オレンジのはんぶん-4


 光を反射するけれど私の足の形になっている黒い合皮のローファー。それを薄暗くなっている昇降口でいつものように脱いで、靴箱の扉を開けてしまう。

 こんな、いつも通りの動作さえも今日で終わりなのだ。

 学年カラーの青のラインの入った上履きに履き替えて、人がまばらな校舎を歩いていく。

 1、2年のフロアである一階と二階は人の気配すららない。

 ワンテンポ遅れてから、ああそっか。とひとりごちた。在校生は毎年卒業式の直前まで準備をしているのだ。……懐かしい、たった1年前までだるいめんどいかったるいって思っていた準備さえ、楽しかった気がするのだから人の記憶とは不思議なものである。

 階段をのぼっていくにつれ、人の気配が色濃くなる。3階の高校3年の教室にはもう登校している人も多いようだ。廊下にまで人はあふれていて、そこにはあたたかな談笑もあった。

「あ、サクライ!これこれ書いて!」

「ちょ、伊藤。なに突然」

 廊下で輪になって笑う同窓生をみてスルーしようとした私に紫色の分厚い冊子が差し出される。

「ん?伊藤さん……これは?」

 他クラスの小柄な友人を見下ろす。こいつは150センチないらしい。

 伊藤は書くものでも探しているのか胸ポケットや、ブレザーの両サイドのポケットを弄っている。寝起きでセンチメンタルに浸っていた私は、まだ覚醒できていない。ごめんなさいただ口に出すのがかったるかったのでちらりと一瞥。なんだかんだと勘のいい伊藤はあれ、と一言だけ呟いてから説明をしてくれた。わーさっすが伊藤〜君は面倒見が存外いいよね、ほんとに兄さんのいる妹?だからどうってことないけど。

「卒アル。うちの4組は昨日配られたらしいよ。昨日は言ってないからLINEで聞いたけど。サクライは……2組か」

「昨日行ったけどもらってない。まぁせんせーいなかったし、書くのはいいけどせめて荷物は置かせろ」

「そりゃそーだわ。あ、片桐だ。じゃ、サクライは後で書いて!片桐〜」

「ういっす」

 くぁあとあくびをしつつ友人の背中に返事を返す。そして小動物さながらに駆けて行く姿を微笑ましく見送ってから私のクラスまで急ぎ足で歩く。

 2組教室の内装もピンクや赤や白で華やかになっていた。いつもよりも明るい色彩の教室の中でより私の視線を寄せた場所があった。

 窓際の私の席。その右隣の席に座って、オオノはどこかを見つめている。

 教卓の上に積み重ねられたアルバムと文集を一冊ずつ手にとって、ゆったりと彼の隣の自分の席に着く。

 そして、私はなんともないようにオオノに問うた。おはよう、という朝の挨拶の代わりに。

「アルバムに寄せ書きしていい?」

 鞄を机の横に引っ掛けたり、油性マジックをペンケースから出したりしてオオノの返答を待った。ふっ、と小さく呼吸をする音ののちオオノは私の方にアルバムを寄越して笑った。

「……絵はいらない」

「はぁ、なんでまたそんな不思議な条件を……?」

「この惨状を見ても言えるの、サクライ……」

 視線の先にはオオノの卒アル。そして寄せ書きに使われるフリーページは某国民的ネコ型ロボットが正座している姿だったり、米軍の戦闘機だったり、最近の流行りの美少女萌えアニメのヒロインだったりがぽつんと描かれていた。思わず私も苦笑い。

「はは、文字書くよ。なんなら大好きな小説の一文にでもしようか?」

「それはそれでどーだか」

 オオノは今日も私の存在を認識していた。なんていうか意外。別に記憶能力に難ありとか一切思ってないよ?でも、6年間機会がなかったとは言えども一度も名前を呼んでくれなかった男だ。どう信用せよと。

 私は、彼のためだけに書きたい言葉がある。君だた1人に贈る言葉。

『Tu eres mi media naranja!』キュ、とつるつるの紙と油性マジックの先が擦れる音が響いた。


 オオノは私の書いた文字を見つめて瞬きをやたらに繰り返した。そしてひとこと。

「これ、どういう意味」

「ですよねー。スペイン語なんだそれ。読み方は悪いけどわかんない」

 読める?と英語の得意なオオヤに丸投げした。オオノもさすがにあきれ果てた表情でこちらをみて人に聞かせるためだけのため息をつく。

「なんかオオノさ、今日朝っぱらから疲れすぎじゃない……?」

「ああうん。いや、三浦たちのボケにいちいち突っ込んでたらすんごく疲れてさ」

「ははは、だろうね」

 げっそりとして言うので可笑しくなってしまって大笑いする。だっていつも天然でボケるほうの人がそういうのだから、面白くないわけがない。

 あ、そういや日本語訳いってない。自分がさっき書いた文字はかわいていた。指にインクがつかないことで安心してから重いそれをオオノに返す。

 オオノは私が大笑いしたのを根に持っているのか「釈然としないな」とつぶやいてアルバムを受け取った。

「そんな釈然としないオオノにひとつ」

 サクライ?その声は昨日よりも鮮明クリアに聴こえた。ああとひとり納得する、なぜならオオノは今日マスクをつけていなかったから。

 久々に顔全体をみるので少し違和感を覚えた。そんな顔してたっけ。

 オオノの黒い瞳と視線があって急いで逸らした。彼も私もオーバーリアクションだったとはおもう。級友らが出払っていてよかった。みられたらひやかしどころでは済まないだろうし。

「そ、それでさ、あの……アルバムに書いたやつの日本語訳が、さ。『オレンジの片割れ』になるの」

「へぇ……そ、そうなんだ」

 お互い別方向をみてぎこちない会話を交わして、沈黙がついにおりた。

 会話がなくなると廊下からはしゃいだ同窓らの声がバカみたいに思えた。なんか廊下と教室で世界が切り替わっているみたいだ。

 オオノとの沈黙がきつくて逃げたしたい気持ちがこみ上げた。もしも、オオノがこの言葉の意味をしってて、どう返答するか迷って黙っているんだとしたら?いや、どううまく切り抜けるかを考えていたら?

 一度思考の闇に捕まってしまうと何も見えなくて、悪いことばかり頭ん中に張り付いて離れない。

 ブーという振動がして思わず肩を震わす。うおっびっくりしたぁ。なんだよと心の中でブーイングをかましつつスマホの通知を確認する。LINEの通知でそれは、真っ赤に熟れたトマトのアイコンから察するに伊藤から。突然なんだ、と思いつつ彼女とのトークルームを開く。どうやら片桐にメッセージを書いてもらい終わったらしい。つまりはまぁ、友人からのお誘い。これを断る理由もないし、この沈黙から逃げ出せるのでさっさと行ってしまおう。

 そうと決まれば即行動、ということでいい勢いで椅子からたちあがった。そして、自分のアルバムかどうかフリーページをみて確認する。

「あ、じゃあえとオオノ。あとで?」

「……え、あうん」

 そのまま走り去ってしまったから私はオオノの言葉に続きがあるのをしらない。

 だけれど、オオノはそれを私に届ける気があったのかはしらない。

「ぼんと、雷みたいだよ」

 そのあとオオノは笑ったかもしれない。「綺麗なことばだな」って。

 だけどそれは所詮、私の願望でしかない。


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