3 ―受容―

「ほらね。やっぱりここにいた」


 そこは中庭だった。さっきまでいた大きな広場から、建物を挟んで裏手にある静かな場所。

 幼い『わたし』は、そこに並ぶベンチとベンチの間にちょこんと収まっていた。壁を向いているせいで、今はその小さな背中しか見えない。


「ありがとうジェスター。貴方のお陰で……私は……」

「お礼を言うのは早いよ。それに、僕は君に言わなきゃいけないことがある」

「それって、貴方の正体のこと?」


 こちらの問いに、ジェスターは静かに首を振る。


「いや……それはもう、いいんだ。僕が君を手助けしたのは、僕自身の都合だ。君は何も気にしなくていい」


 何かを押し殺すようなジェスターの口振りを、今は敢えて気にしないことにした。


「そう。なら私もこれ以上追及しない。そんなことしなくても、貴方が私の味方なんだって、ちゃんと分かってるから」

「それのことなんだけど……」


 申し訳なさそうに俯いて、ジェスターが白状する。


「僕はずっと嘘をついてた。君が大事だって、君の味方だって、言い続けていた。けどあれは、厳密には正しくない。確かに僕は、君の幸せを願ってた。でも、もっと優先すべき人がいた」


 ジェスターの視線が前に向く。その垂れた目に慈愛が満ちるのが、傍目からでも分かる。


「彼女だよ。幼い君の代応者エンジェント。今年の初め、〈ルーツ〉で一人ぼっちの彼女を見つけた時、僕は決めたんだ。彼女を絶対に救うって」


 そう言い切たったジェスターの双眸が、再びこちらへと向けられる。


「僕はね、ルイーズ。直接君に会って文句を言いたかったんだ。てっきり君が、自分の幸せのためにあの子を犠牲にしたんだと思っていたから。でも、それは勘違いだった。君もずっと苦しんでいた。だから僕は、君を手伝うことにしたんだ。だって彼女を孤独から救えるのは君しかいない。代応者エンジェントを受け入れられるのは、それを生み出した本人だけなんだから」

「分かってる。だから、ここからは私の番。今日こそ彼女を、あの時の『わたし』を救うんだ」

「大丈夫。君ならできるよ」


 ジェスターに背中を押されて一歩前へ。

 踏み出してから、ふと気になって再び少年の方へ振り返る。一つだけ確認したくなった。


「ねぇ、聞いていい? もし私が過去を、あの子を受け入れるのを拒んでいたら、貴方はどうしたの?」

「そんなこと、決まってる」


 真っ直ぐこちらの瞳を見つめながら、ジェスターは即答する。


「その時は素直に諦めて、あの子と別のどこかに移動するつもりだった。君と二度と会わないようにね。そして、そこでずっと二人で過ごすんだ。あの子が消えてしまうまで、ずっと一緒に。それだけが、彼女のために僕がしてあげられる精一杯だから」


 それは、あまりにも単純で、残酷なまでに美しい、自己犠牲の宣言だった。目の前の少年が彼女にそこまでする動機は分からない。それでもその言葉は、彼という人間の心の奥を知るには十分だった。


「ありがとうジェスター。あの子と会ったのが貴方で良かった」

「感謝するのは僕の方さ。だからルイーズ、あの子を頼んだよ」

「うん!」


 ジェスターが見守る中、ゆっくりと幼い『わたし』に近づく。

 そっと屈んで、目線を合わせて、彼女の背中に優しく声をかけた。


「さっきは驚かせてごめん。全部、私のせいだ。貴方にずっと苦しい思いをさせちゃった」


 幼い『わたし』がこちらを向く。まだ不安そうなその顔を安心させたくて、言葉を重ねる。


「ありがとう『わたし』。貴方がずっと私を守ってくれてたんだね。こんなに弱い私を。でも、もう大丈夫だから。後は私が背負うから。だから貴方はもう、一人ぼっちじゃない」


 目の前の『わたし』が立ち上がる。安堵したように無邪気な笑顔が零れる。

 だから、それを受け止めるために、膝をついて、両手を広げて、迎え入れた。


「おいで。仲直りをしよう。今度こそ私は貴方を放さない」


 ぽんっと、胸に飛び込んできた幼い『わたし』を抱き締めて、魔応円サークルを展開する。春の日差しにも似た暖かな輝きが二人を包んで――。




「それで、お前が黒幕ってことで良いのかな」


 重なる二人を見届けて、ジェスターが振り返る。睨んだ先、初老の男が一人立っていた。


「だったらどうする、少年? お前にこの俺が止められるか?」


 ギプスのように首に嵌められた、旧式の武骨な応珠が目を引いた。

 落ち窪んだ眼窩に、手入れされていない白髪交じりの黒髪。

 そしてその頭上、混沌が広がっていた。大きさも形も色も異なる紋様の継ぎ接ぎでできた、不気味な応冠。それが妖しく極彩色の輝きを放っていた。


「お前は誰だ? その歳なら事故の被害者じゃないんだろう? そうか。その親なんだね」

「ああそうだ。だが名乗るつもりはない。どうせ今日、それに意味はなくなるのだから」


 ゆっくりと体を揺らしながら話す男。その視線は、どこか遠くを見ているようだった。


「目的は、ルイーズへの復讐かな? そんなこと、僕が許さない。それにお前の子供だって、そんなことは望んでない」

「違う。そうじゃない。俺はただ迎えに行くんだ。我が子をな」


 そして、ジェスターは気付く。彼の視線の先、闇夜に浮かぶ塔があることに。


「あの事故から息子は変わってしまった。まるで別人みたいだ。そう、別人なんだ。きっと事故で体から意識が抜け出してしまったんだ。あの子は今もここにいる。そう〈ルーツ〉に」


 まさか?


「七ヶ月前、わたしは〈ルーツ〉に迷い込んだ。運が良かった。あの頃からずっと息子を探していたんだ。そこで見つけた。ここの広場で。スカイセプターを」


 まさか。


「あの子はここでいなくなった。そして、ここにこの塔があった。この意味がお前に分かるか?」


 まさか!


「あの塔に、必ず息子はいる。だから迎えに行くんだ。当然だろ。俺はあの子の親なんだから」


 滅茶苦茶な理論だった。何一つ根拠のないただの妄想だ。それでも目の前の男はそれを信じて、ここにいない彼の息子に本気で会おうとしている。完全に狂ってしまっていた。

 狂乱の双眸がぎゅるりと回り、ジェスターの背後にいるルイーズへと粘着質な視線を向ける。


「俺はあの子を迎えに行くための力が欲しいんだ。彼女があの子をあそこに送り込んだんだ。それなら、俺は彼女の力が欲しい。だからどけ、少年」


 男の応冠が七色の光を放つ。それは不気味に蠢いて、閃光が不規則に瞬いていた。


「このために何度も何度も応珠をいじったんだ。並みのハイアーズに俺は止められない」

「生憎、僕は並みのハイアーズじゃない。彼女には指一本すら触れさせない!」


 狂気の果てに虚構の希望を見出した一人の男。その妄執が、牙を剥く。

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