第11話 迷いの森の出口はどこにもない
午後七時。礼美は自宅電話の前に椅子を置き、受話器を手に取る。
この時間なら電話に出られることを、十数年の夫婦生活で覚えていた。
秀樹は勤務時間中に電話をされることを嫌う。
コウキが四才の頃、秀樹の休憩時間に電話をしたら「くだらないことで電話をしてくるな!」と、ひどく怒鳴られた。
コウキが熱を出したから病院に連れていきたい。保険証は秀樹が持っているからコピーをFAXで送ってほしい……という用件が秀樹の中では“くだらないこと”に分類される。
それ以来、コウキの保険証は礼美が持つようになった。
八回コールしても出ない。
ビジネスホテルに泊まると言っていたから、夕食中、もしくはシャワーを浴びているのかもしれない。
そう考え、十分後にもう一度かけてみたけれど出なかった。
三回目をかけるかどうか、迷ってしまう。
会話はキャッチボールというけれど、秀樹との話は一方的に暴言を投げつけられるドッジボールと化す。
それもただのボールではなく、剣山のような棘だらけの鉄球だ。
ーー貴女とコウキくんは人の顔色を気にしてばかりいる。
初田に指摘されたことを思い出して、礼美は顔を手で覆い自嘲する。
そう、礼美は子どもの頃からずっと、人の反応に怯えて生きてきた。
両親が離婚したあと、母が礼美の親権をとった。
母が礼美を引き取ったのは、愛ゆえではない。
養育費が欲しかっただけ。
父が礼美のために送ってくれた養育費は全額、母の煙草と酒になった。
電気とガスがたびたび未払で止められ、風呂もまともに入れない。
礼美はサイズが合わなくなったTシャツ二枚をローテーションで着るしかなく、いつも薄汚れていた。
母の機嫌を損ねると、一日一食の食事すら抜かれた。
だから礼美は常に母の機嫌をうかがうのに必死だった。
古いアザが消える前に、新しいアザができる。
母は服を着ていたらわからない位置にばかり攻撃してきた。
酒も煙草も摂取しない真面目な人と結婚すれば、そんな生活から逃げられると思ったのに。
きれいな服を着られるようになった。
毎日三食ご飯を食べることができる。
秀樹は機嫌が悪いと、全部礼美のせいにして当たり散らす。
言葉でつけられた傷は目に見えないだけで、確実に礼美を刺していた。
(コウキのためにも、ちゃんとこれからのことを話し合いたいのに。家庭をかえりみてはくれないのね)
秀樹も礼美を好いて結婚したわけではない。
世間体のため。
いい年した男が結婚していないのは世間から見てよろしくないから。
それだけのために礼美と結婚した。
昔友だちが貸してくれたマンガのような、仲睦まじい家族というものに憧れはあったけれど、所詮マンガは作り話。
こっちが礼美の現実だ。
この、氷のように冷えきった家庭が礼美の家族。
ようやく折り返して電話をくれたときには八時をまわっていた。
『何か用か』
「コウキの治療のことで話がしたいの」
電話越しでもわかる、あからさまに不機嫌そうな声に背筋が冷たくなる。
チっ、と短い舌打ちが聞こえた。
「このままではコウキのためにならないのは、あなたもわかるでしょう? だから初田先生にお願いしたわ。生活の改善と集団トレーニングが必要だと言われているの」
電話の向こうではパソコンのキーボードを叩く音が絶え間なく聞こえている。
(息子の将来を左右するという話なのに、真剣に聞くつもりがないのね)
受話器を握る手に力がこもる。
礼美はここ最近、秀樹と夫婦を続けるのはコウキのためにならないのではと考えている。
こんな親なら、いないほうがいいのではと。
離婚したところで親権を取れる可能性は五分五分。
礼美が結婚後ずっと専業主婦だったこと、経済的に子どもを育てられないことを指摘されれば、親権と養育権が秀樹に渡る。
初田に相談すれば、打開策をもらえるのではと考えて、思い直す。
ただでさえコウキの治療で負担をかけているのに、治療と関係のない部分で迷惑はかけられない。
出口のない迷いの森の中にいるような……そんな気持ちになってくる。
正解を示す羅針盤が狂って、延々と回り続けている。
渦巻く負の感情をのみこんで、礼美は初田に提案された治療方針の説明を終えた。
「ーーということなの。これでコウキの心の負担が軽くなるなら……」
『許可しない』
たった一言の短い答え。
聞き間違うはずもないけれど、耳を疑った。
「許可しない? どうして」
『心が疲れている? そんなの怠惰な者の言うことだ。ウツだの不眠症だの、心の病ってのは全部甘えだ。オレは三十八度の熱があっても出社するぞ。コウキにはこれまで通り勉強だけさせておけばいいんだ。学力が落ちても医者は責任を取ってくれないんだぞ』
「学力の心配より、コウキの体の心配をして」
『話は終わりだ。クソ医者に二度も騙されやがって!』
一方的に電話を切られてしまった。
ツー、ツー、という音だけが虚しく繰り返される。
「母さん」
「ああ、ごめんねコウキ。うるさかったよね」
自室に戻っていたはずのコウキが、いつの間にか礼美のそばにきていた。
コウキに聞かれてしまったかもしれない。秀樹がまだ勉強を押し付けようとしていること。心の治療を理解していないこと。
「…………これ」
「なあに?」
渡されたのは、ホットミルクだった。
ずっと渡す機会をうかがっていたのか、カップは少しぬるい。
「先生が、毎晩寝る前に作って飲めって。心が落ち着くって、レシピをくれた。作りすぎたから、母さんも」
コウキの表情はかたくて、お世辞にも笑顔とは言いがたい。それでも不器用な優しさが伝わってくる。
目の前がにじんで、礼美は声をあげて泣いてしまった。
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