第38話

日暮れ時の八大神社の境内はひっそりと静まり返っていて、昼間とは別の空間のようだった。



空には月がぽっかりと浮いていて、夜へと移ろいゆく世界を朧気に照らしている。



朝日の一歩前を行く綾香は、何も声を掛けては来なかった。



光沢のある艶やかな黒髪の後ろ姿を、朝日は緊張しながら時々目で追った。



綾香は本殿の前で一度頭を下げると、初代一乗寺下り松の祀られている社に入って行く。



中は、新緑と木の混ざり合ったようないつもの香りがした。



「……川岸さん、ここ好きだよね」



「小川くんも、好きなんやろ? 前に言うてたやん」



注連縄を巻かれた松の古木は、今日もひっそりと同じ場所で朝日を見ていた。



そこにいるはずの精霊は、やはり朝日の目には映らない。

それはただの、もの言わぬ古木に過ぎなかった。



社の中の薄暗さが、朝日の寂しさを掻きたてた。



朝日の脳裏には、自然と微笑む精霊の顔が浮かんでいた。



黄色い帯を揺らして、くるくると回る姿が美しかった。



現役の一乗寺下り松に語りかける時だけ先輩面するのが、面白かった。



胸が締めつけられたような心地になって、松の古木を見つめたまま、朝日は動けなくなった。



――どうして、見えなくなったんだろう?



何百回も考えた疑問を、再び自分にぶつける。



これがもし大人になるための代償ならば、ずっと子供のままで良かったと心底思う。



それくらいこの松の古木の精霊と過ごした日々は、朝日の中で貴重なものだった。胸が、熱くなる――。



「小川くん、今日和哉くんと話してたやろ」 



精霊との思い出の世界に呑まれそうになっていた朝日は、その声で我に返った。綾香の綺麗な瞳が、目に飛び込んで来る。



「……え? どうして知ってるの?」



「さっき、二人が話してるのをたまたま見かけてん」



「……そっか。和哉……、大分前に京都に戻って来てたんだって。剣道滅茶苦茶強くなったらしくて、全国大会行けるかもって言ってたよ」



「そうなんや、すごいなあ! 和哉くん、小学校の時からずっと剣道頑張ってたもんなあ」



会話が途切れ、二人の間に静寂が訪れた。

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