2 ープロローグ(前半)ー

 遡ること四か月前。五月某日。


「それでは本人確認から始めよう。名前と年齢を聞かせてくれるかね?」

「クライド・ウォーパレス。一五歳です」


 とある都市のとある建物。朝の陽光に照らされた応接室は清々しい空気に満ちていた。

 席に着くなり『試験』が始まったことに面食らいつつも、クライドは冷静な口調で応じる。

 大丈夫。上手くやれている。

 そう心の中で自分に言い聞かせながら、相手を見据える。

 大きなテーブルを挟んだ向かい側には、三人の大人が座っていた。


「結構。私はエリアス・ブレンスタイン。この学園の学長をしている」


 その真ん中。ちょうどクライドの真正面。最初の質問をしてきたエリアスが、男らしいバリトンの声で答える。学長にしてはまだ若い、せいぜい四十代前半といった容貌に余裕そうな笑みを浮かべ、唯一笑っていないその目が、じっとこちらを見詰めていた。

 隙は見せられないなと、クライドは改めて気を引き締める。

 ……のだが、どうにも集中できない。そのヘーゼル色の瞳は自然と上を向いてしまう。

 視線の先。エリアスの頭上。その銀髪に何かが載っていた。臙脂えんじ色の上質な輝きを伴って。

 頭頂部の周囲をぐるりと囲う円環。その上部から放射状に伸びたギザギザの突起。

 その独特な形状はあまりにも有名で、誰もが知っている。

 すなわち王冠。いや正確には、


「ん? 私の応冠が気になるかね、クライド君?」


 〈応冠〉。

 それは物質としての実体を持たない仮想紋様であり、王冠のような形状で頭上に顕現する。

 エリアスだけではない。両隣の二人の頭上にも、色や形は違えど、光の冠が浮かんでいた。


「……いえ。あまり他人の応冠を見慣れていないので。つい見入ってしまいました」

「そうか。君は応冠を導入してからまだ二ヶ月だったね」


 やはり不思議な光景だ。けれど別に彼らが風変わりなわけではない。もはや応冠は現代人の必需品と言ってもいい。そして、だからこそ、クライドにとっても他人事ではない。


「だが、それはお互い様だ。君の応冠もなかなか珍しい形状をしているのだから。少なくとも、この学園の生徒の誰とも違う。私が保証しよう。自信を持ち給え」

「それは……、恐縮です」


 そう。クライドも応冠を被っている。普段と違って整えられたスタンダードブラウンの髪の上。群青色の冠が浮かんでいた。ぐにゃりと歪んだ円環と、その表面を覆う無数の小さな棘。まるで荊を纏う古代の遺物のような、一般的な応冠とは少々異なる奇抜な形だ。

