プロローグ(後半)

 一つ息を吸う。乾いた唇を再び舐めて、クライドは答える。


「勿論です。〈ルーツ〉でしたっけ。今年の初めに見つかったと聞きました。それに、侵入者の精神を蝕む危険な世界であるとも。まあ……俺が知った時には遅かったんですけど」


 それこそ、クライドがここにいる理由。己の運命が変わる、その切っ掛け。


「君も含めて、被害者たちには大いに同情する。〈ルーツ〉はまさに魔境だよ。狂気を孕んだ過酷な世界だ。事実、ほとんどの者は耐えられなかった」


 そう言いながら、エリアスはテーブルにいくつか資料を広げる。全部診断書のコピーだった。個人情報の部分は黒塗りにされてある。話の流れから察するに、全て被害者、つまり〈ルーツ〉にエントリーした者たちの診断記録なのだろう。そして、そこに記されていたのは――。


 『応冠の変形』。『意識レベルの低下』。『錯乱』。『昏睡』。『せん妄』。『幻聴』。


 絶句する。どの記録を見ても、並んでいるのはおどろおどろしい単語ばかりだ。


「っ……」


 当時のことが頭をよぎって、クライドは咄嗟に目を瞑る。決して他人事とは思えない。自分だって一歩間違えば、彼らと同じ状況に陥っていたかもしれないのだから。


「〈ルーツ〉についての情報は限られている。何故なら、あれは現実世界と隔絶された全く別の世界なのだから。当然、君たちが〈ルーツ〉にエントリーした原因も依然として不明。なにせ、時間も場所もばらばらなのだ。それに件数も十数件に留まっている。運が悪かったとしか言いようがない」


 そう言って、資料に目を落としていたエリアスが顔を上げる。その双眸がクライドを射抜く。


「だが、君に限って言えば、今日の結果次第で、幸運だったといえるかもしれんな」


 同時。エリアスの手元から、さらに一枚の紙が弾かれる。


「なにせ君は、〈ルーツ〉から正気で生還した唯一の少年なのだから」


 テーブル中央に躍り出た報告書。その内容はわざわざ見るまでもない。全て知っている。


 『別世界に行ったと証言する少年、クライド・ウォーパレスについて』

 『応冠に変形はあるものの機能的な悪影響は確認できず』

 『状況と証言内容から〈ルーツ〉にエントリーした可能性が高いと推察される』

 『意識レベルは正常。これは他の事例とは明らかに違う点である』


「正直、実感はないですが……。でも、これがチャンスだってことは理解しています。できることなら、俺だって幸運を掴みたい」


 苦い記憶を抑え込み、クライドは本心を口にする。そう。これはチャンスなのだ。


「無論、我々も君には期待している。なにせ〈ルーツ〉は」

「ちょっと学長! 私はまだ彼の証言には懐疑的です!」


 エリアスの話を遮って、メラニーが強く抗議する。その視線がこちらを向いた。


「だって貴方の冠級ランクって二層冠ダブルでしょう? うちの学生の平均は三層冠トリプル。つまり、貴方より上なの。それなのにどうして貴方が、〈ルーツ〉から生還できるっていうの?」


 応冠は紋様が何層にも重なった構造になっている。その層の数で応冠を分類したのが冠級ランクだ。現在確認されているのは単層冠シングルから五層冠クイントまでで、当初その数字は重要視されていなかった。  

 だが現在、冠級ランクに対するハイアーズの認識は大きく変わっている。というのも――。


「まあまあフレクスナー先生。確かに冠級ランクとハイアーズの能力には相関関係が有ります。ですが、あくまでそれは傾向であって絶対的な指標ではありません。以前聞いた話ですが、他校では単層冠でも優秀な学生だっているらしいですよ」

「両人静粛に。バガン先生の意見が正しい。しかし、フレクスナー先生の懸念も理解できる。もし君の冠級ランクがもっと高ければ、我々は君の生還報告になんら疑念を抱かなかっただろう」

