第15話 乙女の感情

 ……俺は今、胸の中にいる。

 なぜか不服気に頬を膨らませた少女の胸に。


 時はすべての授業を終え、帰りのHR前。

 いつものあの階段下で俺は、少女の胸に顔を埋めている。


「「……」」


 このラッキースケベに至ったのはいつものあの階段からコケるというシチュエーションが起こったから。


 俺はごく普通に立たそうとしたんだが、辻野さんがそれを許すわけもなく、あれよあれよとラッキースケベを起こされてしまった。


「…………動かないんですか?」


 そしてその少女が紡ぐ言葉はいつもと違うもの。


「……」


 あの荒っぽい息はどこに行ったのか。あの喘ぎもどきの声はしなくなったのか。


 色々聞きたいことはあるが、胸に口元が埋まっている状態で喋れるわけもなく、ただジト目を向ける。


「私、気になったらすぐ行動する人なんです」

「……」

「今朝、私は思いました。『もしかして私、求めるよりも求められる方が好きなのではないのか?』と」

「…………?」


(痴女の戯言か?)


 ジト目の奥で瞳を丸くする俺なのだが、どうやら自分の胸で俺の顔が見えていないらしい。


 相変わらず頬を膨らませた辻野さんは言葉を続ける。


「中学生の頃、崎守くんは私を助ける度に……その……む、胸を……揉んでました……よね?」


 恥じらう辻野さんに対して肯定するように瞬きをひとつ。


「その……む、胸に限った話じゃないんですけど……。その、私……崎守くんに触られるのが……少し……嬉しくて……」


(……俺が目覚めさせたからな……)


 もしかしたら辻野さんは俺を問いただそうとしているのかもしれない。

『どうして私を痴女にしたの!』『どうして私の胸を揉んだの!』って。


 正直問いただされても言い訳できないことをしてきたから……うん。素直に受け止めよう。


 なぜ膨れていたのかもわからない頬は赤く染まっている辻野さんに目を向ける。

 ジト目でもなく丸くした目でもなく、何の変哲もない真顔を。

 何でも言ってこいよと言わんばかりに。


「で、でも、高校になると同時に私のどこも触らなくなりましたよね……?」


 やっぱり俺の顔は見えていないらしい。

 視界の上端から一方的に見える辻野さんの眉根は伏せている。


 というか、今日1日ラッキースケベが少ないなと思ってたらそんな事考えてたのか。

 さすがの痴女でも考え事してたら欲求はなくなるんだな。


 なんていう俺の思案なんて他所に、床についていた手をポンッと俺の頭においてくる。


「……どうしてなんですか?私のこと、嫌いになりましたか……?」


 今朝もそうだったが、どんな思考回路をしたらそんな答えに至るのだろうか。


 仮にも俺は今日、おめーの家に泊まったんだぞ?

 なんなら1週間に何回も一緒に晩飯食ってるんだぞ?


(そんなやつがオメーのこと嫌いかよ)


 ……と、口でちゃんと言いたいんだが、こいつはいつまで俺の上に乗ってる気だよ。


 再度ジト目を浮かべる俺は地面にへばりつけていた右手を上げ、ツンツンっと肩を突く――


「――ヒャッ!」


 不意に聞こえてくるのは半無意識的に口から飛び出したであろう少女の小さな悲鳴。

 そうしてバッと頭を上げた辻野さんは辺りを見渡し、


「だ、誰が突いたの……?」


 相変わらず人通りがない廊下を首を傾げて見渡す辻野さん。


「……」


(多分こいつはバカなのだろう。というかバカだ)


 細かった目を更に細める俺はもう一度その肩を突き――


「――っ!」


 声にもならない叫びとともに突かれる肩にブンッと振り向かれる顔。


「な、なんだぁ……。崎守くんが突いてたんだ……」


 俺の気も知らずにホッと胸を撫で下ろす辻野さんの胸は物理的に重くなる。


(……なんでこの状況で安心できるんだよ)


 仮にも今、己の胸に異性の顔が埋まっているのだ。

 そんな状況で安心できるか?いやできないね。

 ……こいつはできてるんだけどさ……!


