第22話 正常――

 いつも寝ているはずの俺の部屋がここまで入りづらくなることは今日が最初で最後だろう。

 というかそうであってくれ。2度とこの面倒事に巻き込まれたくない。


「……辻野さん?」


 そんな声とともに扉をノックする。

 自分の部屋なのに変な感じなのだが、女子がいる部屋にノールックで入るというのも申し訳ない。


「……スー……」


 中々言葉が返ってこない部屋に耳を傾けてみれば、聞こえてくるのは朝一番に聞いたものと同じ寝息。


 俺の予想が正しければあいつは寝返りを打ってベッドから落ちたと思ったんだが……違うのか?

 それともそのまま寝てるのか……?


 そんな疑念たちを胸に抱く俺なのだが、ここで待つわけにも行かないので「入るぞー」と紡ぎながらドアノブを捻る。


「…………はぁ……」


 そうして吐き出される重いため息。


 というのも、今俺の視界いっぱいに広がるのはお腹を丸出しにしたパーカー姿の辻野さん。


 胸の肉厚からか、若干浮いて見えるそのパーカーの下からは黒色の……ブラが見え、そのブラを隠そうともしない辻野さんの頬にはこれ見よがしによだれが垂れている。


 そして俺が下に降りた際に相当寝返りを打ったのか、髪はかなりボサボサになっており、顔の至る所に黒い髪がくっついている。


「……だらしないが過ぎる……」


 俺の存在に気づいていないのだろう。

 ポリポリと細いお腹を掻く辻野さんは「んぅ……」とこれまただらしなく唸る始末。


「もう朝だぞ。さっさと起きろ」


 黒縁メガネを装着していない辻野さんの隣に腰を下ろす。

 そして肩を突く俺は紡ぐのだが……起きる様子が一切見られない。


「さて、どうしたもんか……」


 生憎俺は女性を起こすというシチュエーションをしたことがない。


 リビングでのやり取りでも分かると思うが、母さんは朝に強すぎる。

 俺が起きるときにはもうすでに化粧を済ませてリビングで待機している人だ。


 この前の辻野さんと一緒に寝たときだって、辻野さんは俺が起こしたのではなく自分で目を覚ました。


 ……というかこいつも朝強い方だろ。なんで寝ぼけてんだ……。


 小さくため息を吐いた俺はポリポリと後頭部を掻き、下ろしていた腰を上げた。


「母さんに頼むか……」


 変に体を触ってこいつに性的興奮を覚えさせてはならんからな。

 ここは丁重に母さんに頼もう――


「……ん……?さき……もりくん……?」


 刹那に聞こえてくるのはゆったりとした少女の言葉。


 扉に目を向けようとしていた俺はギョッとその言葉を紡いだ少女を見下ろし――言葉を失った。


 こちらを見上げる少女はにへらと笑みを浮かべており、トロンとした瞳は俺の眼を射抜く。


 そして出したお腹を直すこともない辻野さんはやおらにお腹にあった腕を持ち上げて口を切る。


「ベッドに戻してくださいぃ……」


 甘えるようにニコッと笑うその顔は幼さが残り、俺の中に存在しないはずの母性本能をくすぐる。


「……自分で戻れよ」


 慌ててブンブンと横に振る俺は煩悩を跳ね除け、ふいっと顔を背けながら紡ぐ。


「いやです……。抱っこしてください……」

「そっちが本命だろ……!」


 寝ぼけているとはいえ、中身は痴女。


 どうせ俺に抱っこしてもらって胸を押し付けるはずだ。そして隙あらば昨日宣戦布告していた『絶対に好きにさせてやりますからね』を実行してくるかもしれない。


 どう考えても俺の不利益しかないこの状況でひとつ返事で従うわけがなかろう。


「崎守くん……」

「んだよ」

「私を抱いてください……」

「………………誤解される言い方するな。抱っこしてくださいだろ」


 突然の言葉に心臓が飛び跳ねてしまうが、寝ぼけ&痴女の戯言だ。


 冷静にツッコミを入れる俺は小さくため息を吐き、扉の方へと踵を返す。


「俺は下でくつろいでるから起きたら来いよ。朝ご飯作ったるから」

「……やです。ベッドに戻してください……」

「こっちがやですだよ。というかそんなに喋れるなら自分で動けるだろ」

「……動けません」

「嘘つけ」


 いつの間にかゆったりとしていたはずの辻野さんの声ははっきりとし、トロンとしていた瞳は恥ずかしそうにふいっと逸らされる。


 そんなものを視界に入れれば、なにを言われようが信用するわけもなく、


「起きてるならさっさとその腹片付けな。丸見えだぞ」

「…………」


 俺の言葉に対して素直に従う辻野さんは持ち上げていた腕でパーカーを整える。

 そうして真っ赤になった顔をチラッとこちらに向け、


「…………メガネ取ってください」


 降参したように紡ぐ辻野さんはまるで俺が悪いかのように自分の体を抱きかかえている。