 余程珍しいのだろう。エリアス同様、その両隣に座る男女もこちらの応冠に釘付けになる。


「ほほう。確かに学長のおっしゃる通り、不思議な応冠だ」

「へぇ。それじゃあ、君が例の『生還者』ってわけね」


 彼らの熱い視線を受けて、クライドは内心で大きく頷く。反応は上々。いい流れだ。

 思い出されるのは二か月前、自身の運命が動く切っ掛けとなった『とある出来事』だ。

 あの時、俺は変わった。特別な存在になった。学園から声をかけられたのだって、それが理由だ。だからこれは、チャンスなのだ。今日、俺は必ずこのチャンスを掴んで――。


「んー。でも正直、ちょっと期待外れね。君、はっきり言って凡庸よ」


 おや? おかしい。流れが変わった。こんな反応は想定していない。

 だって彼らは熱心に見詰めて……、いや、成る程。こちらを品定めしていたというわけか。

 またやってしまった。昔からそうなのだ。どうして俺は、肝心な時に限って、物事を都合良く考えてしまうのだろう。あの日変わったはずなのに、この悪癖は残ったままだ。

 と、咳払いが一つ。


「フレクスナー先生、少々言葉が過ぎますな。それに自己紹介がまだのようですが」


 向かって右側、はっきりと不満を零した妙齢の女性を、すかさず隣のエリアスがたしなめる。


「あら失礼。メラニー・フレクスナーよ。応冠の実習授業を担当しているわ」


 メラニーは渋々答えるが、その口調は依然として厳しいままだ。その長い黒髪には穏やかオリーブ色の応冠が輝いていて、本人のきつい態度とはちぐはぐな印象だった。


「いやはや不快な思いをさせてしまって申し訳ない。僕はミゲル・バガン。高等部主任です」


 場の空気が悪くなるのを察してか、向かって左手側の中年男性がフォローを入れる。


「ただこれだけは言わせて下さい。僕らは皆、君にとても期待しているんですよ」


 淡い紫の応冠を戴くミゲルが柔和な笑みを向けてきたが、クライドの心境は複雑だ。

 もっと敬意や羨望の眼差しを向けられると思っていた。だが改めて向き合うと、彼らの瞳に宿っているのは好奇心のようだ。珍獣にでもなった気分で、クライドはつい問うてしまう。


「あの……、これって俺の入学試験で間違いないですよね?」

「戸惑わせてしまったかな? 無論そうだが、こちらにも少々事情があるのでね。慣れない状況だろうが安心し給え。彼らは単なる見届け人。基本的には君と私、一対一の話し合いだ」


 左右に侍らせた二人を尻目に、エリアスが上品に微笑みかける。が、その眼差しがナイフのように鋭くて、クライドの気は全く休まらない。


「そうだな。少し昔話をしよう。君の理解度、その確認も兼ねてね」


 こちらの表情が硬いのを察してか、エリアスが雑談を始める。


「神経拡張技術〈応冠〉。知っての通り九年前、この新技術によって人類は新たな時代を迎えた。以来、応冠導入者は『ハイアーズ』と呼ばれ、現代社会の様々な分野でその力を存分に発揮している」


 知っている。だからこそ、応冠は社会へ急速に普及し、ハイアーズは既に三億人を超えた。

 身体への侵襲性が高く、費用も高額であるのにも関わらず、だ。

 それだけ人類にとって、幻想の冠は魅力的であったのだ。


「当然の結果ですよね。応冠がハイアーズの思考をサポートしてくれるんですから。俺だってようやく実感してきたところです。以前よりも格段に思考速度が上がったって」

「ふむ。確かにそれもあるが、そんなものは副産物に過ぎん。応冠の真価はもっと別にある」


 こちらを見詰めるエリアスの眼光が一段と鋭くなって、思わず身が竦む。

 知能の向上。それは誰もが抱く願望のはずである。

 その成就ですら霞んでしまうという応冠の神髄。果たして、それは一体――。


「まだ気付かないかね? ちょうど今、君が何食わぬ顔で振るっている力のことだ」


 その指摘に、ふとクライドは我に返る。応接室の硬い椅子の感触に、一瞬だけ自室のベッドの柔らかさが重なった。幻覚ではない。どちらの感覚も紛れもない真実だ。


「ああ……、確かに失念していました」


遊応体ホロボディ〉。

 肉体から精神を解放し、世界を自由に歩く。応冠が可能にする魔法のような力の一端。


「馴染みすぎるというのも良くないですね。実際の俺の体はイギリスにいるはずなのに、つい、こっちが現実だと錯覚してしまいます。半日も時差があるのが嘘みたいだ」


 クライドにとって、今この瞬間受け取っている五感の全てが、現実と同じくらいに生々しい。

 それほど劇的なのだ。この奇妙な体験も。そしてそれを可能にする応冠の力も。


「フレクスナー先生。君から見て、彼の〈遊応体ホロボディ〉の扱いはどうです?」

「まあ悪くないですね。彼の姿はこちらからも鮮明に見えているし、これまでのやり取りにノイズやラグもないわ。ただ学長、この程度のことはうちの学生ならできて当然ですよ」

「なら結構。問題ないのであれば十分だ」


 メラニーの態度は相変わらずだったが、エリアスは気にせずに話を続ける。


「どうだねクライド君。まさに魔法のようだと思わんかね? 無論、〈遊応体ホロボディ〉だけではない。〈万応ビヨンドワーズ〉、〈魔応円サークル〉、そして〈代応者エンジェント〉。クオリアーツと呼ばれるこれらの力は絶大だ。その行使こそ、我々ハイアーズの特権であり、常人では到達できない人類の極致なのだ」


