9  ―混沌―

 世界の崩壊。そう形容するしかない劇的な変化。その先にあったのは〈シード〉とは異なるもう一つの世界〈ルーツ〉だった。あまりいい思い出はない。

 だって俺はあの時――。


「……っ」


 クライドは咄嗟に首を振って過去の記憶に蓋をした。強引に意識を切り替える。落ち着け。あの時、俺は変わったんだ。もう無力じゃない。それよりも今は、現状に向き合う時だ。

 冷静に考えろ。そもそも〈シード〉と違って、〈ルーツ〉は現実世界から観測できないはずだ。その本質は、遊応体ホロボディでのみエントリーが可能になる、純粋な感覚世界クオリバース。なのにそれが今、目の前に広がっているということは――。


「引きずり込まれたのか。現実世界から。俺たちの精神だけ……」


 クライドが思わず周囲を見渡すと、多くの学生たちが困惑の表情を浮かべている。これほどの数が同時に〈ルーツ〉に迷い込むなど前代未聞だ。事故というよりも災害と言っていい。

 ふと、足下の魔応円サークルが消えていることに気付く。それが、意味するのは――。


「……ルイーズ!」


 正面、ぺたりと座りこんだルイーズを見つけてクライドは思わず声をかける。両手で頭を押さえて俯くその姿からは、先程までの威勢は全く感じられない。他の学生たちも彼女の異変に気付いたようで、動揺が全員に伝播する。

 心なしか彼女の手が震えているように見えて。だから思わず彼女の下へ駆け寄ろうとして。

 トンッと、足音が一つ。


「ああ……、一足遅かったか」

「っ!」


 転瞬、何者かがルイーズの隣に立っていた。

 それは小柄な人影だった。黒いローブを目深に被っているため、その顔も応冠も見えない。

 しかし、声色から察するに男、それも同年代の少年だろうと検討がついた。


「なっ……」「え!」「は?」


 周囲の学生たちも困惑の声を上げる。当然だ。

 彼がどうやって現れたのか。誰にも分からなかったのだ。

 だから、クライドも含めて全員が一瞬固まってしまう。思考も運動も、何もかも全て。

 そんな刹那の停滞に、


「…………っ……げて」


 ぽつりと、うわ言のように弱々しい声が挿し込まれる。それがルイーズから発せられたものだと気付いて、誰もが耳を疑った。普段の彼女を知る者ほど、その言葉の理解が遅れる。


「……逃げて、皆……。っ……お願い……逃げ……て」


 弱りきった彼女の様子は深刻で、だからこそ、繰り返される言葉が示す意味は明白だ。

 彼女の言葉を裏付けるように事態が動く。悪い方へと。


「ようこそ〈ルーツ〉へ。優秀な学生諸君」


 黒衣の少年が大袈裟に腕を広げ、次いでお辞儀をしてみせる。その言動に嫌な予感がした。


「そして、ただ受け入れろ。己の無力さを!」


 雄叫びのように強まる語気。それは明確な害意の発露であった。

 身の危険を感じる一方で、クライドは少年の言葉を聞き逃さなかった。

 やはりここは〈ルーツ〉なのだ。だとしたら、『ようこそ』と言ったあいつは一体……。

 そんなことに気を取られたからだろう。


「クライド危ない!」


 ミーゼの叫ぶ声。しまった。反応が遅れた。


「っ!」


 眼前、襲撃者が迫る。その黒いローブから伸びる細い腕が、ぴたりとこちらを捉えて。


「まずは、一人目!」


 応戦しようとした矢先。クライドが肌に感じたのは、急激に強まっていく冷気と重圧だった。この感覚を知っている。脳裏をよぎるのは、つい数分前に味わったばかりの新鮮な恐怖。

