間章:犬 下
「推しとはなんだ」
それから数分後。不要になった面を寝台の上に放り、縁に腰かける。そして、いつものように床に座らせた仔犬を見下ろしながら、己は常々疑問に思っていたことを口にした。
この仔犬は、時折
問いただすと話が本筋からずれそうな時であったり、自分か仔犬が人に呼ばれて話の腰が折れたりと、聞き出す気分にならず、今日まで放置していた。その呼称に嫌な響きがなかったのも要因の一つだ。
だが、気にかかっていたのも事実である。
それゆえに得た機会を逃すつもりはなく、横槍が入らない場所で問いただすことにした。
「……えーっと。説明が難しいというか、簡単に説明しようとすると不本意な誤解を招きそうな話ではあるんですけど」
「御託はいい、さっさと言え」
「うす!」
元気のいい返事をした後、仔犬は大きく深呼吸をする。
そして、どこか恥ずかしそうな様子で口を開いた。
「わたしがいた世界では、その、す、好きな人を推しと呼ぶ文化がありましてぇ……」
「好き」
「はい……」
「俺の女になりたい願望を持っていたとは、随分とませたガキだな」
「あ、そういうんじゃないです。わたし、推しにガチ恋しないタイプのオタクなので……」
恥じらうように指の腹を突き合わせていたかと思えば、真面目な顔で否と言う。相変わらずころころと表情が変わる姿を眺めながら、ふむ、と思案する。
この仔犬が己に好意を寄せているのはわかりきったことだが、それがどういうものかは今まで測りかねていた。
見てくれや妖力、地位を目当てに媚びを売り尻尾を振る雌のそれではなく、かといって部下どもが向ける畏敬が混じったものとも違う。親愛と崇拝を下地にしながらも、どこか一方的で無遠慮な好意。それを向けること自体は隠しもしないくせに、仔犬にとってはいざ言語化すると恥じらうような感情であるらしい。
しかし、せっかくだ。もっと突き詰めてみたい。
「俺に理解できる言語で説明しろ」
「げ、言語レベルでわからないって言われた……」
しょぼくれる仔犬に、いいから話せと促す。
今度はすぐに返事は返らなかったが、急かすことはしなかった。目の前の仔犬が、話すことをためらって黙っているのではなく、言うべき言葉を組み立てるために頭をひねっているのがわかったからだ。
待つだけの
仔犬を捕まえようとしていた当初の目的は脇に置き、返答を待った。
しかし。
「うーん。わたし、小龍さんには世界一幸せになってもらいたいんですよ」
「は?」
次に仔犬が発した言葉はあまりにも思考の埒外で、自分でも間が抜けていると思うような声が出てしまった。
そんな己の反応を気に留めた様子もなく、仔犬は熱を帯びた声で話を続ける。
「欲を言えば、幸せになっていく過程を壁なり天井なりになって見守りたいというか……。未知の感情に振り回されて情緒が散り散りに乱れた末に、心から愛しいと思った相手と添い遂げることができた瞬間を祝福したいというか……。まあ色々と欲望はあるんですけど、大雑把に言ってしまうと、推しが幸せになっているところが見たい、許されるならささやかながらその手助けやお祝いをしたいというのが、わたしが貴方に抱く気持ちです。Not恋愛感情」
「聞き捨てならない発言があった気がするが」
「ナンノコトデショウ。……推しの曇った顔でしか摂取できない栄養があるとか、そんなことは全く一ミリも思っていませんとも」
よからぬ感情もあると半ば白状したようなものだが、不問に付してやる。それよりも今言われた言葉を消化する方が最優先だった。
幸せになってほしい?
世界一?
誰に?
