空白
朱
空白
ある晴れた春の月曜日。十三時十二分。五島弘樹は昼食を済ませたあと、白木の仏壇に向かい妻と娘の遺影に手を合わせ、朝供えた仏飯と茶を下げてから、玄関のマジックボードの赤と黒の油性ペンを二本、作業着のポケットにねじこんで、軽トラで車庫を出た。
彼は集落の最奥から、さらに林道へと入る。
渓流ぞいを蛇行するゆるやかな坂道をのぼっていく。ここのところの雨不足で川の水量は減っている様子だったが、かえって水は澄み、山肌には新緑が鮮やかだった。
彼は、この林道の先にある転回場の、鉄柵の門扉を目指していた。
朽ちた廃屋と土蔵、そして耕作放棄地に植林した杉の木のあいだを縫うように軽トラは走り、ガードレールもない狭い山道を崖に沿って入ったが、もとよりここからの四キロは、弘樹が義父より受け継いだ五島家の山の私道なのだから、本来なら対向車を気にする必要はない。
だが、崖下からつき出ているタラの木の先端が、もぎ取られたように失せている。目をとめた弘樹はブレーキを踏んだ。
降車し、長靴で崖の斜面に近づくと、枝の成長点から若草色をしたタラの芽が、全て千切り盗られていた。
「遅かったか……」
弘樹はつぶやいた。
例年ならもう、この時期タラの木の根本の草刈りは済ませている。そして針金を通した木札も掛け直しているはずだが、妻と娘を失ったあの冬の日から、この四十九日は慌ただしく、山に入る時間的余裕も、気力もなかった。
弘樹は、腰丈より高い雑草の中で四つん這いになって、文字通り、草の根をかき分けて、針金のついた注意書きの木札を見つけ出した。
その表には去年、油性ペンで黒く、「これは山林所有者が栽培している山菜です。採取と伐採を禁止します」と書いてある痕跡を残して、風雪で針金が切れ、雑草のなかに埋もれ、文字は消えかけている。
弘樹は胸からマジックペンを取り、消えかけた妻の文字をなぞって、枝へとまた戻した。
軽トラは、さらに上流を目指す。
昨冬以来、一人分の茶碗を片づけるたび、弘樹は降り積もった雪の上に雪が重なる静寂の中、妻と娘が歩道の除雪をする音が聞こえるようになっていた。道具小屋で草刈機の刃にヤスリを当て、タンクに青い混合ガソリンを注いでいる時などにも、ふと、昼の支度をする妻のラジオが風に乗って聞こえた気がした。
いつもの夜明け、いつもの雑事。四十九日までの間、弘樹はただ機械のように食事をとり、茶碗を洗い、身の回りを整え、冬の間に積雪とともに道路へとはみ出した土砂を角スコップでかいた。心のなかは空洞は、不思議とあの日の以前のまま、もう戻らないはずの生活音と声が、そこを満たしていた。
ルームミラーに、新しい御守りが揺れている。
ハンドルを執るこの山の私道にはタイヤ幅そのままにワダチがあったはずだが、冬に落ちたままの ──これも雪の重みに耐えきれず折れたものだ── 杉の枯れ枝に道全体が埋もれている。それを踏んで車輪をとられないよう彼は慎重にアクセルを踏み、緩やかな坂を徐行して登る。だが、その散らばっている枝には、どうやら彼よりも先に踏み込んだタイヤ跡があり、弘樹は眉を寄せた。
彼よりも先に山道に入った者がいるとなると、この先のゼンマイも危ない。亡き義母から教わったシダの生茂る岩陰にかかるカーブにハンドルを弘樹は大きく、ゆっくりときる。すると案の定、その岩かげには他県ナンバーのRV車がフロントガラスをこちらに向けて停まっていた。
停まった軽トラから見知らぬ男が眉間を寄せて降りて来たのだ。怯えているのだろう。女児が笑顔を失って、母親のスカートの足もとに隠れた。
その若い夫婦は、ばつが悪そうに「いま、どかしますから」と作り笑顔をし、岩かげに停めたRV車に足を向けたが、二人とも手にしているビニール袋の中にはワラビやゼンマイ ──おそらくはタラの芽も── の影が見えている。
弘樹は、こわばった眉間を掻きながら言った。
「わるいけれど、ここはウチの山でね、山菜も川魚も、勝手に取っていいものじゃないんだ。現にその、あんたらが摘んだそのワラビやゼンマイ、タラの芽なんかは俺と……」
家内が、と言いかけた声が詰まった。
