4 ―再現―

 どくどくと流れ込んでくる『わたし』の記憶。それは常に静寂と孤独で塗り潰されていた。

 退屈で、心細くて、寂しくて、ちっぽけな自分なんて何度も見失いそうになって。

 でも、そうはならなかった。

 だって、その度に優しい光が励ましてくれた。

 俯く『わたし』の足元を照らしてくれた。

 胸の奥に秘めたそれは、宝石みたいにピカピカで、キラキラと輝いていて。

 これは……思い出だ。あの日の私が『わたし』に託した、もう一つの記憶。

 その温もりに支えられながら、長い長い時間が経った頃。


「なんで……。なんで、君がこんなところにいるの? あれから何年も経ってるのに……。もしかして、研究棟であったトラブルって……。じゃあ……君はあの日から――」


 貴方が現れた。

 少し垂れた目にブラウンの瞳。巻き毛の黒髪と、その上に浮かぶ水晶のように透明な荊の冠。

 ジェスター。いや違う。私は本当の貴方を知らない。

 けれど、『わたし』は貴方を知っている。宝石の中の幼い面影が、教えてくれる。

 だって、貴方はずっと――。




「今日はみんなで鬼ごっこタグをするんだ!」


 いつもより寝覚めの良い朝。ルイーズの一日はそんな宣言から始まった。

 一ヶ月前から通うようになった研究所には既に友達がたくさんいた。いつものように皆と一緒に日課の健診を受けて到達度テストに取り組む。

 昼食後の自由時間、ルイーズはようやく皆と遊べた。わーきゃー言いながら、ルイーズは鬼役の子から逃げ回って、思いっきり駆けて、いつの間にか楽しさで周りが見えなくなっていた。

 気付くと一人ぼっちで、皆と一緒にいた表の広場から離れてしまっていた。迷い込んだのは中庭だった。研究所とその裏にある病院、両者に挟まれて日陰ばかりが広がる静かな場所。

 閑散と並ぶベンチには大人ばかりがぽつぽつと座っていて、少し心細くなる。

 ふと、ベンチの一角に自分と同じ歳くらいの幼い少年を見つけた。実験では見かけない子だが、その頭には応冠を被っている。ガラスみたいに透明でトゲトゲに覆われた、触ると痛そうな応冠だった。

 一人ぼっちで不安だったルイーズは安堵と共に、幼い少年の下へ近寄ってみる。

 彼は足が不自由なのか車椅子に座って本を読んでいた。すぐ横のベンチには数冊の本も積まれている。本を挟んでその隣に座る。彼はこちらを一瞥したものの、すぐに手元へと視線を戻してしまった。


「ねーねー。何読んでるの?」


 初対面の緊張よりも好奇心が勝って、ルイーズは少年に問いかける。


「言っても分からないよ。これ日本の本だし」


 少年は目も合わせずにそう言うと、こちらへ本を見せた。文字は英語ではなかったが、内容は読める。そもそも彼が話す言葉も英語ではないのだが、それでも発言の内容は理解できた。 

万応語ビヨンドワーズ〉。応冠がもたらす数々の恩恵、その一つが言語の壁を越えた交流を可能にする。

 そんな応冠の権能にもすっかり慣れてしまったルイーズは、構わずに質問を続ける。


「へえ、日本から来たんだ。それで、その本はどんな内容なの?」

「主人公が世界を救うために冒険するんだ。面白いよ」


 再び本へと視線を落としながら片手間で返答をする少年は、どう見ても会話に乗り気ではない。しかし、おしゃべりが大好きなルイーズはそんなことを気にしなかった。もともと我儘な彼女は、いつだって自身の衝動に忠実だ。


「ふーん。そうだ! あなたのお名前は? わたしはルイーズ。来月に九さいになるけどあなたはいくつ? あなたの学校はまだ夏休み? もう九月なのに? あ、でも私の学校も来週からで――」

