第二章 汝自身を知れ Think and Sink

1 ―亀裂―

 レバーを全開。お湯の勢いも気にせずにシャワーを頭からかぶる。

 全て洗い流したい気分だった。汗だけではない。あの時味わった得体のしれない恐怖、その経験丸ごとを。

 ふと、去年の終わり、無理やり言い寄ってきた上級生の応冠を打ち砕いた時の記憶が頭をよぎる。あの時も怖かった。他者の応冠すらも破壊する、そんな自身に宿る強大な力が怖いのだと、そう思っていた。でもどうやらそれは間違いだった。だって今日。あの時、私は――。

 最後の試練、その終盤。クライドの腕が、その形が、一瞬大きく歪んで。


「……ギ……ブアッ」


 その変容を目の当たりにした瞬間だった。それが楔のように記憶の蓋に打ち込まれて。

 亀裂が、入った。

 溢れ出したのは、恐怖だ。それは大きくて、何故か懐かしさを感じた。そして気付く。自分が本当は何を恐れていたのかを。嫌だ。これに呑まれるのは絶対に、嫌だ。

 だから思わず力を解放した。全力で、拒絶の力を。

 咄嗟に魔応円サークルを小さくする。が、抑えきれない。


「…………っ……げて」


 ああ、駄目だ。気付くと、いつの間にか座り込んでしまっていた。


「……逃げて、皆……。っ……お願い……逃げ……て」


 必死に叫んだ声は小さくて。迫る危機を伝えるにはあまりにも弱々しかった。

 このままだと全員巻き込まれてしまう。そんな破滅的な予感だけがあって。でも、


「       」


 声が、聞こえた気がした。


「ようこそ〈ルーツ〉へ――」


 誰かが何かを叫んでいた。けれど、それを理解する余裕なんて無くて。もう声は出せなくて。それでも祈らずにはいられない。

 お願い皆、早く逃げて。

 私が全部壊してしまう、その前に。


 ――。――――。―――――。


 必死に抑えて。周りのことなんて気にしていられなくて。時間だけが過ぎて。

 気が付くと、周囲は静かになっていた。人の気配がすっかり無くなった体育館。

 良かった。もう誰も巻き込まずに済む。そんな安堵の中。

 ポンッと、肩に誰かの手が触れた。まずい。まだ人が残っていた。


「もう大丈夫だよ……えっと、ルイーズ。ごめん。僕がもっと早く来ていれば良かった」


 違う。大丈夫じゃない。ここは危険だ。だって、私がいるのだから。


「……っ、逃げて……、貴方…も」

「ああ。君の力のことだよね。それなら問題ない。僕はね、大丈夫なんだ」


 まるで全て知っているようなその言葉。


「……えっ?」


 驚いて顔を上げる。

 こちらを覗いていたのは黒衣の少年だった。

 刹那。ずっと張りつめていた緊張が、解ける。


「あ……」


 力が、爆ぜる。足下の魔応円サークルが、瞬間的に広がって――。

 体育館を轟音と暴風が埋めつくした。砕け散る窓ガラスの絶叫が、何度も何度もこだまする。

 その激しい奔流のただ中で、目の前の少年だけが平然と立っていた。纏うローブが微かに揺れる、たったそれだけの些細な変化。


「ほらね」


 黒衣で目元まで覆われた彼の顔。その中で唯一見える口が笑っていた。

 どうして貴方は無事なのか。どうして貴方は私を知っているのか。どうして貴方は――。

 膨らむ疑問が口を衝きそうになって、


「!」


 言葉になる直前に止められた。まるで子供に沈黙を促すように、突き立てた人差し指を口元にあてて少年が囁く。


「落ち着いて……ルイーズ。ここは〈ルーツ〉。君が知っている〈シード〉でも現実でもないんだ。だから今は、元の世界に戻ることが最優先だよ。さあ、帰ろう」


 少年が遠慮がちに伸ばした手を取って、ルイーズは立ち上がる。まだ状況は飲み込めない。


「ちょっと待って。私は貴方に」

「色々聞きたいことがあるんでしょう? 大丈夫、分かってる。今日の夜八時、またここにおいで。僕なら君の力になれる。だから今は一旦お帰り。応珠の電源を切ればすぐ戻れるから」


 静かに諭す少年の背丈はルイーズよりも小さかった。それでもとても頼もしく見えて、ルイーズはつい不安を口にする。


「でも、ここに来たらまた力が暴走しちゃう。さっきみたいに」

「あれは状況が悪かっただけだよ。〈ルーツ〉の影響じゃない。その証拠に今は平気でしょう。君は〈ルーツ〉でも問題なく活動できる。だから大丈夫。安心して」


 目深に被ったフードのせいで少年の表情は確認できない。それでもその口調は、微笑みかけてくれている気がした。不思議と何故か安心できる。


「そう……。分かった。それじゃ、また来るから」


 首に手を当て、制服の襟元に隠れた応珠に触れる。〈ルーツ〉から離脱する刹那、ルイーズはどうしても気になって一つだけ尋ねてみる。


「……貴方は一体、何者なの?」

「僕? 僕は……うーん、そうだな。ジェスターって呼んでよ。大丈夫。僕は君の味方だから」


 目の前で手を振る彼はただただ優しくて、悪意なんて微塵も感じなくて。それなのに、現実へと意識が引き戻される感覚の中、ルイーズは少年のことがますます分からなくなった。

 だって最後、彼が口にした名前。宮廷道化師ジェスター

 それは古い時代、王侯貴族に雇われ、芸によって彼らを楽しませた道化師の職名。

 お姫様と宮廷道化師。こちらを意識して名乗ったことは明らかで、つまり、偽名だった――。

 シャワーを止めてバスルームを出る。体に残った雫を拭って手早く着替えを済ませた。

 彼は怪しい。きっと何かを隠している。それでも私は、貴方に聞きたいことが山ほどある。

 だから今夜、私はもう一度〈ルーツ〉に行かなければならない。

 決意を胸に、制服へ腕を通して部屋を出た。今はただ自分にできることをするだけだ。

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