「つまり……、二層冠ダブルの俺が〈ルーツ〉から無事に戻ってこれたことが信じられない、と?」


 クライドの疑問に観念したように、椅子へと身を沈めたエリアスは長く息を吐いた。


「端的に言えばそういうことになる。しかし、君の報告書を執筆したベイドマン医師は高名な研究者だ。彼が事実として報告してきた以上、出鱈目ではないのだろう。だから五月の今になって、もう一度入学試験を行っている。君の証言の真偽を直接見極めるために、ね」

「あの、一つ確認していいですか?」


 空いた距離を詰めるように、クライドが前のめりで正面の男を見据える。


「そもそも〈ルーツ〉は危険な世界なんですよね? 何人も被害者が出ているのに、皆さんが固執するのは何故なんですか? 単純に考えて、恩恵が一つもない」

「恩恵ならあるのだよ。それも非常に大きな恩恵が。いいかね、クライド君。〈ルーツ〉は『可能性の世界』だ。我々の応冠の力を高め、自らの意志をより強く世界に反映させることを可能にする。すなわち、『冠級昇格ランクアップ』だ。これは〈シード〉では叶わない」


 笑みを浮かべたエリアスの言葉を、クライドはにわかには信じられない。


「まさか……。あり得ない。俺以外全員、冠級昇格ランクアップどころか意識障害になったんですよね?」

「当然の反応だな。だがそもそも、君は一つ誤解している」


 クライドの問いにエリアスは頷きながら、右手の人差し指を立ててみせる。


「〈ルーツ〉が発見されたのは今回が初めてではない。あれこそ、最初の感覚世界クオリバースだ。応冠開発者であるジョナサン・ラングール氏が研究過程で偶然発見し、そして、氏自身の手で秘匿された幻の世界、と我々は認識している」

「……っ!」


 勘違いをしていた。その名前の意味は『根っこ』ではない。まさしく『起源』だったのだ。


「その反応、初耳だったかね? 無理もない。これは氏の個人的な記録で言及されていただけなのだから。だがハイアーズの間でも、これを信じている者は多い。無論、私もその一人だ」

「ちょっと待ってください。ラングール博士が昔〈ルーツ〉を発見していたとして、じゃあ誰が冠級昇格ランクアップしたって……いや。そうか、成る程。ラングール博士だったんですね」

「ふむ。察しが良いな。その通り。彼は〈ルーツ〉で初めて自身の応冠を観測し、その形が変化するのを目の当たりにした。そして、この出来事以降、彼はクオリアーツを扱えるようになった。つまり、〈ルーツ〉こそ、ハイアーズにとって唯一の希望の地ということだ」


 ここに至ってようやく、クライドは理解した。〈ルーツ〉は危険な世界であると同時に、冠級昇格ランクアップの場でもあったのだ。

 幸か不幸か、今年になって〈ルーツ〉が再発見されたものの、迷い込んだハイアーズが次々に意識障害に陥り、その危険性が明らかになり始めた。だからハイアーズは、その世界へ安全にエントリーする方法を求めていた。

 ちょうどその矢先、〈ルーツ〉から安全に帰還した少年が現れた。もしこれが真実ならば、それは全ハイアーズにとって希望に等しい存在のはずだ。そう、真実ならば――。


「成る程。だから皆さんは、俺が〈ルーツ〉に行ったという確固たる証拠が欲しいんですね?」

「ようやく理解が追いついたかね。その通りだ。当学園の入学条件は唯一つ。『優秀なハイアーズであること』だ。〈ルーツ〉から無事生還したという事実は、まさにそれに値する」


