第39話

どこからか、か細い虫の声がする。



口もとに笑みを携えたまま、綾香は一乗寺下り松の古木を見上げた。



外はすっかり日が落ち、格子戸から入る月灯りが、古木の滑らかな表面を青白く照らしている。



“あの子”は今、僕達の会話を聴いているんだろうか。



ふと、朝日はそんなことを考えた。



「そやけど、良かった……」



綾香が、急にしみじみとそんなことを口にした。



「良かったって……、何が?」



「朝日くんが、和哉くんに会えて」



澄んだ瞳が、再び朝日の方に向けられる。



その瞬間、瞬間朝日の胸は、大きく跳ね上がった。



“朝日くん”と初めて名前で呼ばれたことにも大きく動揺したが、朝日を見つめる綾香の瞳の奥底に、温もりのある何かが見え隠れしていて――。



朝日の全身から、一気に汗が噴き出す。



「朝日くん、毎日あそこで和哉くんを待ってたんやろ?」



「……え?」



「毎日見てたから、私知ってんねん。そやから、本当に良かった」



綾香は頬を微かに染め、人知れず咲く花のような純朴な笑顔を浮かべた。



綾香は、誤解している。



朝日は、和哉を待っていたわけではない。



だがそのことを訂正する余裕が、朝日にはなかった。



今の綾香の言葉に気になるところがあって、そのことで頭がいっぱいだったからだ。



――毎日?



綾香とはよく会うと思っていたが、まさか毎日見られていたとは思いもよらなかった。



そもそも綾香は、八大神社にお参りに来ているだけだと思っていた。



今どきの女子高生らしからぬ信心深さに、感動すらしたことがある。



でも、本当にそうだろうか? 



例えば綾香の目的が別にあって、偶然を装うためにせっせと八大神社に通っていたのだとしたら――。



朝日は、心の中で苦笑した。うぬぼれるな、と自分に喝をいれる。



何でも自分の好都合に解釈してしまえば、後で辛い目に遭うのは自分だ。



思春期を迎えた少年にはありがちな倒錯だと、朝日は充分心得ている。



すると。



「ずっと、心配してたんよ……」



思い詰めたような声で、綾香がぽつりと呟いた。



その声は、驚くほど真っ直ぐに朝日の胸に溶け込んだ。



朝日は、引き寄せられるように綾香の顔を見つめた。



頬を紅潮させたままの綾香は、緊張した面持ちで朝日を見上げている。

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