第5話 弱みは握られせないよ

「(焼きが食べたいです)」


 刹那、慌てて左耳を抑えた俺は少女から顔を離した。


 当たり前のように目を見開き、履きかけだった靴はあまりの驚きに踵を踏んでしまう。

 そして先程転がしたカバンのように勢いよくぶつかってしまう俺の体。


 見るも無惨なほどの驚きを披露した俺は今、今日1番の心臓の高鳴りを感じていた。


 だってそうだろ!わざわざ『すき焼き』の『すき』の部分を強調して言ってきたんだぞ!?


 好意がないと今日再確認したはずなのに、こいつはあたかも好意がありますよと言わんばかりの言い方をしてきたんだぞ!?驚かない訳が無いだろ!!


「ゆ、優夜……?」


 そんな俺を心配したのだろう。

 こちらに歩み寄ってくる母さんは俺の肩に手を添え、「怪我はない?」と心配の言葉をかけてくれる。

 勝手に了承すること以外はほんっとうに良い母さんだ。


 そして目の前の俺をここまで脅かした本人はというと、まんまるに開いた瞳をこちらに向け、心配の言葉をかけたいのかかけたくないのか、パクパクと口を動かしていた。


(……まさかこいつ、無自覚でやったとでもいうのか……?)


 そんな疑問が浮かび上がる中、やっと腰を上げた辻野さんは俺の元へと歩み寄り、


「だ、大丈夫……?」


 眉尻を下げて言ってくる。


 ――大丈夫なわけねーだろ!!!!


 と、言いたいところだが、本気で心配してくれているのだろう。

 目の端に薄く伸びる涙と、アワアワと右往左往する辻野さんの両手。


 生憎そんな少女を目の前にして怒鳴るほどの威勢は俺には備わっておらず、小さな息を吐いた俺は耳を抑えていた手を離し、何事もなかったかのように腰を上げた。


「全然大丈夫。いきなり囁かれたからびっくりしただけ」

「……そういえば優夜、耳弱かったね……」

「余計なこと言わんでいい」


 母さんの謎の付け加えに軽くツッコミを入れた俺は踏んでいた踵を戻し、改めて靴を履き直す。


「それじゃあ辻野さん。いこっか」

「あ、えっ、う、うん!」


 状況が状況だからか、思考が追いついていないでいる辻野さんは戸惑いの言葉を返し、扉に向かう俺に釣られるように腰を上げた。


 その顔に心配な顔や薄く広がっていたはずの涙はなく、それどころかどことなく嬉しそう。


(……まさかとは思うが、俺の弱みを握れて嬉しいとか……?)


 流石に考えすぎか。なんてことを思いながらドアノブを捻って太陽の光に髪の毛を当てた。


「んじゃいってきます」


 振り返ることもなく紡ぐ。

 さすれば返ってくるのはテンプレのような言葉――ではなく、


「あ!別に泊まっていいからね!」

「……泊まんねーよ」


 そんな言葉を残した俺は辻野さんが玄関を潜ったことを確認して扉を閉めた。「いってらっしゃい」という母さんの声を遮るように。


「と、泊まらないの……?」

「……逆に泊まってほしいの?」

「1人だから……ちょっと怖いなって……」

「大体1人じゃないのか?」

「そうだけど……」


 俺の問いかけに複雑そうな言葉を返す辻野さん。

 そして仲がいいからこそ、これ以上責め立てることはできない。


 というのも、こいつの家庭環境は少々複雑だ。

 小さい頃に家庭内暴力で父さんと母さんが離婚し、辻野さんは母さん1人で育てられたたった1人の子供。


 そのせいで家に母親が帰ってくることも中々なく、辻野母が言っていたのだが、かなり物寂しい思いをしていたんだとさ。

 そんなことを聞かされてしまえば善良の俺は飯を食ってすぐに帰るということもできず、


「…………分かった。辻野さんが寝るまでは家にいてやる」

「――っ!ほんと!?」


 これまた見えないはずの犬の耳が跳ね起きるように、分かりやすく喜びを見せる辻野さん。


 しおらしかった眼は後頭部にある太陽のように眩しく、心做しか、腰のあたりからはブンブンと横に振れる尻尾が見える。


「ただ!ほんっとうに寝るまでだからな!!それ以降は何時だろうが帰る!」

「じゃあ私がずっと寝なかったら帰らないってこと!?」

「…………是が非でも寝てもらう」


 なぜそんなに嬉しそうに言ってくるのかは分からんが、次からはちゃんとルールを事細かく説明しなければならんな……。


 次も穴を突かれたら困る。というか次はねーよ!今日は押し切られたが、元から行くつもりはねーし、なんなら飯食ったら速攻で帰ってやりてーよ!!


 悶々と断りきれない自分に怒りを覚える俺なんて他所に、背伸びをする辻野さんは――


「(ありがと)」


 ――口元に両手を当て、突然耳元で囁いてきやがった。


「おう」


 しかし残念!車にかもしれない運転があるように、俺はこの状況を読んでいた!!


 耳元に手を添えたままの辻野さんに平然と言葉を返した俺に、辻野さんはこれまた分かりやすく目を見開いて驚きを表現させた。


「み、耳が弱点なんじゃ……!」

「んなもんとっくの昔に克服してるよ」


 悠然と紡ぐ俺はニマニマと浮かべる笑みをやっと顔を離してくれた辻野さんに向ける。

 そうして返ってくるのは不服気に大きく頬を膨らませた辻野さんの顔。


 フグのように膨らんだその頬から感じるのは『面白くない!』という言葉。


 どうせこいつは俺の驚く姿を拝みたかったのだろう。だが残念!俺はラッキースケベを意図的に狙ってた人間だぞ!

 痴女の手のひらで踊らされるほど軽い男じゃねーよ!!


 更に丸みを帯びていく辻野さんの頬を視界に収めながら、遠くも近くもない辻野さん宅へと向かって歩く。


(というかあの時のこいつ、まじで俺の弱みを握れて嬉しかったのかよ)


 嘲笑う瞳の奥でジト目を向ける俺は、肩と肩が触れそうな距離で歩く。

 思い通りに行かなかった辻野さんを見下ろしながら。

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