第12話 正気と狂気の境目はどこにある?
初田ハートクリニックは、十二時から十四時の間は休診だ。
この時間、ネルは玄関のガラス戸を拭いて、玄関周辺の掃き掃除をする。
「ふんふんふん~。キラキラピカピカにしましょうね~」
鼻歌を歌いながらのんびり窓を拭き上げる。とおりかかるご近所さんと、笑顔で挨拶をかわす。
「こんにちは原さん。今日は気持ちがいい天気ですねぇ」
「そうね、ネルちゃん。お洗濯ものがよく乾きそう」
「えへへ。そうですね。せっかくだからお昼寝用のおふとんも干そうかな」
クリニックの仮眠室には、ネルの快眠グッズがそろっている。ふとんだけで三種類。枕もビーズ素材、ソバガラ、羽毛といろんな種類がある。その日の気分でお昼寝布団を変えている。
ネルの主治医がナルコレプシーの治療として、日に一回以上の昼寝をすすめている。それをうけて初田が昼寝を許可していた。だからネルはお言葉に甘えて、思う存分昼寝している。
そろそろ掃除を終えるというところで、スーツを着た背の高い男がクリニックの玄関先に立った。
見た目は五十歳になるかどうか。高そうなスーツなのに、アイロンがけがされていなくてしわがよっている。
眉間には深いしわが刻まれていて、普段から難しい顔をしているのが見て取れた。
「今は診療時間外ですよ」
「わかっている」
男は苛立たしげに吐き捨て、ネルを見下ろす。
患者ではない。ネルはクリニックに来る患者全員の顔を覚えている。
新規の診療希望の患者、というわけでもなさそうだ。
「初田とかいう医者はどこだ」
「先生に、どういったご用ですか」
ネルはポケットに手を突っ込み、子供向け見守り携帯の短縮ダイヤルボタンを手探りで押す。短縮一番には初田の携帯が登録されている。
初田ならどうにかしてくれると信じて、そのまま男と会話を続ける。
「コウキの治療は必要ないと言ったはずだ。なのにまだ診療方針だかなんだかの説明をしたそうだな。詐欺として警察に言ってもいいんだぞ」
「あなたは、中村コウキくんのお父さんですか」
精神科も立派な医科。こんな風に罵られるいわれはない。
「詐欺ではありません。初田先生はコウキくんのお母さんに依頼されて診察をしています」
「一家の決定権は礼美でなくオレにある。オレが駄目だと言ったら駄目だ。二度とコウキに関わるな」
今回あえて電話でなくここまで出向いたのは、音声データを児相に持ち込まれたくないからだ。ネルはすぐに察した。
「これはこれは。ようこそ中村さん」
「な、なんだお前、その奇っ怪なマスク! いや、その声、お前が初田か」
初田がクリニックの扉を開けてでてきた。
指先で扉の向こうを示して、ネルに避難するよう無言で伝える。
ネルは小さくうなずいてクリニックに戻る。扉を閉めてすぐ受付カウンター内の電話に手を伸ばした。
クリニックの外では、初田と秀樹が対峙する。
秀樹は道の中程に立ち止まっている。人々が迷惑そうな顔で秀樹を見て、よけて通る。
「治療方針をわかっていただけなかったようで、残念です」
「治療? ふん。ヤブ医者め。虫だか動物を殺すのなんて、一時的な反抗期ってだけだろ。コウキに治療なんて要らん」
「どうしてそう言えるんです」
「は?」
初田は素朴な疑問を投げかける。
「正常と異常の境目が、医者でもないあなたに判断できるんですね。精神医学の道二十年の精神科医でも判断が難しい病気が多いのに。差し支えなければ見分けるコツを教えていただきたい」
素人判断で
勝手に治療を放棄するのは、何よりも危険な行為だ。
「ぐ、お前に言う必要ないだろう! 変なマスクをかぶった怪しい人間が医者だなんてイカレている! オレはお前みたいな常識のない馬鹿が大嫌いなんだ!」
「医者がウサギのマスクをつけて生活してはいけないという法律でもあるんですか? 六法全書の何ページに載っているのでしょう」
初田は当たり散らされてものらりくらり。秀樹の怒声にひたすら正論を返す。
「載っていないが、そんな変なものをかぶって生活するのは非常識だろう!」
「あなたの常識に従わせることができるのは家族だけですよ。わたしはわたしの思う常識の中で生きている。指図したければ政治家にでもなって、【ウサギマスクをつけて生活したら禁固五年罰金百万円】とでも法案をつくってください。いち日本人として、法律には従いますから」
放たれる毒舌鉄球を、初田が爆竹にして打ち返す。
秀樹があまりの剣幕で叫んでいるから、
「初田先生。何事ですかな」
「見ての通り、怖い人に絡まれています」
「そうですか。すみませんが少し話をさせてもらお……」
秀樹は分が悪いのを察し、足早に立ち去っていった。
追おうとした巡査部長を引き留めて、初田は仲裁に入ってくれた礼を言う。
この人の母親は初田の患者だ。不眠症の通院治療をしている。
精神医療を必要とする人の症状はピンキリ。
コウキのように特殊なケースもいれば、ネルのような過眠症の人もいる。職場になじめず適応障害になる人も少なくない。大人になってから発達障害だと判明する人もいる。
偏見を持つ人間を納得させるのは難しいものだと、秀樹と会話して改めて感じる。
話を終えてクリニックに戻ると、心配そうな顔をしたネルが駆け寄ってくる。
「先生、大丈夫でしたか」
「ありがとう、根津美さん。警察を呼んでくれたんだね」
「いえ……」
いつもなら昼寝をしている時間なのに、この騒動で眠れていない。
足元がおぼつかなくなっていた。
ネルの症状が悪化してしまわないかどうか、それだけが気がかりだ。
「今日の午後診療は三時に来る亀田さんが最初だから、それまでは寝ていなさい」
「そう、します」
ネルはふらふらしながら仮眠室へと消えていった。
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