 すなわち、魔応円サークルによるクオリアへの干渉だ。

 だが、どういうわけか肝心の魔応円サークルはどこにも見えない。それでも、


「こんなとこで、やられてたまるかよぉぉぉ!」


 思考を後回しにして直感に従う。受け身など気にせず、跳んだ。思いっきり後ろへと。

 直後、ドンッと重たい衝突音が炸裂する。

 同時、左足に衝撃が走って、クライドは背中から床へと倒れた。

 これが決定打だった。学生の一人が絶叫を上げ、現場は一気に混乱へと陥る。




 正体不明の少年がハート寮を急襲する衝撃的な光景。それは他の学生たちも確認していた。


「ええい、次から次に忙しい。一体何なんだあの少年は? 手を貸せアース。迎え撃つぞ!」


 ボキボキと拳を鳴らすゴーウェンを、アスレイスがたしなめる。


「落ち着けゴーウェン。やめておいた方が良いだろうね。あの子のクオリアーツ、あれは相当のレベルだ。ルイーズと互角かそれ以上のね。それに、もっと先に優先するべきことがある」

「何だ?」


 そんな二人の下に、慌てた様子のエステラが長い金髪を翻しながら駆け寄ってきた。


「大変だよ二人とも。ここ、現実世界じゃないよ。さっきまでいたはずの先生たちがいないの」

「ほう。それは重要な情報だ。選定式が始まった時、教員たちは既に応冠を外していた。彼らがいないということは……ここは〈シード〉だな。つまり、俺たちの意識が遊応体ホロボディとなって〈シード〉に引きずりこまれたと考えるべきだ」


 ゴーウェンの推測は一見的を射ているようだったが、エステラは不服そうに否定する。


「違うよ。〈シード〉じゃないもん。外に逃げようとした学生から聞いたんだけど、景色が違うんだって。建物が崩れてたり傾いていたりしてて、みんな出るべきか迷ってるの。いつも空に浮いてるスカイセプターも見当たらないみたいだし。ねぇ二人とも、ここってもしかして」

「〈ルーツ〉だろうね。私だけでなくエステラもそう思ったということは、ほぼ確定だ。そして〈ルーツ〉が噂通りの世界なら、応冠に異常が出る前に離脱した方が良い。現実へ戻ればあの男も手を出せないだろう。奴を含め、これは全て〈ルーツ〉で起きていることなのだから」

「ほう。そういうことなら手分けして生徒たちに伝えるべきだ。全員助けるぞ、必ずな」


 寮生代表たちは互いに頷き合って行動を開始した。




「……っ、くそっ」


 咄嗟のこととは言え、受け身を取れなかったのは失敗だ。衝撃で思うように体が動かない。

 何とか上体を起こして周囲を窺うと、逃げ惑う生徒たちが見えた。例の少年は他の学生へと標的を移したようだ。

 と、人混みからリックが飛び出すのが見えた。ルイーズを助けにいくつもりだ。が、そこに少年が飛び掛かる。奴が手を伸ばした瞬間、衝撃音と共にリックは倒れた。彼の応冠が大きく揺らいで体が霧散する。強い衝撃で意識が飛んだようだ。やはり、奴は強い。

 ミーゼの姿が見えないのも心配だ。まさか、さっきのリックみたいに……、いやよそう。気にしたところで今、俺がするべきことは変わらない。

 立ち上がろうとして、痛みに顔を顰める。見ると左足が脛の辺りでぐにゃりと曲がっていた。


「な、嘘だろ。……あの時か」


 骨折ではないのだろう。ここは現実とは違う。感覚世界クオリバース〈ルーツ〉なのだから。

  分かったことを整理する。おそらく異変の直前まで、この体育館にいた生徒は皆、応冠を被っていたはずだ。つまり、〈シード〉にエントリーしていたわけだ。その直後、世界が悲鳴を上げて〈ルーツ〉が開いた時、生徒たちの精神はどういう訳か〈ルーツ〉へと引き込まれ、強制的に〈遊応体ホロボディ〉の状態になったのだろう。当然〈ルーツ〉が開いた原因も不明。現実世界の自分たちの体がどうなっているかも心配だが、今は現状をどうにかするのが先だ。

 黒衣の少年の目的も不明だが、こちらに危害を加えた時点で友好的ではないのは明らかだ。最悪、奴が皆を〈ルーツ〉へと引き込んだ可能性もある。あいつは強い。異常なほどに。

