10 ―救出―

「はっ?」


 破局。眩い煌めきと共にミーゼの応冠が激しく脈動した。

 彼女の纏う紋様から焔が迸り、魔応円サークルから噴き上がる灼炎が勢いを増す。

 まるで地獄の門が開いたみたいだった。唸りをあげる極大の紅炎に呑まれて、目の前の彼女の輪郭が崩れ始める。


「駄目だ! 駄目だ駄目だ駄目だ!」


 思わず彼女を抱きしめていた。散ってしまわないように。消えてしまわないように。ミーゼの焔に触れた肌が、骨が、焼け焦げる感覚。こちらの身体感覚を容易に歪ませる、局所的だが致命的なクオリアへの干渉。今のクライドには耐えるので精一杯だった。

 それでも離さない。絶対に助ける。ただただ無我夢中で応冠に意志を込める。


「こんなところで、……こんな中途半端なところで、終わらせてたまるかよぉぉぉぉぉぉ」


 咆哮。頭の奥が痛む錯覚と共に、クライドの応冠が輝き始める。歪なそれは、渦巻くように激しく波打って、クライドとミーゼ、重なる二人を中心とした青の魔応円サークルが展開された。


「思い出せミーゼ! これがお前だ。俺が今、胸に抱えている存在がお前なんだ。伝わるだろ。俺が苦しいのも痛いのも、全部お前が与えているからだ。お前は確かにここにいる。だから、大丈夫だ。お前なら戻ってこれる! 戻ってこい! なあ。ミーゼ!」


 それは幾重もの波紋となって、赤の業炎を覆い尽くす。

 地獄の門が、今、閉じる。

 鎮火。災厄の如き光炎と共に、ミーゼの体を蝕んでいた紋様もいつの間にか消えていた。

 最後の火の粉が花びらみたいに夜空を舞って、静寂と暗黒が再び世界を満たす。


「……」


 後は祈るしかない。先程クライドが無意識に行ったのは、魔応円サークルによる感覚の共有、その応用だった。クライドが感じたミーゼの存在、それは全て魔応円サークルを介してミーゼ本人へと伝わる。

