第2話
そのとき、ひときわ強い潮風が吹いた。
無数の白い粒が、潮風に乗って俺の元まで流れてくる。
そしてキラキラと光りながら、竜巻のように俺を取り巻いた。
「え……?」
なんだこれ、まるで吹雪みたいだ。
こんな真夏に、雪なんか降るわけないけど。
夏の吹雪に目を奪われているうちに、体が浮くような不思議な感覚になった。
どこからともなく、歌声が聞こえてくる。
どこかで聞いたような曲だった。
とても切ない歌だ。
君に会いたい。
君に会いたい。
もう一度君に会えたら……。
歌詞とメロディーから、胸がしめつけられるほどの想いがひしひしと伝わってくる。
気がつくと、夏の吹雪は跡形もなく消えていた。
夕暮れの海景色が視界の先に広がっている。
生ぬるい潮風、寄せては返す波の音。
どうやら、変な幻覚を見てしまったようだ。明日のオーディションの緊張で、頭がおかしくなったのかもしれない。
俺はなぜか、どうしようもないほどの焦燥に駆られていた。
追いかけないと。
何が何でも、凪の声を聞かないと。
振り返ると、遠く道の先に、白い半袖シャツの後ろ姿が見える。
今ならまだ間に合いそうだ。
俺は自転車を無我夢中で漕ぎ、凪を追いかけた。
ぐんぐんと近づく、プリーツスカートの見慣れた後ろ姿。
「なぎ……っ!」
自転車をガシャンと倒して近づくと、凪が驚いたように俺を振り返る。
目元がキラリと光ったのに気づいて、俺は目を見開いた。
「え? 凪、泣いてんのか?」
「……泣いてなんかない」
口をへの字に曲げて、凪はひっくひっくとしゃくり上げていた。
「いや。絶対泣いてるじゃん、それ」
言い切ると、凪はへの字の口のまま押し黙った。
顔がボロボロになるほど泣いているのに、言い逃れは苦しいと悟ったのだろう。
涙でボロボロでも、見惚れるほどかわいいけどな。
「なんで泣いてんの?」
凪の涙が落ち着くのを待って、俺は聞いた。
凪は俺を睨むように見ながらも、素直に口を開く。
「純平がオーディションに受かったら、この島を出ていくんでしょ? そしたらお別れだなと思って」
「お別れなんて大袈裟だな。島出ても、誰だって帰省ぐらいするだろ。ていうかそもそも受からねえし」
「だから、受かるって言ってるじゃん!」
ぐすっと、拗ねたように洟をすする凪。
泣いていたせいか、今の凪はいつもよりしおらしい。
あんまりかわいいから、ちょっとした悪戯心が芽生える。
「寂しいなら寂しいって言えばいいのに」
冗談モードを誘うように言うと、意外にも凪は乗っからず、まっすぐに俺を見てきた。
その眼差しがあんまりきれいで、息が止まりそうになる。
「うん……。純平がいなくなったら、私…‥寂しい。純平は私の特別だから。有名になってほしいっていつもかなうバーにお願いしてるのに、矛盾してるよね」
言ったあとでハッとしたように口元を押さえ、顔を赤らめる凪。
まるで感情にまかせて、余計なことを口走ってしまったかのように。
真っ赤になった凪は、唇を引き結んでうつむいた。
甘酸っぱい、いつもの俺たちにはあり得ない空気が流れる。
聞こえるのは、うんざりするほど聞いた波の音だけ。
それでも今は、嫌いになりかけていた波の音が、世界一最高の音楽に聞こえた。
ああ、なんだそうだったんだ。
かたくなだった俺の心が、甘い空気にみるみる溶かされていく。
俺は、凪の特別だったんだ。
そして凪は俺の未来を応援してくれていて、だけど俺がいないと寂しいって思ってる。
俺、ポンコツなのにめちゃくちゃ大事にされてるじゃん。
「そっか……」
昂る感情を落ち着けようと、俺はコホンとひとつ咳をした。
「じゃあ。俺、明日オーディション行くのやめにする」
「え……っ」
「どうせ落ちるし。交通費がもったいないだろ?」
「でも、純平の夢が叶うチャンスなのに! 純平も、かなうバーにいつもお願いしてるんでしょ?」
「違うよ。俺の願いはそんなことじゃない」
――凪が俺を好きになりますように。
でもそれは、東京に行っていい男風にならなくても叶うんじゃないかと、今は少し期待してしまっている。
かなうバー、ちゃんと効果があるじゃねえか。
「純平、でも……」
不安げな凪を安心させるように、俺は笑ってみせる。
夕焼けマジックのおかげで、ポンコツでもちょっとだけイケメンに見えないかなと期待しながら。
「とにかく明日は、何があろうと俺たちは、うずしお屋でかなうバーを買わないと」
釣られるように、彼女もようやく笑った。
「何があろうとって、大げさすぎない?」
「だって食べれば夢が叶うんだろ? 最強のアイスじゃん」
「音楽で成功することが純平の夢じゃないなら、本当の夢は何なのよ?」
「そんなの、お前なんかに言わねーよ」
「は? その言い方、ひどくない?」
ボフッと凪が鞄を俺の腹にお見舞いする。
予想外の攻撃に、俺はまた「ぐはっ」と呻いた。
だからそれ、めちゃくちゃ痛いんだって。
でも痛がる俺を見て、君が涙で濡れた顔で花開くように笑ってくれるなら――痛いのも悪くない。
そんなことを思った俺は、たしかにこの世で一番の幸せ者だった。
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