6 ―喧嘩―
「実はあの日……、応冠の実証実験をしていて事故が起きたんだ。あまり大きな話題になっていない。けれど新聞の隅くらいには載った事実だ」
ロバートが鞄から取り出したクリアファイルを、ルイーズに手渡す。挟まれていたのは七年前の新聞記事だった。紙面トップの見出しには華々しい文字が躍っている。
『冠の奇跡。意識不明だった少年が応冠によって歩行可能に。導入からわずか一年で』
違う。これではない。その隣、小さな記事が目に留まる。内容は簡素なものだった。
『子供を対象とした応冠の実証実験、一時中断へ。再開は半年後か』
『技術的トラブルにより看過できない事象が起きたため、解決までは実験を中断する』
『子供である被験者の身元特定防止のため、実験及びトラブルの詳細は公表できない』
これ、なのだろうか。実証実験? 技術的トラブル? 足りない。情報が少な過ぎる。
「いつか、こんな日が来るだろうとは思っていたんだ。だからこの記事は捨てられなかった」
教会で懺悔でもするように、微かに震える声でロバートがゆっくりと話し始める。
「曖昧な内容だろう。当然だ。現場にいた私たちや研究者たちにも、何が起こったか分からなかったんだ。そんなに危険な研究じゃないはずだった。なのに、ルーを含めた子供たち、実験の参加者全員が突然倒れたんだ。私たちや他の親たちは皆パニックだった。声を掛けても身体をゆすっても、我が子が反応しない。そんな状態が数分間続いたんだ。永遠にも等しい地獄のような時間だった。でもその後、ルーが意識を取り戻した。何か怖い思いをしたんだろう。会話もできないくらい号泣していた。私たちも悲しかった。抱き締めることしかできないのが、もどかしかった。ルーを泣かせた訳の分からない状況を恨んだ。でも、嬉しくもあったんだ」
両親の手が伸びて、ルイーズの手に重なる。母ヘレナが愛おしむように話を引き継ぐ。
「だって、ルーだけだったから。あの場で意識を取り戻したのは」
愕然とした。実験中の事故。参加者のほぼ全員が意識不明。あまりに大きな衝撃は、いっそ現実味が感じられなかった。残酷過ぎる事実を心が許容できていない。
「……他の皆は、どうなったの? もしかして」
「それは違う。ルー以外の子供たちも後日、病院で意識を取り戻したそうだ。でも応冠に対して酷く怯えていて、発狂する子もいたらしい。だから皆、手術で応冠を摘出したと聞いている」
「本当に? 本当に全員無事なの?」
娘の追及に両親が顔を見合わせる。答えたのは、ヘレナだった。
「それは私たちにも分からないの。特に仲の良かった他の参加者の親から聞いただけだから。その人も事故のことを思い出したくないって理由で、もう何年も連絡を取っていないわ」
あの日、きっと皆は辛い目に遭って、そのせいで苦しんでいた。なのに私は、彼らの事情も、ましてやあの日の記憶も全部知らないまま、平穏を過ごしていた。過ごしてしまっていた。
ふつふつと良くない感情が湧いてくる。毒された思考が黒く染まってゆく。
「なんで……。なんで教えてくれなかったの。私、こんなことがあったなんて知らなかった。なんで黙っていたの? ……なんで、嘘をついたの?」
母が顔を覆う。父は泣きながらも目を逸らさなかった。娘の言葉を真っ向から受け止める。
「そうだ。私たちはルーに嘘をついた。だって、あんな出来事、無かったことにしたかった。あんな、ルーが泣き喚くような辛くて悲しい経験なんて無い方が良いに決まっている。だからあの時、ルーが事故の記憶を忘れていることが分かったあの瞬間。私たちは決めたんだ。事故のことはルーに黙っておこうって。私たちがルーを守るんだって」
「そんな……。酷いよ。皆苦しんでたのに、私だけ知らないままでいたなんて……」
「それでいいんだよ、ルー。私たちはただ、ルーに忘れたままでいて欲しかった。ルーには、ルーにだけは幸せでいて欲しかった。ただそれだけだったんだ。だってそれが、私たちの幸せでもあるんだから」
その言葉は本心なのだろう。でも、ふと考えずにはいられない。
果たして両親にとって、これまでの日々は本当に幸せだったのだろうか? 一人だけ仮初の安寧を享受する娘を前に、あの事故の事実を隠しながら、当時の記憶を娘が思い出してしまう恐怖に怯えて過ごしてきた、これまでの日々は。
「そんなの……、そんなの、パパとママの勝手だよ。私だってちゃんと向き合いたかった」
「ルー。私たちは貴方のためを思って」
顔を上げた母の、泣き腫らして真っ赤になった両の眼が、全てを物語っているように見えた。
「私だって! 私だって、知りたかった。パパとママがずっと隠しながら抱えていたものを、私だって背負いたかった。それなのにパパもママも、私が弱いって決めつけて、勝手に私だけ除け者にして。私だって、大きくなって色んな経験をした。だから、あの時よりも強くなった。なのに、それなのに……。もう知らない。パパなんて、ママなんて、大っ嫌い!!!」
激情に任せて駆け出して、奥の部屋へと閉じこもった。今はただ、やり場のない感情をどうにかしたかった。これ以上余計なことを口走ってしまう前に、一人になりたかった。
「ルー、待つんだ! ……嫌われてしまったな」
「ロブ、ごめんなさい。貴方にばかりしゃべらせちゃった。辛いのは、お互い同じなのに」
娘を呼び止めようと立ち上がったロバートの肩を、同じく立ち上がっていたヘレナが抱く。
「良いんだ、レナ。これはきっと報いなんだ」
二人して、よろよろと座り直して、固く閉じられた奥の部屋の扉を見詰める。
「あの子のためだと思っていたが、私たちは失念していた。事実を知ったあの子が悲しむことを。私はただ、忘れたままでいて欲しかったんだ。でもそれは私が勝手にあの子に願っていたことで、結局は自分自身のための行動だった。私は……、親失格だ」
「そんなことないわ。今はあの子も動揺してるだけ。しばらくそっとしておいてあげましょう。あの子にだって気持ちの整理が必要だから。大丈夫。私たちの子よ。きっと、乗り越えられる。それに、私たちも謝罪の言葉を考えないと。ちゃんと後で話して仲直りをしましょう」
たった一度の喧嘩で家族の絆は壊れない。娘を愛おしく思う気持ちは、何一つ変わらない。
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