9 ―到達―

 飛び込んだ先は一面、銀の世界だった。

 果てが見えないほどの広大な空間は、樹の内側であることを忘れさせる。

 凍えるほどの冷気がずっしりと圧し掛かり、ルイーズは思わず息苦しさを覚える。

 それでも何とか堪えて、手の平の温もりを頼りに彼の面影を探す、が――。


 暑い寒い痛い嬉しい悲しい楽しい硬い柔い赤い黄色い暗い明るい寂しい五月蠅い眠い。


 名前も顔も知らない人々の、有象無象のクオリア。その奔流がルイーズの全感覚を聾する。

 ――駄目だ。雑然とし過ぎている。これでは砂漠から一粒の砂金を見つけるようなものだ。

 足りない。手の感触だけでは、足りない。もっと、もっとヨシ君の手掛かりが欲しい。

 それなら――。

 応冠に意識を集中。ルイーズは一度現実へと戻る。

 目覚めた先には、未だに動かない少年がいて。もう、細かいことは気にしていられなかった。


「ちょっと痛いかもだけど。ごめん、ヨシ君!」


 一歩、踏み込む。もう一度、銀の世界へ。

 気のせいだろうか。そこは最初よりも整って見えた。

 一種のカクテルパーティー効果とでも言うべきか。見つけたいものについて詳細に知っている今、それ以外のノイズを上手く処理できている。これなら、いける。

 彼の形を、匂いを、温もりを、全身で感じた彼の全てを頼りに、掻き分けて掻き分けて、進んで進んで――。その、愛おしい影を見つけた。でも、その背中が離れていくように見えて、


「待ってヨシ君! 嫌だ! 行っちゃ駄目!」


 必死に叫んで、一気に駆けて、ただ一心に手を伸ばす。

 とどけ、とどけ、とどけ――。




 鈍くて冷たい銀の世界だった。体の感覚は曖昧で、この静寂に溶けていくような奇妙な心地良さだけが、意識の拠り所だった。

 希釈されて拡がっていく意識はやがて、自分以外の何かが近づいてくるのを捉えた。その存在に目を凝らすように、意識を集める。

 それは虹の輝きに彩られた無数の人々。奇妙なことに、その誰もが応冠を被っていなかった。

 その先頭でこちらに手を振る影に、ふと懐かしさを覚える。表情は分からない。なのに微笑みかけるように見えるその影は、幼い記憶の中と同じで。――自分の母にそっくりだった。

 彼女が両腕を広げる。溶けゆく意識が吸い寄せられるように、その胸へ飛び込みたくなった。

 踏み出してしまえば、きっともう戻れない。

 そんな自覚はあって、

 足の感覚は無くて、

 それでも自分の意志として、

 破局への最初の一歩を、進める。

 その瞬間だった。


「……て……君! ……! ……ちゃ駄目!」


 声が、聞こえた気がした。

 振り返った刹那。ぐっと、誰かに強く手を引かれる。そう、手だ。僕には手があった。

 直後、ぽすっと柔らかい感触が顔に伝わる。そう、顔だ。


「あっ……」


 やがて全身が温かい何かに包み込まれ、耀心は自分の身体感覚が戻ったことに気が付く。

 何なのだろう、これは。でも、安心できることは確かだった。

 振り返る。母の影は驚いたようにも悲しんだようにも見えた。

 やがて、耀心を包む温もりは一層煌めいて、冷たい白銀の世界を暖かな黄金へと染め上げる。

 その光に圧倒されるように、影は次第に遠のいて。

 無限に続くように思えた夢幻から、眩しくて鮮烈な現実へ。もう目覚める頃合いだ。

 日が沈むような惜別と、夜明けのような覚醒が、始まる。


「待って母さん! 僕は、まだ何も」


 伝えられていない。そう叫んで、咄嗟に伸ばした手の先で、ぼんやりと薄れて消えゆく母の影。霧散する刹那、それは最後にまた微笑んで、手を振ったように見えた。

 行ってらっしゃい。

 と、言われた気がした。

 そして、そして、そして――。



 ***



 ふと、クライドは異変に気付く。

 辛うじて抑え込んでいた極彩色の魔応円サークル、その色がゆっくりと失われていく。


「ん? なんだ?」


 慌てて異形の樹の様子を確認する。見上げると、その幹を彩るサイケデリックなブレスレットが、一斉に消失していくところだった。


「これって……まさか!」


 ルイーズが飛び込んでいった樹肌に、クライドが視線を移した、ちょうどその時。


「クライド! っ……手を…………」


 呼びかけと共に、樹の表面を突き破って白い繊手が伸ばされた。

 だが、それはすぐに沈んでいって。


「ルイーズ!」


 煌めく群青。クライドは迷わず樹の内側へと右腕を突っ込んだ。ジュワッと、何かが溶ける音がするが、そんなことはどうでもいい。

 手探りで彼女の手を素早く『掴んで』、思いっきり引き寄せた。


「ちょっと貴方! そんなことしたら手が……えっ!」


 樹肌から顔を覗かせたルイーズの心配は、すぐに驚愕に変わった。


「ははっ。手が何だって、お姫様?」


 それは青い蛇だった。その蛇がルイーズの手を絡め取り、クライドの腕全体にぐるぐると巻き付いていた。樹に触れた際のダメージはあったようで、よく見るとその表面は所々溶けてしまっている。


「サポートするって言ったろ。ほら、一気に引き上げるぞ! 耀心を落とすなよ!」


 全身全霊の力を込めて、クライドが二人を引きずり出した、その直後。

 異形の樹が瞬き、極大の光となって爆散する。


「うわっ!」


 闇を払う曙光の如き輝きで、白む世界。

 救出の反動で尻餅をついたクライドは、体勢を立て直しながらその光の中心に目を凝らす。


「っ……。ルイーズ! 耀心!」


 やがて捉えた二つの影は、まるで天界より降り立つ天使に見えた。いや、まさに天使そのものだった。だって、抱き合う二人の頭の上には大きな輪が一つ浮いていたから。


「っ! 何だ……あれ?」


 何度か瞬きをして、もう一度彼らを見る。すると既に、光輪は見えなくなっていた。

 思わず駆け寄ると、ぐったりとする耀心の肩を抱いたルイーズがこちらを向く。


「ありがとうクライド。私、先に戻ってる。ヨシ君を起こさないと」

「あっ、おい! ちょっと待っ……。ったく置いてきぼりかよ」


 こちらの発言を聞くこともなく、ルイーズは耀心と一緒に現実世界へ戻ってしまった。

 残ったのはクライド一人。

 いつの間にか震動は止んでいて、〈ルーツ〉は静かになっていた。

 彼女の様子から察するに耀心の救出は成功したようで、それは嬉しいのだが、何となく腑に落ちない。あの輪は何だったのだろう。というか、そもそもとして。


「終わった、ってことで良いんだよな……」


 安堵から、思わずため息が零れる。今更のように、全身の酷い疲労を自覚した。

 どうしたものかと思案して、思い至る。仕方ない。気乗りしないが、迎えに行くことにした。

 あの二人には言いたいこともある。決して、仲睦まじそうな彼らに茶々を入れたいわけではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る