 さらにさらに細くする睨みとともにツンツンっともう一度肩を突く。

 さすれば今回は驚くことをしなかった辻野さんは「ん?」と俺の指を見ながら言葉を返してくる。


 ――退いてくれ


『アップアップ』とジェスチャーで伝えてやれば、


「あ、ごめんね……」


 割と察しが良い辻野さんはすぐに気づいてくれた。


「――プハッ!」


 生暖かい温もりが顔から退くや否や速攻で新鮮な空気を肺に取り込む。


「……ずっと息止めてたの……?」

「うん」

「な、なんで……?吸っていいのに……」


 四つん這いに跨がる辻野さんはやっぱり伏せた眉根を俺に落とす。


「なんでって……。女子の胸に顔埋めてる状態では吸わないぞ?普通」

「す、吸わないんですか!?私の記憶が正しければ中学の崎守くんは吸ってたけど……」


 刹那に頭の中で中学時代の俺をボコボコにする。


 いやでも言い訳させてくれ?

 中学時代のこいつは胸なかったじゃん?だから口元どころか鼻が埋まることがなかったんだよ。


 埋まらなければ直接胸から吸ってるわけではなく、あくまでも空気から息を吸ってるじゃん?

 だから俺は吸い続けたんだよ。


 別に辻野さんの匂いを堪能しようとか、辻野さんの反応が面白いとかは思ってないぞ?

 思ってないからな!!


「……その節は申し訳ございません……」

「い、いや別にいいよんだよ?その……さ、さっきも言ったけど……嬉し……かったし……」


 嬉しいような嬉しくないような……。

 複雑な感情が脳裏で渦巻くが、本人が許してくれるというのなら良いのだろう。

 良かったな!過去の俺!


 中学時代の俺の首根っこを掴む俺なんて他所に、「でも……」と言葉を続ける辻野さんは真剣に俺の瞳を見下ろす。


「今はもう……吸わないんですよね……?」

「まぁ……うん。吸わないね」


 俺は前人未到の反応を目の前にしているのかもしれない。


 この世の女子高校生の殆どは……いや、女子高校生は好きな人以外に胸で息を吸われたくないはずだ。


 男である俺ですら分かってしまうほどにその行動は……中学の俺には申し訳ないが、かなり気持ち悪い。


 でもなぜ、目の前の女子高校生は俺の言葉を聞いて残念そうにしているんだ?

 いやまぁ痴女なんだから当然とも言えるんだろうけど……それでもだろ!


「やっぱり私のこと、嫌いになったんですか……?」

「……なんでそうなるんだよ……」

「だ、だって!中学生の頃に比べれば確実に距離は離れましたし、私が近づいてもそれ以上のことはしてくれなくなったし……!」

「これが普通なんだよなぁ……」

「私の中の普通はこんなのじゃありません!もっと……こう……刺激的です!」


 目頭を立てて紡ぐ辻野さんなのだが……うん。


「…………そか」


 確かに中学生の頃と比べれば物理的距離は離れているだろう。

 それでも近いぞ?充分近いぞ?その辺のカップルよりも近いぞ?


 だってほぼ毎時間体くっつけてるんだぞ?俺達。

 今朝だって抱きつかれて寝てたし……。


「なんですかその反応……!私は至って真剣なんです!嫌いになったんですか!!」


 タイミング悪く鳴るチャイムと一緒に廊下に響く辻野さんの声。


 うちの学校には俺達以外に生徒がいないのか?と思ってしまうほどに人が歩いていない廊下は不意に静まり返る。


「……嫌いになってねーよ。嫌いだったら一緒に晩飯も食わねーし、こうして一緒に話すこともねーよ……」

「じゃ、じゃあどうして……!どうして私の体を触らなくなったんですか……!!」


 この雰囲気だから許される質問であって、教室のど真ん中で突然聞かれては大問題の質問。

 そんな質問を至って真剣に聞いてくる辻野さんは俺の顔の横にある拳をギュッと握る。


「…………辻野さんの体が成長したからだよ」


 なぜ俺はこんなことに答えを出さなくちゃいけないのだろう。

 てかなんだよこの状況!今朝からの差がすごいなこいつ!!