 色々とものを言いたいところはあるのだが、メガネぐらいはいいだろう。


「分かった。それつけたら自分で起き上がれよ」


 そんな俺の言葉に特に反応を示さない辻野さん。

 若干怪しさは残るが……こんなに顔を真っ赤にさせてる辻野さんにはなにもできないだろう。


 なんてことを思いながら机の上にある黒縁のメガネを手にとり、辻野さんの顔の横で腰をかがめた。


「ほれ」


 辻野さんの手元へとそのメガネを持っていく。

 どうせメガネを付けていないと見えないだろうと思って。少しでも昨日の罪悪感を拭うように良心を込めて。


 ……だが、それが間違いだった。


「――隙ありです!」


 不意に掴まれたのはメガネを持っていない右手。


 寝起きとは思えないその腕力は刹那に俺の体を己の方へと倒し、寝起きとは思えないその顔はニマニマと悪戯に満ちた笑みを浮かべている。


「……」


 左手にはメガネ。右手は掴まれて身動きが取れない。

 この際だから左手をついてメガネをぶっ壊してやろうとも思った。……が、ここでも俺の良心が働いてしまったのだ。


 されるがままに倒れた俺は――辻野さんの体にお腹からぶっ倒れた。

 なんの抵抗もすることなく、自由落下に身を委ねて。


「「ゥ゙ッ……」」


 さすれば2人の口から溢れる嗚咽に似た間抜けな声。


 おへそとおへそがくっつく俺と辻野さんのお腹。

 ムッチリとした太ももが絡み合う足。

 心臓の音が無造作に聞こえるたわわな胸。

 熱伝導が起こる俺達の頬。


 この上ない密着度を披露する俺達はお互いの心拍数を感じ合う。


「……恥ずかしい……」


 不意に口を開いたのは辻野さん。


 果たしてこれが心拍数に対して言っているのか。それとも密着していることを言っているのか。はたまた間抜けな声を出したことに対して言っているのか。


 ……まぁ、どちらにせよ恥ずかしいのは俺も同じだ。


「……そう思うなら背中に手を回すの止めてもらっていいか……?」

「だって恥ずかしい以上に幸せなんですもん……!」

「求めるより求められる方が嬉しくなかったのか……!?」

「それとこれとは話が別です!崎守くんの体温をこんなに直で感じることはこれまでありませんでしたので……!」

「……そうか?結構あったと思うが……」

「ありませんよ!」


 階段から倒れるときにも結構同じ状況になったことがあると思うんだが……まぁいいか。

 というか今はそれどころじゃない。


 背中に回された辻野さんの手はこれ見よがしにガッチリとホールドし、これまた心底嬉しそうに頬を擦り付けてくる。


「……辻野さん。俺は別に幸せじゃないよ……?」

「大丈夫です。これから幸せにするので」

「なにも大丈夫じゃねーよ……!」


 バタバタとバタ足を披露する俺は体を離そうと全力を尽くすのだが、ゴリラ相手にはなすすべなし。


 ギュッと更に力を込めた辻野さんはムニッと俺の胸に己の胸を押し付け、ムッチリとした足もホールドするように腰に回す。


 その光景はまるで――


「……え?なにしてるの……?」


 俺が扉を閉め忘れていたのだろう。

 音のひとつもしない入口から姿を表したのはドン引きした母さんの顔。


 汚物でも見たかのように袖で口元を隠す母さんは目を細め、引腰に言葉を続ける。


「……朝から元気なのはいいと思うけど……ちゃんとゴムはしてよ……?あと、その体制はちゃんとベッドでやらないと女性側の背中痛くなるよ……?」

「違う!誤解!!これ誤解だから!!!」


 やっとの思いで上げた顔を母さんに向けては大きく横に振る。


 同じように辻野さんも首を振ってほしいのだが……クソぅ!なんでこの状況でヘニャヘニャの笑み浮かべてんだよ!!


「誤解……?その体制で……?正常――」

「待って?親の口からその言葉は聞きたくないからほんとに待って」

「いやいや……その体制はそれでしかないでしょ……」

「だから違うって!というか俺も辻野さんもズボン履いてるし!」

「……穴開けてるんじゃないの……?」

「開けてねーよ勿体ない!」

「……まぁ、ゴム使うならお好きなだけどうぞ……」

「だから違うってー!!」


 そんな俺の言葉を最後まで聞くこともなかった母さんは、相変わらずの細めた目とともに部屋の扉を閉めた。


「……ん?なにか固いものが当たって――」

「当ててねーよ!気のせいだ!」


 痴女の戯言を遮った俺は火事場の馬鹿力というものを利用してその場から抜け出した。

 服で股関節を隠しながら。

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