「根本の草を刈り、雪から守って、一年を通して育ててきた、つまり作物なんだ」
目に涙が滲み、伏せていた彼の目を上げると、女児が母のスカートを掴んで震えていた。
弘樹の脳裏に、小さかったころの娘の、笑顔や泣き顔、そして雪の夜に、布団に潜り込んできた手の小ささ、頬の温もりが蘇った。
弘樹は、彼女の父親にむけて言った。
「……この先に、対向のできる道幅がある。あんた、そこまでバックで行けるかい」
彼はぶんぶんとうなずいて、娘をチャイルドシートに押し込むと、妻の誘導のもと、RV車でバックしはじめた。
弘樹は、声をかけながらそのあとをついて歩き、
「気をつけろよ、慌てるんじゃないぞ、崖におちたら元も子もない」
落石をどけ、バックする車の先を覗き込みながら誘導した。
意図せず山菜泥棒をはたらいた家族連れと、崖沿いをお互いにミラーを畳んでギリギリの間隔で対向し、礼とも詫びともつかない頭を何度も下げて去った彼らの車をルームミラーに見送ってから、弘樹は軽トラックのギアを一速に入れ、クラッチから足をゆっくりと離し、また山道をのぼって行く。
だが、その先にもまだ、車の痕跡が点在している。しかもそれが数台で通ったものと見えて、道幅がとくにせばまる箇所の法面には、大きく乗り上げたようなタイヤ跡や、路肩にどけた倒木、そしてタバコの新しい吸い殻があった。
妻が生きていた頃は、迷い込んだハイカーに出会えば、冷たい麦茶や摘みたてのゼンマイを土産に持たせて荷台に乗せ、穏やかに送り帰したこともあった。あれはまだ娘も幼く、道交法も緩く、自身も山の恵みを楽しんでいた頃だ。
「次は気をつけてね」
そう彼らに微笑んだ妻の声が蘇る。
だが、軽トラックを今、運転している弘樹には、だいたいのところ、この先の察しがついている。
どうせ今度はまた次の中洲だろう。そう思いながら彼が張り出した岩の陰にそってまた大きくハンドルを切ると、案の定、狭い林道に申し訳程度の幅をあけてワンボックスカーが三台、停めてある。目をやった小川の中洲には、タープテントと折り畳み椅子が並び、風には炭火とタマネギが焼ける匂いが混ざっている。肌を露出した若者たちが、大声で笑いながら肉をひっくり返し、ビールを開け、スピーカーの重低音で川面を叩いていた。
軽トラックから降りてきた作業員風の初老は、不機嫌とも事務的とも取れる無表情のまま近づいて来る。なぜか手のビール缶を隠すその若者たちは、機先を制すつもりか、「こんにちはー」と間延びした声をかけるが、その服装はビーチサンダルに膝丈のアウトドアパンツ。玄関を出た時からそのつもりでいたとしか言いようがない。
中洲を我が物のようにくつろいでいた若者たちは、突然の地元民の出現に、目と目を合わせ、リーダー格の男の顔色をうかがった。
弘樹は、浅い川を中ほどまで渡り、長靴を這いのぼって来るヒルを、反対の
「わるいが、この山はふもとから丸ごとウチの私有地なんだ。この川もそうだ。勝手に酒盛りをされては困る」
河原には、石で堰き止めたいけすの中に酒やスイカが冷えており、三匹のヤマメが泳いでいるのが見える。
バーベキューコンロの上では、交換したばかりの金網が肉と野菜を焼き、焦げついた数枚の網が川の中へと浸けてある。さらには準備がいいことに、強力そうな外国製の粉洗剤や金タワシがコストコのビニール袋の中からのぞいている。
「──言いたいことは、分かってもらえるな」
弘樹は言った。
若者たちは、うつむき、はりついたように重い腰を上げて、折り畳み椅子を閉じながら、それぞれ立ちあがった。
だが、リーダー風の若者が、
「おじさんさぁ、無断でバーベキューは謝りますよ。でも、もう、みんな酒がはいっちまってんだよね」
そう言い終わった若者のサングラスを、弘樹は直視したまま聞いて、
「だから?」
その先をうながした。
「だからって……。だからおじさん、酔いがさめるまでは、おれらをここに居させてくんないかな。頼むよ、このとおり。いま運転したら違反になっちまうよ」
そう言いながら頭上で手を合わせ、サングラスは首をすくませた。
その大げさな仕草に、肌の露出の多い女が、プッと噴きだした。
「──やめなよユージ、ゴメンとかわらえないんだけどマジで」