 だが、状況は詰んでいない。ここが〈ルーツ〉であるならば抜け出すのは簡単だからだ。

 手っ取り早いのは、応珠の電源を切ることだ。応珠は、使用者が自分の意志で操作する場合に限って、安全に感覚世界クオリバースから出られるようになっている。一方で、外部から応珠を無理やり外す等の行為は基本的に推奨されない。一時的ではあるが、使用者の意識に不調をきたすことが知られているからだ。

 よって方針は決まった。


「早く皆に……、ここが〈ルーツ〉だって知らせないと」


 立ち上がる。歪んだはずの左足は元に戻っていた。当然だ。ここは感覚世界クオリバース。一時的に他者のクオリアによって歪められたとしても、自分の身体感覚であれば簡単に修復できる。


「聞いてくれ! ここは〈ルーツ〉だ。〈シード〉でも現実でもない。皆、早く脱出しろ!」


 力の限り叫ぶ。が、混沌を極めるこの場で声が届いたのは近くの生徒たちだけだった。


「応珠の電源を切るんだ。それで戻れる。急げ」


 きょとんとこちらを向く彼らに言葉を重ねると、やっと理解してくれた。

 これで三人が離脱。駄目だ。遅過ぎる。


「くそ、これじゃあ埒が明かな」

「皆聞けー! ここは〈ルーツ〉だ。〈シード〉ではない。全員ここから脱出しろ! 応珠を切れ! 速やかにだ」

「みんな急いで! あと、他の人にも伝えてあげて! とにかくここは危ないよ!」


 寮生代表たちの声が聞こえた。彼らもここが〈ルーツ〉だと気付いたようだ。そのお陰か、生徒たちも幾分か落ち着きを取り戻し、続々と脱出を始めていく。よし。助かった。


「残るは、ルイーズの救出か」


 彼女の様子はあの時と変わらない。俯いて小刻みに震えるその様子は、何かに怯えているようにも、何かを堪えているようにも見えた。


「問題は……、やっぱりあいつだよな」


 黒衣の少年はルイーズの近くから動かない。が、しきりに周囲を警戒している様子だ。

 奴の強さを鑑みるに、一人で突っ込むのは無謀だろう。


「やあ、クライド君だったかな。君も彼女を助ける気だね?」


 後ろから声がかけられる。振り返ると、赤髪にサングラスのアスレイスが立っていた。


「私も手を貸そう。大丈夫。私には見えているよ。奴の力の正体がね」

「本当か! 一体あれは」

魔応円サークルだよ。ただし、透明のね」


 衝撃だった。にわかには信じがたい。しかし一方でそれだと合点がいくのも確かだった。


「ほう、不可視の魔応円サークルか。これは厄介だ。かなりな」

「それでも、これだけの人数がいれば大丈夫だよ。誰か一人でもルーちゃんに辿り着けたら、きっと何とかなるでしょ!」

「ゴーウェン。それにエステラも」 


 残ったのはクライドたちの四人。他の生徒たちは皆脱出して、体育館は静まり返っていた。


「私が見たところ、奴は干渉力特化だね。魔応円サークル内の相手に高密度のクオリアをぶつけているようだ。直撃すれば間違いなく意識が飛んで〈ルーツ〉から強制退出ってところだろう」

「……結局それって喰らって大丈夫なのか?」


 クライドが当然の懸念を口にすると、太い腕を組んだゴーウェンが何かを思い出した。


「そういえば去年の終わりくらい、ルイーズが似たようなことを起こしていたな。生徒が一人ぶっ倒れたはずだ。確かそいつは一週間ベッドの上だったか? だから奴の攻撃でも死にはしないだろう。おそらくな」

「たとえ少しの間倒れちゃっても、わたしは気にしないよ。絶対ルーちゃんを助ける!」


 エステラの決意に、他の二人も頷く。

 決まりだ。


「お前ら……。なら俺に考えがある。皆で一気にけしかけよう!」

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