不愉快さが一滴だけ落ちてくる。出所が掴めないものだったが、不快であることに変わりはない。少しだけ圧を込めて見やれば、俺の怒りに気づくのが早い仔犬は肩をびくつかせた。
「え、えーっと、おいしく食べられるだけであって、根はハピエン厨なので曇らせはないに限ると言いますか、推しの幸せが第一で最優先事項なのは不動なので……」
「……どちらに対してだ」
「ホワッツ?」
「どちらに対してだと聞いている。一というからには一人だろうが」
始まった弁明を切って捨て、聞きたいことを問う。仔犬は黒い目を瞬かせた後、心底困惑したような顔をした。本当に表情がころころ変わる仔犬だ。
「そうですけど、まず一人に選ぶための比較対象が何なのかわからないわけで……。あっ、もしかして推し的には小龍と希介って別カウントなの!? マジ!?」
「お前にとっては違うのか?」
「同一人物という認識だったので……。ええ、小龍と希介の二択……? でも公式から設定が出たらそれに準拠したいから……ぐぬぬぬぬぬ」
悩ましそうに言ったかと、今度は苦しそうに唸り始める。
それをしばらく眺めてから口を開いた。
「……好きなように解釈しろ」
「はい?」
「お前の好きなように解釈しろと言っている。吹聴されなければ、どう思われようが構わん」
「それってつまり、今まで通りの認識でいいって……コト?」
肯定の代わりに沈黙を返せば、仔犬は安堵した後、嬉しそうに顔を輝かせた。
一滴の不愉快は、仔犬の百面相を見ているうちに消え失せていた。
「変なガキだな。物語とやらを通して、俺がどういう男か知っているんだろう?」
他者の虚言を嫌悪するくせに、自分は他者を欺いて生きている。〝まざりもの〟の生存本能ではあるが、矛盾に満ちた生き様なのは己自身が一番理解している。普遍的な幸福という概念など、あまりにも似つかわしくない。
似つかわしくない言葉を口にした仔犬といえば、きょとんと首を傾げた。
「確かに小龍さまはド執着男だし、希介さまもヤンデレの素質あると思いますけど、そこらへんも込みで推させていただいているわけで。それに小龍さま、無面が絡んでくるまでは二重生活を利用して暗躍してなかったですよね?」
「その必要性がなかったからな」
「メインの理由はそれかもしれないですけど、なんだかんだ言って、どっちの生活も大事にしてるんだなあって感じたから。優しい人に幸せになってほしいっていうのは、自然じゃないですかね? ……あ、これゲーム中明言ないんですけど大丈夫です!?」
「好きに解釈しろと言っただろうが。いちいち聞くな」
「オタクに優しい人外だ……いや厳しいのかな……?」
ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「そんなことを言うのは、お前が初めてだ」
「そりゃあ、オタクって単語を使っている人がいたらその人、異世界転生してますよ」
「ふん」
勘違いしているのはわかったが、あえて訂正してやるほど甘やかす気はない。もう一度鼻を鳴らしてから、ようやく本来の用件を口にした。
「今日だが、烏丸小夜とその協力者を粛清してきた」
「あ、ついに」
「これでお前の有用性は証明された。約定通り、帰る方法を探すのに協力してやる」
「やったーーーーーっ!!」
そう言うや否や、仔犬は握った拳を肩の高さまで掲げた。
「期待はするなよ。
そう釘を刺すが、聞こえていないのか全身を喜色に染めている。
それを眺めていると、徐々に面白くない心地になってくる。手を伸ばして小さな鼻をつまんでやれば、仔犬はなんとも色気のない声を上げた。溜飲が下がったので手を離してやる。仔犬はひとしきり不思議そうな顔をした後、今度はおずおずと窺うような顔を向けてきた。
「……あのぉ、ところで」
「なんだ」
「小夜は逃がしてくれました……?」
「ああ、そのことか」
つまらない問いかけに嘆息してから、小さく肩をすくめてみせた。
「俺がどうこうする前に脱兎の如く逃亡していったがな。しかしなぜ、取り逃がせなどとほざいた。実行犯は無面とはいえ、烏丸小夜自身も十分力ある妖だ。市井に火種をばらまくようなものだぞ」
首謀者である烏丸小夜を逃がしてほしい。
仔犬がそんな馬鹿げた頼みをしてきた時は「努力はする」とは言ったが、実行に移すつもりは毛頭なかった。いくら
ゆえにその時は理由を問いただすこともしなかった。だが、結果的に烏丸小夜が逃げてしまった以上、仔犬の打算を聞いておく必要があった。
「だって、小夜にも幸せになってほしいから……」
「は?」
我が事ながら、実に間の抜けた声が零れた。そんな俺に気づいていないのか、仔犬は落ち着くなく手元を動かしながら言葉を続ける。
「かといって小夜ルートは小夜以外の攻略キャラが全滅しちゃうし……。何なら燈京が滅んじゃうし……。小夜にはめちゃくちゃ申し訳ないけど、いったん破滅してもらった方がいいかなって……」
「俺に理解できる言語で説明しろ」
「二回目!?」
仔犬に説明させること数分。
要約すると、どうやらこいつは烏丸小夜を救いたいらしい。
呆れて物が言えないとはこのことだろう。
仔犬が語った
これみよがしにため息をつけば、びくりと、仔犬の小さな肩が跳ねる。
「烏丸小夜が何をしでかし、何をしでかそうとしたのか正しく理解した上でその戯言か?」