「待って待って。質問が多いよ。えーと、僕は耀心。七歳だけど、まだ学校は行けてないんだ」


 ルイーズの質問攻めに耀心が折れる。彼は渋々と答えながら、本を閉じて顔を上げた。

 その垂れ気味な目の奥で揺れるブラウンの瞳を、ルイーズはじっと見詰める。


「ヨーシン……、じゃあヨシ君って呼ぶね。へへ、わたしの方が年上だ。それでねヨシ君、わたしは今あそこの研究所で応冠の研究に参加してるの」

「研究か。凄いね君は。僕とそんなに歳が変わらないのに」


 感心する耀心に、ルイーズは少し不満そうな顔を浮かべた。


「君じゃない。わたしはルイーズ。そうだ! ヨシ君もわたしにニックネームつけてよ」

「あ、えっと…………じゃあ、ルイ姉」

「ルイネー?」


 万応語ビヨンドワーズでは上手く理解できなくて、ルイーズは思わず首を傾げる。


「ええっと……、日本だと姉以外にも、歳上の女の子をお姉ちゃんって呼ぶんだ。いや?」

「ううん。良いねそれ!」


 耀心が咄嗟につけた名前だったが、ルイーズはすっかり気に入ってしまった。つい何度か小声で復唱して、にっこり笑って頷く。それからその大きな灰色の瞳で、再び彼を見た。


「ねぇ、ヨシ君はどうして応冠をかぶってるの? ヨシ君も研究?」

「僕? 僕はちょっと違うんだ。えっと、話すと長いんだけど」

「良いよ。聞きたい」


 ルイーズに促されるままに耀心は語り始める。痛みを堪えているのか、自然と拳に力が入る。


「ちょうど一年くらい前に事故に遭ったんだ。こっちじゃなくて日本で。それで暫く意識が無かったみたいで、治療のために応冠を頭に入れてもらったんだ。『じんどーてきなとくれい』だって父さんは言ってた。お陰で意識は戻って、今はリハビリでここに来てるんだ」

「事故……、リハビリ……? どこかケガしたの?」

「うん。足をね。もう治ったはずなんだけど、まだ上手く歩けなくて。応冠にも異常は無かったみたいだし、お医者さんも不思議がってた。だから今は本を読んで気を紛らわせてるんだ」