 応冠が与える祝福。それは他の科学技術の追随を許さない。超常の力とも見紛う権能の数々が、戴冠者を人類の更なる高みへと至らせる。ゆえに、『至高者ハイアーズ』。


「確かに素晴らしい力ですが、クオリアーツは万能ではないですよね。現に〈遊応体ホロボディ〉の俺は、ここにある物を持ち上げたり動かしたりすることはできません」


 クオリアーツの恩恵は限定的だ。その性質上、現実世界には一切干渉できない。


「だが君は今、我々と話すことも、椅子の肌触りを感じることもできている。違うかね?」

「それはそうですが……」

「まさにその点が重要なのだ。クオリアーツは現実世界に影響を与えない。一方で、〈遊応体ホロボディ〉である君は、この場に肉体が無いにも関わらず、現実世界から様々な感覚を受け取っている。この奇妙な状況を、君は説明できるかね? ああ、安心し給え。これはテストじゃない」


 エリアスの問いに一瞬怯みながらも、クライドは顎に手を当てて思考を巡らせる。


「えっと、『世界が重なっているから』でしたっけ。名前は確か……そう、〈シード〉だ」


 話しながら情報を整理する。一度唇を舐めてから、クライドは再び口を開いた。


「応冠起動中、ハイアーズは現実世界だけでなく、そこに重なって存在する仮想世界〈シード〉も知覚している。クオリアーツは〈シード〉でのみ扱える力だから、現実世界には何一つ影響を与えない。でも、ハイアーズは〈シード〉もクオリアーツも知覚できるからそれらの影響を受ける、ってことですよね?」


 一息に答えてみせると、目の前の男は満足そうに頷いた。


「その通り。我らハイアーズのための仮想世界〈シード〉。これは一昔前に流行った電脳世界メタバースとは全く違う。視覚、聴覚、嗅覚、触角などの感覚的経験、すなわちクオリア。その全てを統合して生まれた新たな世界だ。言うなれば、感覚世界クオリバース


 そこでエリアスはテーブルをコンコンと指で叩いた。


「例えばこの会議室。私はこの部屋の壁や床、調度品に至るまで、色や質感を現在進行形で知覚している。他のハイアーズたちも同様だ。各々が自身の周囲の状況を五感で受容している。その膨大な量のクオリアを無数のピースとして、ジグソーパズルの要領で浮かび上がったのが〈シード〉というわけだ。二つの世界があるのではない。一つの世界に二つの側面があるのだ。だから、この二つの世界は同質だ。常に同期していると言っていい」


 万物が実在する現実世界。それを知覚して生まれたクオリア、その集合体である〈シード〉。

 ハイアーズにとって世界とは、現実世界と〈シード〉の重ね合わせなのだ。

 だから〈遊応体ホロボディ〉のクライドが、現実世界を知覚しているように感じるのは、ただの錯覚だ。実際のところ、クオリアーツである〈遊応体ホロボディ〉は〈シード〉に存在し、そこに集積されたクオリアを受け取っているに過ぎない。それでも、〈シード〉が現実世界と重なって存在している以上、その感覚は最早、現実世界と何ら変わらない。


「無論、同質と言っても注意が必要だ。私の場合、会議室にいると同時に、応冠を介して〈シード〉にもエントリーしている。お陰で〈遊応体ホロボディ〉の君とも話ができる。一方でハイアーズ以外の者と、〈遊応体ホロボディ〉の君では、お互いに存在を認識できない。これは応冠にも言えることだ。応冠も〈遊応体ホロボディ〉と同じく〈シード〉に顕現する。従って、ハイアーズ以外には見えていない」


「分かっています。要は、一つの視点で世界の表と裏は同時に見れないってことですよね?」

「流石に愚問だったかね。いや当然か。ここまでは基本的な知識なのだから」


 そこでエリアスが一度目を閉じる。改めて向けられた眼差しは、閃く刃のようで。


「だが、感覚世界クオリバースはもう一つある。当然これも、君なら知っているね?」


 その一言で、場の雰囲気が張り詰める。雑談はお終い。本題はここからだ。

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