 だから、やがて変化が起きる。紫の髪留めが、微かに揺れる気配。


「………ん」


 凝結。今まさに肉体から昇華せんとしていた意識が、再び本来の形を取り戻す。


「……クライド、苦しい。それに……ちょっと恥ずかしい」

「っ……ミーゼ! っと、悪い」


 ミーゼの声で我に帰ったクライドは、安堵もそこそこに抱擁を解く。


「良かった。もう駄目かと思ったから……本当に良かった。調子はどうだ? 何ともないか?」

「うん。大丈夫そう。かえって調子が良いくらい」


 端から見る彼女の姿は元通りで、直前までの変貌は影も形もない。唯一つの残滓を除いて。


「お前、その応冠」

「え? 嘘、私って何か変?」


 ミーゼが自分の手で応冠に触れて確かめる。そんな彼女にクライドは見たままを告げた。


「いや、変っていうか……猫みたいだなって」


 ミーゼの頭上、咲き誇る紅蓮の大輪が、以前とは少し形を変えていた。応冠を構成する六枚の花弁。その中でも前方の左右に配置された二枚が、他よりも肥大化していた。

 つまり、猫の耳のような三角が二つ、ぴょこんと飛び出ていた。


「わっ、ほんとだ! ……まあ、これはこれで可愛いから良しとするわ」

「一応明日、ベイドマン先生に診てもらうか? 治るかもしれないぞ」

「えー、やだ。せっかく〈ルーツ〉で手に入れたんだもの。私はこのままがいいな」


 おどけるようなミーゼを見かねて、ついクライドは語気を強める。


「お前な。ついさっきまで本当に大変だったんだからな。もし、俺がいなかったらお前は」


 言葉は最後まで続かなかった。ぽんっと、胸に軽い衝撃があって、クライドは思わずドキッとする。衝撃の発端、飛び付いてきたミーゼの声は少し震えていて。


「ありがとう、クライド。……本当に、ありが……とう」

「なっ!? ったく、お前なぁ……。とにかく、無事で良かった」


 あんな経験、怖いに決まっている。抱えきれないに決まっている。それで当然なのだ。

 でも、素直じゃない少女の精一杯の誤魔化しに免じて、クライドは気付かないふりをした。

 しばらくこうしてやりたかったが、ふとクライドは視界の端で何かの気配を捉える。

 見つけたのは、通りを横切る小さな人影。


「あー悪い、ミーゼ」

「うん、分かってる。そろそろ帰るんでしょ」

「違う。子供だ。さっき、子供があっちの方へ走ってた」


 その言葉に驚いたミーゼが、顔を上げて辺りを見回す。


「え、なんでこんなところに。偶然迷い込んだのかしら? というか、あっちには確か」

「考えるのは後だ。とにかく保護しよう。こんな危険な所、早く出た方が良い」


 急いで子供が駆けて行った方へ向かう。その先に見えてきたのは、大きな広場だった。

 その中央に鎮座するのは〈戴冠地球クラウングローブ〉。そして、そのちょうど真上。クライドたちが思いっきり見上げた夜空の奥には、スカイセプターの先端がぼんやりと見えていた。


「やっぱり! あの塔は〈戴冠地球クラウングローブ〉を示してたのね。でもこれってどういう」

「静かに。伏せろ!」


 クライドがミーゼの肩を押さえて慌ててしゃがむ。

 生垣に身を隠しながら広場の方を覗くクライド。ミーゼは困惑しながらも彼に倣った。


「もう。急にどうしたの? 一体何が……ちょっと、あれって……」

「俺も訳が分からない。なんであいつらが? しかもこんな所で」


 二人の視線の先。〈戴冠地球クラウングローブ〉の傍には、三人の影があった。

 他よりも一際背の高い影は一目で分かる。ルイーズだ。

 そして、彼女が向かい合っている二人の内、一人は白のワンピースを着た幼女だった。


「あの子が、さっきあなたが見た子なのよね?」

「ああ。だからこそ混乱してる」


 問題なのは、幼女がしがみ付いているもう一人の方だ。自然と、胸の奥の恐怖がぶり返す。

 忘れるはずがない。黒のローブを頭から被った、その者の名は――。


「なんでジェスターの野郎が、ルイーズと一緒にいるんだよ。そもそもルイーズだって、あいつとは何もなかったって言ってたのに……嘘だった、のか?」


 二人がどういう関係なのか。ここで一体何をしているのか。疑問は尽きない。

 もう、この場で問い質すしかない。そう思ってクライドが立ち上がろうとした、矢先。


「……クライド。ちょっとまずいかも」


 悪寒が走った。ゆっくりと振り返る。二人の背後、黒衣の少年がこちらを見下ろしていた。その右手はまるで銃口のように、こちらへと向けられていて。

 視線だけ広場に戻すと、確かにジェスターはルイーズと話している。つまり……。


「はっ。俺たちの相手は代応者エンジェントで十分、ってことかよ。くそっ。なめやがって」


 それほどの力量差があることを、まざまざと見せつけられる。人数はこちらが多いものの、さっきの出来事で二人共疲弊し切っている。勝てない。となると、残る手は一つしかない。


「ミーゼ、逃げるぞ」

「でも、ルイーズがまだ」

「どうやら、ただの話し合いみたいだ。多分、あの子もルイーズも大丈夫なはず。むしろ、今は俺たちの方が限界だ。明日、直接本人に聞こう」

「……そうね。悔しいけど、私も無茶できるほど余裕じゃないわ」


 不気味な寒気と共に体が一気に重くなる。すなわち、クオリアへの干渉。今日だけで何度も受けた、けれど全く慣れない精神的不快。もう猶予は残されていない。


「ちゃんと休めよ、ミーゼ」

「ええ。あなたもね」


 手短に言葉を交わして。、クライドたちは〈ルーツ〉を離脱した。完敗だった。

 怒涛の連続だった学園生活初日がようやく終わる。大きな禍根を残したまま。

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