第4話 バーチャルシティの光と影


 事務所の会議スペースに移ると、高嶺さんがテキパキと資料を広げていく。デジタルな光が照らすテーブルの上には、整然と並んだ書類。高嶺さんの動きには無駄がなく、そのプロフェッショナルな姿に思わず見入ってしまう。


「さて、真白。まず最優先で取り組むべきことを説明するわ」


 オレは思わず背筋を伸ばし、真剣に耳を傾けた。


 「まずは、タレントたちの登録者を増やして、スポンサー契約を取ること。それが今の私たちにとって最も重要な課題よ」


 高嶺さんの言葉には、隠しきれない緊張感が滲んでいた。


「実は、先月まで支援してくれていたメインスポンサーが撤退したの。それが原因で、経営が厳しい状況になっているわ」


「そんな……、ひかりはあんなに一生懸命配信していたのに」


 思わず声が漏れる。

 ひかりの頑張りを配信で見ていただけに、その言葉は胸に刺さった。

 高嶺さんは小さく息を吐きながら続ける。


「スポンサー側にも予算の見直しや競合事務所への移行など、複雑な事情があるのよ。それでも立ち止まっている暇はない。私たちは前に進むしかないの」


 言葉の一つ一つが重い。

 とにかく、やるしかない状況だということばかり浮き彫りになる。


「真白、スポンサーがつかないと、この事務所がどうなるかわかる?」


 オレはゴクリと唾を飲み込みながら答えた。


「……タレントたちの活躍の場がなくなって、人間界での『認知』が減れば、消滅してしまうんですよね」


「そうよ。この世界で『忘れられる』ことが、どれだけ残酷なことか……真白ならわかるわよね?」


 胸がぎゅっと締め付けられる。

 この世界で「忘れられる」ことは「消える」ことだ。

 それはとても冷たくて、辛いことだった。


「そんなのオレは嫌です! そんな未来、絶対に避けましょう!」


 自分でも驚くくらい、声が大きくなった。

 高嶺さんはオレに微笑み、小さく頷く。

 

「その意気よ。でも現実を知ることも重要なの。一つ見せておきたいものがあるわ——『忘れられたものたち』の未来を」


 高嶺さんは立ち上がり、促すように手を差し出す。

 その姿に従い、オレも立ち上がった。

 胸の中では、不安が渦を巻きながら膨らんでいく。



 事務所の外は、昼間のバーチャルシティ特有の活気に包まれていた。

 空中を踊るカラフルな広告と光の粒子。

 その明るい喧騒を横目に、高嶺さんは無言のまま足を進めていく。


 やがて人影が少なくなり、建物もまばらになる。

 そしてついに、無機質なグリッド模様だけが続くエリアへとたどり着いた。


「ここが創造の境界線よ。この先は、人間の創造が途切れた場所なの」


 指差す先には、どこまでも広がる漆黒の闇。

 光も音も届かない、完全な無の空間だった。


「ここは……未完成エリアじゃないんですか?」


 オレの問いに、高嶺さんはゆっくりと首を横に振る。


「未完成エリアは、人の創造の意志が残っている場所。でもここは、人間に忘れられ、完全に失われた場所。かつてはこの先に、Vtuberの事務所があったの」」


「……え?」


 息が詰まる。

 ここに別の事務所が存在していた――なのに今は何も残っていない。


「その事務所はスポンサーを失い、人間たちから完全に忘れられてしまった。そして今では、どんな事務所だったか、誰が所属していたか、誰もその名前すら思い出せないの」


 暗闇の向こうで、かつての記憶の断片が淡い光を放っては、次の瞬間に消えていく。それはまるで、誰かが忘れた夢のカケラのようだった。

 

「この暗闇のことを、人間界では『バグ』と呼ばれているわ」


 その一言に込められた意味に、得体の知れない恐怖が沸き起こった。


「バグには、忘れられたデータや記憶の断片が溜まっているの。それらが膨張すると形を持ち、——ナイトメアと呼ばれる存在になる。それは街全体を侵食し、全てをノイズへと変えてしまう恐ろしいものよ」