 そう言って本を抱えた耀心は笑みを浮かべる。無理をして作るその笑顔は酷く不格好だった。


「そうなんだ……。あ、良いこと思いついた! ヨシ君、わたしが歩き方教えてあげようか? そしたらきっと、思い出せるよ。その代わり、わたしに本の内容を教えて!」


 それは耀心にとって願ってもない提案だった。


「それ本当! とっても嬉しいけど、一体どうやって……うわっ!」


 互いのおでこがくっつくほどに、ルイーズが耀心との距離を詰める。すると途端に、彼の顔が赤く染まった。


「大丈夫だよヨシ君。リラックスリラックス」

「えっ……ちょっと、ふえぇ」


 戸惑う耀心を尻目に、ルイーズが魔応円サークルを展開。黄金の円が広がって二人を囲む。

 そして次の瞬間、耀心の視界が金色の煌めきに埋め尽くされて――。


「……、ん? わぁー」


 眩しい陽光に、耀心は思わず目を細める。いつの間にか彼は草原に立っていた。

 緑の匂いが鼻腔をくすぐる。穏やかな風に背中が押されて自然と足が動いた。

 そうだ。これが『歩く』ってことなんだ。なんだ、簡単なことじゃないか。

 草を揺らすそよ風と追いかけっこをする。久しぶりに思いっきり走って、思いっきり転んで。無邪気な痛みで我に返った。


「凄い! 凄いねルイーズ。応冠ってこんなこともできるんだ!」

「でしょ。さーくるって言うんだ」


 耀心から尊敬の眼差しを浴びて、ルイーズは誇らしげに腕を組んで胸を張って見せる。


「じゃあ次はヨシ君のばん。読んでる本の内容を教えて」

「分かった。えーとね、勇者がね」


 口頭で本のあらすじを説明しようとした耀心に、ルイーズが首を横に振って抗議する。


「ちがうよ。せっかくヨシ君も応冠があるんだから活用しなきゃ。いい? 物語をよーく思い出して。そしてその時の楽しさを思い出すの」

「分かった。でも僕、まだ応冠を上手く使えなくて」

「大丈夫。わたしが合わせるから。ヨシ君は集中して」


 再びルイーズの応冠と魔応円サークルが光を帯びる。ルイーズの意識が耀心のそれと馴染んで――。


「わあ、すごい! これが本の世界なんだ!」


 鬱蒼とした密林を掻き分けて、ルイーズは進む。両手にそれぞれ、剣と盾を携えて。

 ドキドキとワクワク。そして少しのハラハラ。魔物の咆哮。張り詰めるような緊迫感。死線を掻い潜り、肉薄して。振るった剣と魔物の爪がぶつかり合う。肌に感じる強い衝撃。


「はははっ。すごいすごい! 本物みたい!」


 魔物の猛攻と剣戟の応酬。キーンという甲高い金属音が響く。魔物の突貫。盾を構えて受け止める。ドゴッという固く重たい衝撃が鎧越しに伝わって――、突如、暗転した。


「え?」


 世界が傾く。いや自分が倒れただけだ。そして、目の前には同じように倒れる女性がいた。その下、アスファルトの固い地面には血溜まりが広がっていて。……これは、記憶?

 彼女がゆっくりとこちらを向く。その垂れた目尻と茶色の瞳はヨシ君にそっくりだった。


『……良かった。耀が、無事で……』


 その言葉が最後だった。こちらへと伸ばされていた彼女の手が、力なく落ちた。


『……………………あ、』


 激痛、喪失、悔恨。押し寄せたのは、あまりにも鮮烈な感情と感覚の奔流。頭がガンガンする。鳴り響く救急車のサイレンみたいだ。意識が、記憶と同化する。深淵へと、沈む。

 次に目覚めたのは病室のベッドの上で、大人の男性が泣きながら優しく声を掛けてくれた。


『耀、泣くな。お前のせいじゃない。お前だけでも助かってくれて良かった。本当に』


 渡された写真立て。その中で微笑む女性はさっきの人で、溢れる涙が視界を溶かして。

 駄目だ。これは、この激情は、耐えられない。

 応冠に意識を集中。黄金の輝きと共に急速に意識が輪郭を取り戻す。そして――。


「ぷはっ!」


 何とか現実へと意識を戻す。いつの間にか流れた涙で、頬は濡れていた。


「ご、ごめん。嫌なもの見せちゃったね。大丈夫? 気分悪くない?」

「わたしは大丈夫。それよりもさっきのは……、もしかしてヨシ君のママとパパ?」


 ルイーズが問うと、耀心は静かに頷く。


「……うん。時々ね、ふと思い出しちゃうんだ。本当にごめん」

「良いの、私は平気だから。……事故って、ヨシ君のママもあってたんだね」

「僕のせいなんだ。僕が道路に飛び出したせいで、それを庇って母さんが……」


 俯く少年の手に力が籠る。きつく握りしめられた彼のズボンに、深く皺が刻まれる。


「これは罰なんだ。きっと僕は歩いちゃ駄目なんだ。母さんを死なせたこの足は、嫌いだ」


 感情を抑えながら呟く少年の視線は、ずっとその両足へと注がれている。それにつられたルイーズが、じっと彼の細い足を見詰めて、そして気付いた。


「もしかして、だからヨシ君は自分で自分をしばってるの?」

「えっ?」


 思わず耀心から困惑の声が漏れた。顔を上げた彼に、ルイーズは指を差して教えてあげる。


「だってヨシ君の足、さーくるがからまってるよ」


 その足の表面をよく見ると、耀心の応冠とそっくりのガラスみたいに透明な荊が絡みついていた。


「本当だ。全然気付かなかった。僕の応冠は色が薄いから。でも、なんで?」

「ヨシ君って、歩けないんじゃなくて、本当は歩きたくなかったんじゃないの? だから応冠はヨシ君のおねがいの通りに、足をしばったんじゃないのかな?」

「そうなのかな。……いや、そうなのかも。だって、パパも、お医者さんも、看護師さんも、他の皆も、誰も僕を怒らなかった。責めなかった」


 母親を亡くした子供に対して、お前のせいだと叱責する者などいない。しかし、その慰めは必ずしもその子を救うとは限らない。


「でも僕は分かってるんだ。悪いのは僕なんだ。なのに、誰もそれを認めてくれない。だから僕はずっと許されない。僕は、母さんに謝りたいのに」


 誰も責めない中、少年だけが自身の罪を自覚していた。けれど、それを清算できる場所は何処にもなくて。だから彼は、自分で自分を罰するしかなかった。その意志に、応冠は応えた。


