近づくたびに良い匂いが鼻をくすぐり、お腹が空いてくる。今日の朝ごはんは何だろうとうきうきした気持ちになりながら、わたしは目的地――厨房を覗き込んだ。


チェンさーんっ、おはようございま―すっ」


 そして、中にいる人に声をかける。厨房に立ち、小さめの寸胴をお玉でかき混ぜていたイケメンは、目元に鱗のような刺青が刻まれた細い目を笑みの形にした。


「おはようございます、ナギ。今朝も元気ですね」


 うーん、今日も胡散臭い声だ。

 失礼極まりない感想を抱きながら、細目エルフ耳イケメンに笑顔を返した。

 緑がかった黒い長髪をルーズサイドテールで束ね、推しと同じく長袍チャンパオを着たこのひとの名前は辰。小龍の右腕であり、「ゆら恋」攻略キャラの一人だ。

 種族はみずちの半妖。見た目は攻略キャラ最年長で三十路くらいだけど、実年齢は二五〇歳、実は推しよりも五〇年若い。


 細目キャラ、丁寧語部下。何より、裏切りポジや黒幕役が多い中の人。

 公式サイトでキャラ紹介を見た瞬間にこいつは絶対裏切るだろうと思ったし、クリア後に感想を漁ったら同じことを考えている人はごまんといた。共通認識って恐ろしい。


 確かに辰は裏切った。

 小龍の良き理解者ポジションを貫き、攻略ルート以外では小龍のために行動し続けることで、色眼鏡で見ていたわたしプレイヤーを見事に裏切ってみせたのだ。

 でもほんと、想像以上に良いキャラなんだよね、辰……。

 髪型もあいまって、「ゆら恋」ファンの間ではお母さんと呼ばれるくらいだ。

 前評判だと中華組が一番治安やばそうって言われていたらしいけど、蓋を開けると組織として一番平和というか、仲良しなのが回礼だったのは正直かなり面白かった。

 その分、外部は容赦なく血に染めるけど……。

 まあ、幼馴染ルートは因業どろどろの伝奇ものだし、神代方面は周りが妖主義だからすーぐ不穏になるから、どのルートも物騒具合では似たり寄ったりではある。これだからCERO:Dは。


「もう少しでできますから待っていてくださいね」

「はーいっ。あ、何かお手伝いできることありますか?」

「それでしたら冷蔵庫から油条ヨウティヤオの生地を出してください」

「了解ですっ」


 元気の良い返事とともに、厨房に入って木でできた冷蔵庫に近づく。

 このたび推しのお見送り&お出迎えをするという名誉職につくことになったわたしだが、このお仕事には前任者がいた。後者が娟&珊姉妹で、前者が辰だ。もちろんただお見送りやお出迎えをするわけじゃなく、姉妹はその日あったことを報告したり、辰は小龍が食事を希望した時のために朝食を準備したりと、他の役目も兼任しているのだけど。

 報告はともかく、朝食の準備はわたしには無理だった。わたしの調理スキルが「レシピを見ながらなら簡単なやつはそれなりにおいしくできる」レベルなのもあるけど、そもそも推しは特定の人が作ったものしか食べないのである。

 そんな推しがまひろに料理を作るようねだるイベントがまたエモいのなんの……。


 そんなわけで朝食の準備は辰が継続。わたしはお手伝いをしつつ、推しのおこぼれに預かるというのがお決まりの流れになっていた。


「えーっと、ヨーティヤオはこのねじねじしたやつでしたよね」

「ええ。他の方の分もまとめて揚げてしまうので、全部出してください」

「了解でーす」

「……俺には多めに用意しろ。そういう気分だ」


 わたしたちのやりとりに、不意にバリトンボイスが割って入った。

 手に持ったばかりのトレイを取り落としそうになりながら、声がした方に顔を向ける。予想通り、視線の先には厨房の入り口に寄りかかる小龍がいた。

 いつもの狐面はつけているけど、恰好はズボンを穿いて、そこにナイトガウンを羽織っただけのラフな格好。程よく筋肉がついたセクシーな胸元が惜しげもなく晒されている姿にドキドキしていると、くあ、と小さくあくびを噛み殺しながら推しは厨房に入ってきた。


「お、おはようございます、小龍さ――わっ、わっ!」


 挨拶しようとしたところで、通り抜けざまに頭を乱暴に撫でられた。

 梳かしたばかりの髪がぐちゃぐちゃにされた不満と、推しにファンサをされた喜びで板挟みになるわたしをよそに、推しは辰の元まで歩み寄る。そして、おもむろに辰の肩に顎を乗せた。


「この前、油条に砂糖をまぶしたのを作っただろう。あれをまた食わせろ」

「おや。あれは砂糖が落ちて食べにくいって文句を言っていませんでしたか?」

「そうだったか?」


 体を密着させたまま、二人は言葉を交わす。

 あまりにも尊すぎる光景に、わたしは心の中で感謝の合掌を捧げた。


 推しの秘密は誰にも知られていないわけじゃなく、ゲームの登場人物の中に二人ほど、秘密を知っている人物がいる。

 一人は鳳家唯一の使用人である半妖の青年で、もう一人は回礼の次席であり、「小龍」という人物を確立させた張本人でもある辰だ。そして、その二人に対しては、推しはちょっと甘え気味というか、子供じみたところがある。

 最推しカプは推し×まひろだけど、それはそれとして別カップリングもおいしくいただけるし、何ならBLなんて普段の主食の一つなのでプレイ中は大変萌えさせていただいたわけだけど、まさかそれをこの目で拝める日が来るとは……。特に辰×小龍は二次創作も漁るくらいには好きなので、そういう意味でも感無量だった。


「ナギ」

「ひゃい!」


 推しカプの絡みを脳内フォルダに保存していると、辰が声をかけてきた。

 ナマモノで腐ったカップリング妄想をしていた後ろめたさもあって、上ずった声が出る。辰には訝しげな顔をされ、推しには「なんだまたか」みたいな顔をされた。わたしがしょっちゅう変な声を出しているみたいな顔するのはやめていただきたい。否定できないけど。


「粥はできていますから、この大きな子供に給仕してやってください」

「りょ、りょーかいですっ!」


 その言葉に、至福の時間が終わったことを知る。内心落胆しつつ、了解の敬礼をとった。

 推しカプの絡みを間近で見られるのはいいんだけど、その代わり推しカプの間に挟まる女になってしまうのは非常に遺憾だった。推しや推しカプを見守る時、なぜオタクは無機物になりたがるのか。その答えを我が身で知りながら、今にもお玉を使って寸胴の中身を直食いしそうな推しの裾を引っ張った。


「ほら、小龍さま! 辰さんに怒られる前に食堂行ってください!」

「わかったわかった。引っ張るな」


 仕方ないなと言わんばかりに、推しは辰から離れる。そして、わたしの手を払ってからゆったりとした足取りで厨房の出口へと向かい始めた。


「ナギ、君も食べなさい。そろそろ腹の虫が鳴くころだろう?」

「ありがとうございまーす!」


 推しの見送りもそこそこにどんぶりを用意しようとしたところで、そんな言葉を頂戴する。厨房に漂う鶏ガラの良い匂いで空腹はピークに達しかけていたところなので、その申し出は大変ありがたかった。

 もうすぐ食べられるから我慢してよねとお腹に言い聞かせてから、二人分のどんぶりとレンゲを配膳用のトレイに載せる。鶏肉が泳ぐお粥をどんぶりに盛ってから、先に出て行った推しを追うようにわたしも厨房を後にした。

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