そして女は、作業着の闖入者にむけて、
「……シユーチ シユーチってうるさく言うけどさ、自然ってみんなのもんじゃん」
折り畳み椅子の上で脚をなげだしたまま言った。
「そんなにショユウケンをしゅちょーしたかったら、ぜんぶ名前を書いとけって話しじゃないの?。この石ころにも、水にも、私のですって」
男女が、リーダー格の男を除いて、笑い声をあげて追従した。
しかし、
「黙ってろ」
リーダー格の男は、偏光グラスを鼻まで下げ、鳶色の眼で一同に睨みを利かせると、弘樹にも今度は凄むように低い声で言った。
「な、頼むよ。オジサン。切符の残り点数やばいのもいんだよ」
運転免許の違反点数のことだろう。けたたましい声をあげて先の女が、筋肉質の男を指さした。
「ウケる、ケンジ、アンタのことよーー!」
そう俺、俺! と、タンクトップのそれが自分の鼻を指さして、弘樹にすきっ歯を見せ、
バーベキューコンロの上で焦げている肉を紙皿に盛り、
「そうなんすよ、俺いま免停の瀬戸際で。あ、俺、解体でトラックやってんすよ。だからヤバくって。あと三時間くらいあれば抜けると思うんで、その間だけはここに……。 いや、なんならオジサンも食べてけば? 肉も余りそうなんだよね。あと酒も…… って、酒はダメか、ハハハ」
乾いた笑いが森に吸い込まれて行く。
だが、弘樹は川の中に立ったまま、黙って彼を見据えた。
沈黙に耐え切れなくなったのかケンジは目を逸らし、足もとの石をサンダルで落ち着きなく動かしていたが、川に半分ほど浸かった弘樹の長靴からカワビルが作業着を這い昇り、首筋に吸いついて行くまでを興味深げに目で追いながら、横目に仲間にもそれを知らせ、
「──てか、おじさん、くび、なげーホクロ、あ。ヒルか、はははヤッベ。まじ大自然じゃんな!」
また、森に爆笑がこだました。
リーダー格は、黙っている。
弘樹も彼らを見据えてヒルを指で摘み、むしりとった。
ひとすじ血が、弘樹の首を赤黒く垂れ、笑い声は、情けなくしぼんだ。
その血を手の甲で拭い、弘樹は言った。
「例外はなしだ。帰ってくれ。今すぐにだ」
即座にリーダー格は大声をだし、「だから違反になっちまうっつってんだろ! バカなのかよ、おっさんよ!」だが弘樹は譲らない。
「林道は、ふもとまでウチの私道だ。道交法にはかからない。あとは自分たちで考えろ。……でなきゃ、俺が先に下山して通報する」
ふたりは目を逸らさず睨み合い、リーダー格は、火のついたタバコを川に投げ捨てた。
そして降参だとばかりに、両手のひらをうえに向けて上げると、椅子にかけた自分の両膝をピシャリと打って、ゆっくりと立ちあがり、告げた。
「撤収だ」
すると、その後の彼等は手際良く、タープやシートを分担して畳み、各自のワンボックスカーへと運んだ。
まだバーベキューコンロでくすぶる食材や炭を、中洲に埋めてもいいかとリーダー格は尋ねたが、「もってかえろう」と先ほどの女が言った。
掘り起こした砂の湿った跡や、足場に組んだ石、そして香水や虫除けスプレーの混ざった肉やタマネギの焦げた臭気は染み付いたままだが、中洲には、ものの二〇分とかからないうちに、弘樹ひとりを残すのみとなった。
背後で、ワンボックスカー三台のエンジン音がしている。ケンジだろうか、威嚇するようにカーステレオのボリュームを上げ、エンジンを空ぶかしさせ、「いこうぜ」と、リーダー格を呼び戻す声がした。
謝罪か、あるいは挨拶に来たのかと、弘樹が川に振り向くと──
──顔に拳の衝撃をうけ、弘樹はバランスを崩し、手をつきながら倒れた。
車内から歓声があがり、罵声が加勢するかのように続き、弘樹の起こした顔をリーダー格のブーツの先が蹴り上げた。
仰向けに目を覚ました弘樹は、青い空を見ていたが、作業服のあちこちを手で触れながら中州で身を起こした。
サイフは……とられていない。ポケットの油性ペンも二本、そのままだ。だが口の中は切れていて、頬を拭ってみると、乾燥したよだれ混じりの血が付いた。左の目が眼底から鈍く痛み、まぶたが開かない。
こめかみや額、そして首すじの汗を拭い、袖に付着した出血は、内服している薬のせいもあるが、とめどなく湧いてくる。