「そうか。ヨシ君はゆるしてほしかったんだね。ヨシ君のママに」

「うん。でも……」

「なら、あやまれば良いよ。悪いことしたらあやまる。じゃなきゃ、ゆるしてもらえないよ」


 救済の術はとても単純だ。でも、だからこそ、救いがない。


「もう遅いよ。だって母さんは……死んじゃったんだから」

「ヨシ君のママはさ。ヨシ君が悪いことしてあやまっても、ゆるしてくれなかったの?」

「ううん、笑って許してくれた。むしろ偉いって褒めてくれた」


 首を振る耀心に、ルイーズは微笑む。


「それなら、やっぱりあやまるべきだよ」

「そうなのかな。母さん許してくれるかな」

「大丈夫。きっとヨシ君のママならゆるしてくれるよ」


 それでも不安そうな耀心を見て、ルイーズはさらに言葉を続ける。


「じゃあ、私が見ててあげる! ちゃんとヨシ君があやまるところ、見守っておく。そしたらきっと、ヨシ君のママはヨシ君をゆるしてくれるんでしょう? だから最後は、私が代わりにヨシ君をほめてあげる。よくできましたって。ね、それでいいでしょ!」


 にっこりとルイーズが笑いかける。その笑顔に、少年は別の誰かを重ねたようだった。


「…………あぁ」


 直後、目の前の少年に年相応の幼さが戻った。込み上げる感情がそのまま声と涙になった。

 ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。

 そんなことを、耀心は嗚咽交じりに繰り返し吐き出した。

 それは、ずっと口に出せずに飲み込んで、心の奥に押し込んだ言葉だった。

 散々泣きじゃくって、涙でぐしゃぐしゃの彼を、ルイーズはぎゅっと抱き締めて、落ち着くまでその頭を撫でてあげていた。


「よくできました。わたしはちゃんと見てたよ。えらいねヨシ君。いい子いい子」

「ありがとうルイ姉。なんだかとっても気が楽になったよ」


 目の前の少年がようやく子供っぽく笑う。それは、心の底から零れた純粋な笑みだった。


「私もうれしい。ヨシ君がやっと笑ってくれて。きっとヨシ君のママもそう思ってるよ」


 そう言って、ルイーズがぐっと耀心に身を寄せる。耀心は驚く暇さえなかった。


「だからね、ヨシ君」


 その灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを見詰める。



「もう自分で自分を、しばりつけなくたって良いんだよ」



 ルイーズが耀心の足に触れる。直後、絡みついていたガラスの荊が星屑となって砕け散った。

 少年が自身の足に力を込める。爪先にまで意志が宿る。立って、歩く。一歩、二歩と。三歩目でふらついて、四歩目でよろけて。ルイーズが慌てて支えてあげた。


「……やった。……やった! 歩けた。ルイ姉! 僕、歩けたよ!」


 何とか二人でベンチに座って、耀心はまた嬉しくて泣いてしまった。ルイーズも嬉しかった。


「よかったね、ヨシ君。すごいね、ヨシ君」


 しばらく二人でそうやっていて、片方は泣き疲れて、もう片方はあやし疲れて、二人で肩を寄せ合って、すっかり寝てしまった――。

 ふと、途切れた意識が再び繋がる。人が近付いてくる気配。


「耀、そろそろ……って、あーらま。ははっ、寝ちゃってるし」


 誰かが迎えにきたみたいだ。ルイーズは目を擦りながら、ゆっくりと伸びをする。


「おや、お嬢さんはどこから来たのかな? ご両親は」

「おーい、ルー! どこだー?」


 大好きな声が聞こえて、ルイーズは手を大きく振って合図を送る。


「あっ、ルー。こんなところにいたのか。心配したんだぞ。すいません、うちの娘が」

「いえいえ。二人で遊んでたみたいですよ。疲れて寝ちゃうくらいに」

「そうでしたか。なら良いんですが」


 父親の背中を眺めながら、ルイーズはつい甘えたくなった。


「さぁ、そろそろ戻ろう。午後の実験が始まっちゃうぞ」


