第10話 中村コウキの日記1 世界の色が変わる

 中村コウキにとって、一日というのは勉強しているか寝ているかくらいしかなかった。


 食事を楽しむというのはよくわからない。

 礼美が作ってくれたものを食べるだけ。

 外食をしようにもお小遣いというものを渡されていないし、学校以外の時間は塾にあてられているため、バイトもできない。


 一生、このつまらない毎日を繰り返すだけなのだと思っていた。




 けれど今日からは違う。

 何をして何を感じたのか、全部日記を書くと約束したからだ。


 目覚まし時計で七時に起きて、階下に降りると礼美が挨拶してくる。


「おはようコウキ。今日の体調はどう?」

「……まあまあ」


 初田と約束したから、寝る前二時間の参考書を読んでいた時間の半分を睡眠時間にあてた。

 いつもより一時間早く寝ただけ。

 だが、視界がいつもよりクリアな気がする。


「コウキ、お昼はこれを一緒に作ってみない?」


 礼美は新聞のコラムに載っていた、【子どもとできるかんたんオムレツレシピ】という記事を指す。視線は少し自信なさげ。

 コウキには母の顔色がいつもより良いように見える。


「俺、作ったことないから、美味しくできないと思う」

「誰でも最初はそうよ。私も料理を習い始めたときはよく焦がしていたもの」

「へぇ」


 中村家の食卓に並んでいる料理はいつも普通。コウキが覚えているかぎり、焦げているところを見たことはなかった。


 朝食は焼き鮭、おひたし、フルーツヨーグルト、玄米ごはん、味付け海苔……。これも書いてたほうがいいのか悩むけれど、怒らないし好きに書いて欲しいと初田は言っていた。


 少し勉強したら、テレビ番組を見ながらストレッチ。

 腕と足を伸ばしたまま静止するだけなのに息が上がる。

 ストップウォッチをセットして、礼美と散歩に出た。


 秋を探すというのは何だろう。

 文字?

 商店街には、【新米入荷】というのぼりがそこかしこに立っている。


「母さん。これは秋?」

「そうね。お米がとれるのは秋だから。今朝のごはんも新米なのよ」

「どう違うんだ」


 新しくない米と新しい米の違いを考えて食べたことなんてなかった。


「うーん、お米の違いは自分の舌で感じることだから……同じお米でも、とれたてとそうじゃないのでは味が少し違うの」


 米の味は目に見えない秋。

 今度は味の違いを考えながらごはんを食べてみよう、と日記に書き足す。

 電車に乗って、初田がオススメしていた植物園に行ってみる。


 温室もある、わりと広めの場所だ。

 入り口でもらった園内パンフレットを広げながら、歩く。


【秋限定、世界の薔薇祭開催中】


 柔らかな香りが鼻に届く。

 不思議の国のアリスの絵本に出てきた、白薔薇に赤インクを垂らしたような薔薇を見つけた。

 秋咲きの品種、と立て札がついている。

 

「これは秋?」

「ええ。今しか見られない秋ね」


 薔薇の花のことも書き込む。

 目の前をトンボが横切った。見上げれば十匹ほど園内に飛び交っている。


 不思議と、今日は捕まえて千切ろうという気にならなかった。


(そういえば他の季節、こいつらはいたっけ?)


 チェシャ猫と同じで、見ようとしなければ見えない。初田の言葉を思い出して、もう一度園内の薔薇に視線を向ける。


 視力が変わったわけでもないのに、いつもより景色が鮮明に見えた。




 家に帰ってから、足が震えて棒のようになっていることに驚いた。

 

 徹夜で勉強をしたときのような、嫌な疲れではない。


「コウキ、たくさん歩いたから疲れたでしょう。はい、ホットココア」


 ダイニングの椅子に腰を落ち着けて、ココアに口をつける。

 秋物のコートにマフラーを巻いていても、体が冷えていた。


 暖房が効いてきて、部屋も徐々に暖かさを取り戻す。


「休憩したらお昼ごはんを作りましょうね」


 礼美は腕まくりしてどこか楽しそうだ。

 新聞を切り抜いたレシピがテーブルに置かれていて、カラーマーカーでいくつか線が引かれている。


 いつも何も考えず食べているだけだけれど、レシピを見ると手順が割と多い。


 コウキは面倒だと思ったが、礼美は毎日三食、こういうものを何品も作っている。

 秀樹が何かとうるさいから。



 また一つ、視界がクリアになったように感じる。


 少しの休憩のあと、コウキは礼美に聞きながらオムレツを作った。

 焦げ目のある見栄えの悪いオムレツを、礼美は美味しいと言って泣きながら食べた。


 コウキも、生まれて初めて自分で作ったオムレツを食べる。

 舌触りは悪いしうまく混ざってないから、一部やたら塩気が強い。


 そのことも日記に書き込む。


「不味い。次はもっとうまく作る」

「次も作ってくれるのね」


 こんなに不味いのに、礼美が美味しいと言う理由がわからない。

 


(わからないけれど、美味しい、すごいねと言ってもらえたことは胸がむずがゆくなる)



 気がつけば今日一日感じたことを書いた日記は、まるまる三ページを使っていた。

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