 スッと視線を逸らしながら答えを述べる俺に、辻野さんは不意にキョトンと首を傾げる。


「成長した……ですか?」

「……分からんのかい。ちょっと自分の胸に手当て考えてみろ……」


 そんな俺の言葉に素直に従う辻野さんは床から右手を離して自身のたわわな胸に当てる。

 ……が、首を傾げるばかりで答えは見出だせていない様子。


「……それ、デカくなっただろ」

「それ?もしかしてむ、胸のことですか……?」

「……そだ」


 俺が答えを促してやっと分かってくれたらしい。

 刹那に赤くなる辻野さんの顔はふいっと背けられ、胸に添えていた右手は勢いよく俺の両目を塞ぐ。


 たわわなものを掴んでいたからだろう。

 若干温もりが残るその右手に目の疲れを飛ばす俺はなんの抵抗もせず、続けて言葉を紡ぐ。


「辻野さんも女性らしくなっただろ。だから自重してるんだよ。……セクハラで訴えられたら嫌だし……」


 本当の理由はラッキースケベが意図的に狙えないからなんだが、ある意味これも本音。

 というか最後が1番の本音だ。

 このご時世、いつ訴えられるか分からんからな。


「……別に訴えません……」

「口だけは簡単だ」

「本当です。なんなら私、のためなら崎守くんにすべてを捧げれます」

「……『この感情』ねぇ……?」


 一体どの感情のことを言っているのかは知らん。が、碌なものじゃないんだろう。

 伊達に数年間一緒にいるからな。こいつの考えてることは大体分かる。


「ちなみにどんな感情なんだ?」


 真っ暗な視界の中、念の為に問う。

 ほんの出来心で。ほんの少しの興味を胸に。深いこともなにも考えず。


「どんな感情……ですか……?」

「うん。『怒りが湧く』だとか『憂鬱になる』だとか」

「そう……ですね……」


 不意に視界が良好になる。

 眩しくなった視界の先で辻野さんは顎に手を当て、なにとなしに聞いた俺の質問を真面目に考え始める。


 ――この瞬間に俺が止めとけば……いや、そもそもこんなことを聞かなければよかった。


 顎から手を離した辻野さんは小さく首を傾げ、ジッと俺の瞳を見据えたかと思えば、突として己の胸に手を当てた。


……と言えば良いんですかね……?」


 その赤らめた頬。その釈然とできず下げた眉。その抑え込むような感情。

 見たことがあるその動作に、俺は目を見開かざるを得なかった。


「崎守くんを触っている……喋っている……近くにいる……。なんかこう、崎守くんが居たら楽しい……?嬉しい……?そんな感情が湧き上がるんです。私はこのよくわからない感情を知りたいんです!」

「…………」


 ただ無言だった。

 というか無言でしかこの場をやり過ごせない気がした。


 なにか言葉を発せれば口を滑らせてしまう。

 なにかアドバイスをしようとすれば答えを言ってしまう。


 そんな可能性を前にして、口を開くほど俺はバカじゃない。

 そして、この少女のこの感情に気づかないほど俺は鈍感じゃない。


「……そか、頑張れよ……」


 数秒の思案の末、やっと出せたのはそんな言葉。


「うん!」


 ……きっと、こいつの中にはまだが健在してるのだろう。

 元気よく縦に頭を振る辻野さんは満面の笑みを浮かべ、やっと俺の上から退いてくれる。


「崎守くんも手伝ってね!」

「…………おう」


 辻野さんの言葉に小さく言葉を返した俺は体を起こし、スッと視線を逸らした。


 この鈍感さ。この純粋さ。まるでなにも気づいていない姿。

 これを見れば嫌でも分かる。


(…………)


 この年まで誰かに恋することがなかったのか?と言いたいところなのだが、未だにピュアが健在するやつだ。


 そしてコウノトリが子どもを連れてくると思ってるやつだ!そんなやつにこれまで好きな人がいるわけがないじゃないか……!!


 脳内で頭を抱える俺は、付いてるのか付いていないのかも分からないホコリをはたき終えた辻野さんの前を歩く――


「休日だぁ!」

「今日カラオケ行こうぜ!」

「学校来る時美味しそうなクレープ屋さん見つけたんだよね!」


 ――並べられた教室から次々に顔を出す生徒の姿。


 俺達が……いや、主に辻野さんが楽しんでいる間に帰りのHRが終わったのだろう。

 思わず立ち止まってしまう俺の隣を楽しげに話す生徒たちが続々と通り過ぎる。


「……急ぐか」

「う、うん……」


 嫌な汗が背中を伝う中、生徒たちの隙間を潜り抜ける俺は足早に歩いた。

 もちろん辻野さんのことについても考えながら。

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