 だから、両腕をぐいっと伸ばして、お決まりの言葉を口にする。


「ねぇパパ、だっこして」

「おいおい自分で歩……仕方ないな。特別だぞ」


 よいしょの掛け声で抱き抱えられて、ルイーズの目線が一気に高くなる。自分の足で立つのとは比べ物にならないくらい遠くまで見渡せる、彼女だけの特等席。


「それではこれで失礼します。良い一日を」

「ええ、そちらも。さようなら」


 父親の肩越しに、ルイーズは耀心を見る。その寝顔は安らかで、もう大丈夫な気がした。


「バイバイ、ヨシ君! また明日!」


 大きな声で手を振った。

 そして――。




 そうか。そうだったんだ。ジェスターの正体は、ヨシ君だったんだ。

 あの日、あの事故が起きる前に、私たちは出会っていたんだ。

 過去のトラウマと一緒に、こんな大事なことも忘れてしまっていた。

 涙が頬を伝う。悲しいからじゃない。嬉しいからだ。

 この力は、皆を不幸にしたのだと思っていた。でも違った。幸せにできた人も、確かにいた。

 ふと、ヨシ君の言葉が蘇る。


『ただ、楽しかった経験を、自分を良い方向に変えてくれた思い出を、愛することができればそれで良いんだよ』


 過去の真相を知った直後は、そんなことはできないと思ってしまった。けれど、今ならこの言葉が私に力をくれる。貴方との思い出が、私を立ち上がらせる。

 過去の悲しい記憶は消せなくて、全部自分で背負うしかない。けれど、その両手で抱き締めるのは、もっと温かくて幸せな思い出でも良いはずだ。私はそうやって前を向く。

 ヨシ君。私は貴方と話したいことがいっぱいある。まずはちゃんとお礼を言いたい。

 だから、帰ろう。

 その意志に従って、応冠が煌めく。靄が晴れるように、夢が、解ける――。



「……良かった。今度こそ、間に合った」



 優しい言葉と共に目を覚ますと、ヨシ君の顔がすぐ目の前にあった。纏っていたはずの黒衣は無くなっていて、その下から覗いていたのは〈エクス=リリウム〉の制服だった。


「…………ヨシ……君」


 どきりとした。

 だって、その表情は苦しそうで泣きそうで、こちらを気遣う余裕なんてないみたいで。

 そもそも、なんでヨシ君は私に覆い被さっているんだろう。そうまるで、庇うみたいに……。


「っ!」


 ヨシ君の、胸の辺りから何かが飛び出ていた。それは人の手のように見えて。


「でも、ごめん。もう君と……話せそうに、ない……や」


 風に揺らめく蝋燭の火のように、ヨシ君の輪郭がぶれる。それが意味することは明白だ。身体感覚の崩壊、すなわち重大な意識障害である。


「ヨシ君! だめ! やだ! そんな……」

「っくは。ふははは。ははははは」


 酷く耳障りで邪悪な声が聞こえた。ヨシ君の背後、誰かが立っていた。

 それは中年の男性に見えた。でも、何かがおかしい。全身を覆う極彩色の紋様に、罅割れた肌。明らかに普通ではなかった。


「大当たりだ! まさか君までこんな強大な力を持っていたなんて。俺は運が良い」


 目の前の男が、何を言っているのか分からなかった。その目がぎょろりとこちらを向く。


「ルイーズ、だったね。君には感謝しているよ。俺が捨て身で君に突撃した瞬間、彼は自分から俺にぶつかってくれたんだから。予定とは違うが、これでようやく会いに行ける」


 男が左腕を空へと掲げる。伸ばした手の先には、スカイセプターが浮かんでいた。


「さあ息子よ。今、父さんが迎えに行くからね。ははっ、はははっ、あははははー」


 高く高く、元凶の嗤いがこだまする。


「やだ。やめて…………。ヨシ君を……返して」


 絶望と恐慌。状況を呑み込みきれず、ルイーズは子供のように駄々をこねるしかできない。

 終わったはずの、もう起きないはずの、悪夢が再び始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る