ヒルの噛み口が、皮膚に食い込んだまま、壊れた蛇口のようになっている。右手で触れると、べったりと赤黒い血がついた。
だが、昏倒ついでに熟睡がとれたのか、さっぱりとした気分だった。
もしれない。
アゴから後ろの
だが事実、歩道を除雪していた妻と娘を、雪道に不慣れなスキー客の車が一度に奪ったあの日以来、こんなにも深く、弘樹が眠れたことは無かった。
彼等が残していった
水面に映る顔は、開かないほど腫れた左目から、ひとすじの内出血が皮下を垂れて走っている。
ワーファリンのせいもあるが、赤い涙を流している。
ざくろのように割れた口の中から、唾と一緒に吐いた血が、口周りを赤く染め、作業服の袖で拭うと、水面のなかの自分が、まるでピエロだった。
浅い川床を長靴で渡り弘樹は、軽トラに荒らされた形跡がないかあらためたが、キーも差したまま、ダッシュボードのなかもそのままだった。
中州に近づく前に、ワンボックスカーのナンバーを控えておかなかったのは不覚だったが、ここのところの不眠のせいか、自分も感情的で衝動的だった。
エンジンをかけ、彼は林道のさらなる奥を目指し、アクセルを踏んだ。
ルームミラーで、交通安全のお守りが揺れている。
その鏡のなかに、血染めのピエロが目を合わす。弘樹はその赤黒い内出血の跡を指でなぞるが、なにぶん皮下での出血であって、如何ともしがたい。
軽トラックの行き着いた、山道の最奥に位置する転回場は、一面を落ちた杉の枯れ枝が覆っており、彼はエンジンを止め、あたりを見渡した。
さすがにここまでくると、招かざる都会人の痕跡は見当たらない。
だが弘樹には見えている。つぎの秋、キノコの時期が来れば、こんどはここが賑やかになるとことが。
彼は、鉄柵の門の前に立ち、杣道が笹薮に消えていく向こう側にむけて、耳を澄ました。
実際、この先には、熊がいる。
とくに春先の今と、次の秋。子連れの母グマに遭遇すれば足蹴にされる程度にはおさまらない。
──でも。いっそのこと、熊の爪に引き裂いてもらうほうが、この胸の空白は噴き出した血が染め、満たしてくれるような気がしてしまう。
深夜、娘が初詣で新調した御守りを車内で見ながら、どこまで走っても、弘樹の胸は満たされなかった。
落ち枝に埋もれたこの道の終わりで、彼は、もう一度だけ、自問した。
妻と娘の四十九日法要は、昨日、済んだ。
毎晩、眺め続けた骨壺もふたつ並べて、墓に納めた。
その後、会食で、若い住職が、「これで一区切り。あとはあなたの人生を」と言った。
転回場の先にある山は、鉄柵と金網でできた門扉が閉ざしている。
その先は、ながく五島の家に薪と、現金収入をもたらした山だが、それはこの山に子供の頃から慣れ親しんで歩いた妻の代までで、都会に生まれ、婿養子として入った自分には、この鉄柵を越えた先を、迷うことなく歩く自信などない。
笹薮のなかに消えていく杣道を、鉄の柵ごしに見つめていると、カゴを背負った妻が嬉々として根曲り竹を採りに行く背中が見えるようなきがする。
御守りを手に握りしめ、柵の向こうを見る。
代々受け継がれてきた山の地形、そしてそのほか道なき道の詳細も、また舞茸やエノキ茸の出る樹のありかや雨風をしのぐ岩のくぼみ、万が一には先を束ねて雪をしのぐシェルターにすると妻が言う丈長い草の生い茂る場所も、松茸がでる場所も、今年の冬、秘密のまま絶えた。
この柵をこえた先に、妻が待っているような気がしてならない。
この先に分け入って、気の向くまま歩けば、きっと夕には妻が探しにくる。そんな思いが胸をえぐって引っ張る。
落涙して彼は、それを阻む金網を掴んだ。
気がつくと弘樹は、鉄柵の上にまたがったまま、呆けていた。
赤い油性ペンと、ルームミラーの交通安全の御守りを、一緒にして手にしていた。
しばらくその上に、またがったまま、空を彼は見つめていたが、思いついたように転回場側へ戻るよう脚を跨ぎ直し、鉄柵を降り始めた。
そして彼は金網の下にしゃがみ込み、きつく針金で留めたプラスチック板の注意書きを外して手にした。そこには、
── このさき危険 立ち入り禁止。〝 〟がでます。──