「わ、悪いことしたからって幸せになれないのはこう、なんか違うと思うんですよっ。罪はちゃんと償わないといけないと思うけど、それはそれっていうか……。できることなら、みんな幸せになってほしいっていうか……」
「小娘らしい夢想だな。本気でそう考えている分、歯が溶けそうなほど甘い」
「――――」
ことさら呆れた声音で言い放ったにも関わらず、仔犬はなぜか驚いたように目を丸くした。
想定していなかった反応に、仔犬の顔をまじまじと見つめる。龍の目。魂の光彩を知覚し、感情による色彩の変化を把握できるがために、真実を見通す目などと称されている目で、仔犬の魂を観察する。別の世界から来たという言に違わず、構成する理が人とも妖とも異なる魂。されど、それ以外は人の子らしくちっぽけな魂は、驚きと喜びで彩られている。良くも悪くも素直で鮮やかな色彩に、それ以上の含みは見受けられない。
嘲られたというのに、一体何が嬉しいのか。
相も変わらず、この仔犬はわかりやすいのに解せない。
「……あはは、やっぱ甘いですかねえ」
黙っていると、仔犬は困ったように笑いながら頬を掻いた。不可解さを問い詰めてやってもよかったし、今まさに突きつけようと考えていた「矛盾」を口にしてもよかったが、仔犬の顔を見ているとそんな気も失せる。小さくため息をつくだけに留めた。
仔犬の戯言はさておき、現状だと烏丸小夜には何もできないというのは的を射ている。あれは隠形と幻術の達人だが、そう何度も策謀を見逃すほど神代やその配下は節穴ではない。少なくともこの燈京で派手に何かをしでかそうとすれば、すぐに追手がかかるだろう。
しばらく大人しくするか、あるいは燈京を出て行くか。
そんな状況に追い込んだのは、最善ではないが、完全な悪手でもない。無論、それを仔犬に言ってやるつもりは毛頭ないが。
それに、
仔犬は知らない話だが、これが居ついてからほどないころ、烏丸小夜の私兵がアジトに忍び込み、珊の命を狙ったことがある。
暗殺を実行しきれない技量、簡単な拷問で口を割る忠誠心の低さ、珊を〝無面〟だと思い込んでいた情報の粗さは恐らく故意によるもので、それに
仔犬を拾う以前の
〝無面〟への固執も、珊を殺す暴挙も、三〇〇年の生で積もり積もった閉塞感を壊したいという願望に行きつく。そのための手段が〝無面〟ではなく、燈京を巻き込む喧嘩になったとしても支障はないのだから。
だがあいにくと、今は目の前の仔犬にも興味があった。
人の一生など刹那だ。それは妖が人の輪に交じって生きるようになっても変わらない。いるとわかった以上、〝無面〟に手を伸ばせる機会はこれから先いくらでもある。ならば、この世にいるのが短い方を優先するのは当然の帰結だろう。
烏丸小夜に何かしら思うことがあるなら、そう遠くないうちに接触はしてくるだろう。そうなれば、その時の気分次第で捕縛するなり逃がしてやるなりすればいい。
そんな算段を立てながら、改めて仔犬を見た。
己に世界一幸せになってほしいなどと言ったくせに、困ったように笑っている仔犬はおそらく、今も別の男の幸いのために心を砕いている。それを理解した瞬間、形容しがたい感情が込み上げてくるのを感じた。
形容するなら、不愉快という言葉が近い。
そして愉快でないなら、それは早急に解消されるべきだ。幸い、というほどでもないが、己はそのための手段を持っている。この仔犬が真っ先に意識を割くのは、他ならぬ己自身の言葉だからだ。
「仔犬」
「あ、はい、なんでしょう?」
期待通り、うじうじと悩んでいた仔犬はすぐにこちらを向いた。その従順さに満足感を覚えつつ、言葉を重ねた。
「結果的にお前のおねだりを叶えてやったんだ。対価があって然るべきではないか?」
「そういうのっておねだりした時に言いません?」
「煩い。飼い主が飼い犬のおねだりをきいてやったんだ。言うことを聞け」
「えー、わたしにできることって限られますけど……。あ、それともそろそろ無面の話とかします!? 準備できてますよ!」
「いらん。今は興味がない」
「あ、はい……。ぐぬぬ……」
「煩い」
「大声出してないのに!?」
そう叫び、不満そうに頬を膨らませる。
無念さも不服さも隠そうとしないところは実に幼稚だ。しかし、鮮やかな感情に混じって、ささやかな安堵の色が滲んでいた。なんとも、解せない。
「えーっと、それでわたしは何をすれば」
「簡単なことだ。毎朝俺を見送り、毎夜俺を出迎えろ。夜伽はこれまで通り行わせる、せいぜい寝坊しないよう精進しろ」
気を取り直したように問いかける仔犬に、要求を口にする。
なんということはない。
浅いようで推し量り難い生き物を、もう少し近くに置いておこうと思っただけだ。
己の言葉に仔犬は目を瞬かせた後、興奮した面持ちで身を乗り出した。
「そ、そんな名誉職についていいんですか!?」
「大げさな奴だな」
「推しにいってらっしゃいとおかえりなさいを言う仕事なんて、全オタクなら誰もが一度は夢見るもんですよ! そんなご褒美みたいなことでいいんですか!?」
「そこまで言うからには、寝坊や遅刻には仕置きを与えてもよいということだな?」
「それやるならせめて何時に帰るか決めません?」
眉間にシワを寄せた仔犬は、烏丸小夜のことなどすっかり忘れたように平気で口答えをしてくる。胸中にはびこっていた形容しがたい感情はすっかり消え失せていた。
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