 しかし、その言葉とは裏腹に、エリアスの表情は晴れない。


「だが、タイミングが悪かった。本来は冠級昇格ランクアップの有無で判断できるはずだったのだ。しかし当時、君はハイアーズになって一週間しか経っていなかった」

「確か……、導入した応冠は形状が安定するまでに二週間かかるんでしたっけ? 俺を診察したベイドマン先生もどう判断していいのか頭を抱えていました」

「そういうことだ。〈ルーツ〉から帰還後に君の応冠で確認された形状変化。それが冠級昇格ランクアップの証なのか、それとも単に安定化した結果なのか、誰も判断できない」


 面倒なことになった。だがむしろ、これはいい流れかもしれない。


「では、改めて当時の状況を詳しく聞かせてもらおうか。証言記録によると、君は〈ルーツ〉を『色褪せた世界だった』と表現しているが、それは一体どのような」

「あの!」


 だから、勝負に出ることにした。


「まわりくどいので、もっとシンプルにいきませんか?」


 ハイアーズになってからの二か月間、ずっと状況に振り回されてばかりだった。

 でも今度は、こちらから仕掛ける番だ。自分の意志で、このチャンスを掴むために。


「ほう。面白い。聞こうか」


 困惑する見届け人を尻目に、エリアスは興味を示してくれた。それなら後は突き進むだけだ。


「ラングール博士は〈ルーツ〉に行って、そこで冠級昇格ランクアップしたお陰で、クオリアーツを扱えるようになったんですよね? じゃあ俺が今、誰も知らないクオリアーツを披露できれば、それは〈ルーツ〉へ行ったという証拠になりませんか?」


 感心したようにエリアスが目を細める。


「ふむ。いい提案だ。乗ろうじゃないか。事実の証明にそれ以上明快なものはないのだから。しかし、君も策士だな。報告書にそんなことは何も書かれていなかったはずだが」

「流石に買い被り過ぎです。最近になって、やっと上手く扱えるようなっただけです」


 ゴホンと、エリアスが咳払いをする。明確に部屋の空気が変わる。

 クライドは目を閉じて、意識を集中させる。


「それでは皆さん、ご覧ください。これが〈ルーツ〉で手に入れた俺の戦利品です」


 次の瞬間、クライドの応冠が輝きを増す。


「ほう」「そんな……」「おお、これが!」


 エリアスだけでなく見届け人たちもが驚く気配。

 しかし、彼らが驚いたのはクライドの応冠の輝きではない。これはクオリアーツ使用時に見られる一般的な現象だ。

 だから、その注目はクライドの右手、正確には手の平に現れた『とある物』であった。


「一体……どういう原理なの?」「素晴らしい! やはり〈ルーツ〉は存在した!」


 騒然とする見届け人、そして静かに瞠目するエリアスに、クライドは確かな手応えを感じる。


「決まりだ。認めよう。〈ルーツ〉へのエントリーは事実であると。両人も構いませんね?」


 見届け人が互いに頷き合う。それを確認したエリアスが笑顔を浮かべこちらを向いた。


「おめでとう! クライド君。我々には君が必要だ。当学園〈エクス=リリウム〉は特待生として君の入学を歓迎しよう」


 来た。望んでいた言葉だ。


「ありがとうございます! よろしくお願いします」


 エリアスから差し伸べられた手を、力いっぱい両手で握り返す。〈遊応体ホロボディ〉を通して伝わる感触は幻でも、この事実は紛れもない現実だ。

 これが、クライドにとってチャンスを掴んだ瞬間だった。



 諸々の話し合いを終えたクライドは、せっかくだからと建物を出て周囲を散策することにした。その内心は新たに始まる学園生活への期待でいっぱいだ。

 午前の授業中なのか、外を出歩く学生はいない。

 ふと天を仰ぎ、目に入った光景に息を呑む。やはりスマートフォンの画面越しと実際に見るのとでは全く違う。正確にはここは〈シード〉なのだが、ハイアーズにとっては些細なことだ。

「ここから始めるんだ。今度こそ俺は必ず――」

 鼓動の高鳴りに身を任せ、まるで挑むように、晴れ渡る空へ向かって右の拳を突き出した。

 その先に広がるのは、非現実的とすら思える異様。そして誰もが畏敬の念を抱くその威容。

 蒼穹を突き破り、陽光を切り裂いて、地平に影を落とす。逆しまに聳える規格外の巨塔。

 スカイセプター。

 それは新時代の象徴として、あるいは新世界のランドマークとして、遥か上空より大地の全てを睥睨する。


「特別な存在になってやる‼」

 


 二〇四五年。神経拡張技術〈応冠〉によって世界は一変した。

 それは、誰もが天才になれる世界。

 それは、誰もがアスリートになれる世界。

 それは、誰もがマルチリンガルになれる世界。

 そして、誰もがなりたい自分になれる世界。

 応冠導入者は〈ハイアーズ〉と呼ばれ、その頭上には特殊な紋様が浮かび上がる。

 それは意志の具現であり、己に宿る力の証明。


 ここに『冠の時代』が到来した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る