とある。去年に妻が黒字で書いた部分だけが残り、赤ペンで朱書きしたクマの二文字が、すっかり褪せて、そこだけが空白になっている。
クマの二文字は、都会人が万が一にもここを越えて山に入り、遭難したり、野生動物と不幸な遭遇をしたりせぬようにと義父が仏ごころでもって赤ペンで朱書きをした名残りのまま、今年はひとりで弘樹も、赤ペンを持参している。
だが、赤のインクは褪色が早い。そこだけは毎年この時期には消えてしまっている。
だが弘樹は今、そのプラスチックの札を前にしゃがみ込んだまま、一点を凝視している。
転回場には静けさしかなく、上空にはカラスが舞っているものの、ここには弘樹の呼吸しかないような気がする。
ペンを手に、ずっとそうしている彼の鳶色の瞳にも、その空白はくっきりと映り込んでいる。
彼は、ぐっすり眠ったあとである。充分に明晰だ。
杉木立のなか、転回場の狭い空を仰いだが、あまりにも多くの思いが去来し、耐えきれないような目が細まる。
この手のプラスチック板に、何の文字を書きに来たのか。それを問うように、彼は空に目を閉じるが、
──クマ、
いや、そうじゃない。書き入れに来たのは確かにその二文字だが、いま書きたい文字は、そうじゃない。
彼は首を振った。
それは妻の名であり、
娘の名である。
ありがとうと息絶えた妻の声であり、
ごめんねと目をとじた娘の顔である。
弘樹は鉄柵を掴み、しやがんだまま叫んだ。
言葉にすれば、俺はここに何を書きたいんだと、そんな意味になろうか。
もっと、ふさわしい言葉があるはずで、もっと冴えた文字があるはずだ。
そして肩を震わせて掴んだ鉄柵を激しく揺さぶり、息を荒げた。
叩きつけるように金網をゆさぶり、そうするうちに、しびれた指先から頭の先までが、まるで自分でないかのように陶然としてきて、空をあおぎながら彼はひとすじの涙を流した。
そして自分が気がついてしまったことに、柵を掴んで、誰でもない彼が笑いはじめた。
何を書けば、この空白は満たされるのか。熊でも、妻の名でも、娘の名でもない。彼は気づいていた。今、ここに蒔く言葉は復讐の種だ。微笑む妻と娘の未来を、そして俺の心を奪った無分別な者たちを引き込む罠、その種が、転回場の狭い空の下、空っぽだった胸へと根を張り、奇妙な喜びを芽吹かせている。
笑いながら、血混じりの涙を流し、そう気がついた自分が、悲しくて笑っている。こんなに恐ろしいことに気がついてしまったのに、止めてくれる人がここにいない。その事実があんまりにも哀しくて、泣きながら弘樹は肩先だけで悟ったように笑った。だってここは俺の山。うるさい柵も、ヤブ蚊だらけの道も、この看板も、転回場も、俺のものじゃないか。キャップを外れるのを待っているようなペン先を手に、彼は、空白を埋めるものを見つけ出したまま、視線を空に向けて、回りながら飛ぶカラスのように眼球を泣き回した。
弘樹は、キャップを外した。
ヒルの
はたいたその手で、プラスチック板の空白に、血を拭きながら赤ペンで、二つ、漢字を書き入れた。
── このさき危険 立ち入り禁止。〝 松茸 〟がでます。──
それを鉄柵に固く、縛り付け、振り向いた口まわりが乾いた血で笑んでいる。
蒔いた種が、もう芽をふいたような、胸躍る心持ちだった。
軽トラックがゆっくりと、山道を下ってゆく。
赤い文字は、今日から山に都会人を引き込むだろう。
いったい何人が、あの柵を越えて山に消えていくのだろう。
たまらなく愉快だ。
あの札から、その文字だけが、夏の日差しに焼け、冬は雪に埋もれ、次の春には消えているのだ。
次の年も、そのまた次の年も。
愉快だ。たまらなく。
抑えきれず彼は、血汚れたルームミラーに揺れている御守りに話しかけた。
小鳥が遊び、小川がせせらぐ。
澄み渡った空気が、胸の内を満たした。充実した心持ちでハンドルを握る彼は、思いつくことを片っ端から言葉にし、ルームミラーの中、血染めのピエロが御守り越しに視線をくれる。
それはまるで彼自身で、どこまでも、にこやかに話を聞いてくれた。
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