 聞いただけで、全身が震えた。


「そんなものが存在するなんて……知らなかった」


「そうね、普段は光に満ち溢れているこの世界だけど、その裏にはこういう現実もあるの」


 オレはその深い闇をじっと見つめる。

 その先には、かつて事務所やタレントたちが存在していた。

 けれど、今はただの漆黒に変わり果ててしまった。


「真白、私たちはこうなる前に絶対に回避しなければならない」


 高嶺さんの言葉が重く響く。

 オレは決意を固めて、吸い込まれるような暗闇をじっと見つめた。

 どれだけ見つめても、何かが見えることはなかった。



 事務所に戻る途中、賑やかなバーチャルシティの通りを歩いていると、目に飛び込んできたのは、灯ノ輪ひかりだった。

 ひかりのオレンジ色の髪先がまるで光をまとって舞うように揺らぎ、その存在感は人混みの中でも一際目立っている。和洋折衷のアイドル衣装が、さらにひかりを輝かせていた。


 ひかりが振り返り、オレたちに気づくと、明るい声で声をかけてきた。


「高嶺さん、真白! 見つけた~!」


 ひかりが小走りで駆け寄ってくる。

 その笑顔の眩しくて、オレは瞬きも忘れて見つめてしまう。


 画面越しで見ていた「推し」が、こんなにも近くで自分を見つけ、駆け寄ってくれる。それが現実だという実感が、まだどこか信じられなかった。


「お疲れ様! 真白、社長から聞いたよ。名前が『素描屋真白』に決まったんだって?」


「そ、そうだよ、素描屋真白に……決まった」


 名前を口にすると、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 それは、自分という存在が形を持ち始めたような不思議な感覚だった。


「あはは! 素敵な名前じゃん。ピッタリだと思うよ!」


「そ、そう? ……そうか」


 ひかりの無邪気な笑顔に、少しだけ自信が湧いてきた。


「それにしても……そのアイドル衣装で歩いて大丈夫なの?」


 気を紛らわせるように話題を変えると、ひかりはスカートの裾を軽くつまみ、くるりと回ってみせた。

 

「これ? 配信で新しい企画を試す準備で、映えるスポットを探してたんだ。Vtuberって、常に新鮮さを見せるのが大事でしょ?」


 そんなやり取りを見ていた高嶺さんが、少し厳しい口調で口を挟んだ。


「ひかり、その意欲は認めるけど、アイドル衣装のまま街を歩くのはやめなさい。それはステージの上だけの特別なものなんだから」


「はーい、次から気をつけます!」


「それから、配信する場所には事前に許可を取ること。立入禁止区域には絶対に近づかない。そして、予算の範囲内でやることも忘れないように」


「うっ、高嶺さん厳しい! でも大丈夫、もっと多くの人に見てもらえるよう頑張りますから!」


 ひかりの堂々とした口調に、高嶺さんも少し目を細める。


「本当に相変わらずね。まあ、その前向きさには助けられるわ。ただ、今は真白の教育も進めなきゃいけないから、協力よろしくね」


「はい、わかってますよ! じゃあ、真白、一緒に帰ろうよ! 今なら手を繋ぐ特典付きだよ?」


「なっ……何言ってるんだ、——いや、……それって……握手券何枚分の価値なんだ?」


「あはは! いいね、それ! 私だったら真白に100枚出しちゃうかも」


「な、なんでオレ!? オレはただのマネージャーだ!」


「だって真白の反応が可愛いんだもん~!」


 冗談っぽく言うひかりに、オレはむっとして口を尖らせる。


「なっ……そんなことないから、オレは別に、可愛くなんかない!」


「えー、そうかなあ? だって、ほら、その仕草も可愛いもん!」


 ひかりが指差す先を見ると、オレはいつの間にか自分で袖口をぎゅっと握りしめていた。

 気づいた瞬間、慌てて手を離す。


「……こ、これは無意識だ! 別に意識してやったわけじゃないから!」


「そういうところも含めて可愛いって言ってるの! ねえねえ、せっかくだし配信で紹介しちゃおうよ。『新人マネちゃん登場!』って」


「なっ、そんなの絶対無理だ! 配信なんて無理!」


 オレが全力で首を振ると、ひかりは少し唇を尖らせた後、何かを思いついたようにニヤリと笑った。


「じゃあ、カメラマンはどう? 真白は撮影してくれるだけでいいからさ!」


「カメラマン……? それならまあ……いいけど」


 オレが返事すると、ひかりは「やったあ!」とガッツポーズを作った。


「決まり! 高嶺さん、真白を借りますね!」


 高嶺さんは、腕を組んで苦笑を浮かべていた。


「いいけど……真白に無理をさせないこと。まだ慣れてないんだからね」


「はーい、大丈夫ですよ。任せてください!」


 ひかりの返事に、高嶺さんが頷く。


「真白、ついてきて!」


 ひかりはスキップでもするような軽い足取りで歩き出した。

 その後ろ姿を見ながら、オレは戸惑いながら、ひかりの後を追った。

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