第2話
少女に手を引かれて、カタリナは夜の森を歩いている。
人の手の入っていない森は、昼でも夜のように暗い。じゃあ夜はどうなるかというと、夜よりもっと暗い。ずっと目を閉じているかのような有様で、カタリナはすでに自分の手足すら見失っている。先ほどはたまたま、上空に枝のない開けた場所だったがあんなスポットは森の中にはそうそうないようだった。
少女は何故かこんな状態であっても、方角も足元も分かるらしく時折『このあたり段差があるから気を付けて』『枝がとがってるから気を付けて』と忠告してくれる。おかげでカタリナはなんとか無傷でいられた。
先導する少女は機嫌がよさそうだ。
ぼんやりとあとをついて歩いていると、ここでカタリナは重大なことに気が付いた。彼女は見るからに先住民だ。先ほど、月明かりの中で見た彼女は先住民特有の厚手の前掛け……服というには簡素すぎる、大判の布に頭を通す穴をあけて、体の前後に垂らしただけのようなもの……と巻きスカートを身にまとっていた。どちらにも緻密な幾何学模様が織り込まれており腕には金属製らしい鈍く光る輪をつけている。今つないでいる手も水仕事などしていなさそうなすべすべしたものだ。これらから導き出される結論として、彼女は労働者階級ではない。女性だから軍属関係でもない。そうなるとあとはひとつ。
『私はどこに連れていかれるんですか?』
『
最悪の予想が当たってしまった。
彼女は先住民で、そしてイルミナのように布教学校へ通っているわけでもない。つまり彼女の言う神殿は、教会でも修道院でもなく彼らの信じる神、カタリナらの言うところの悪魔たちの巣窟だ。
噂によると、ニカ教の神殿は大量の
『ぼくは、ええっと、これから、殺されるんですか……』
『ええ?』
『だって、生贄にされるって……』
『きみって生贄になりたいの?』
なりたい訳がない。首を勢いよく横に振って拒絶を示すと、少女はくすくす笑った。
『よかった、せっかく拾ったのにすぐ出て行かれたら困るもの。そのために君を拾ったんじゃないし』
『じゃあなんのために……』
『君に歌ってもらいたいから』
「え?」
『君の歌が、私には必要なの』
『……ぼくは歌ってもいいってこと?』
『歌ってもらわないと、むしろ困るかも』
少女の笑い声は麦の若い穂のようにやわらかくカタリナの喉をくすぐった。そこからどっと、熱のようなものが身体中に走った。手足がずんと重くなって、地に足がついた感触を久しぶりに味わう。不思議なことに、袋に詰め込まれて運搬されてる最中からずっと失われていた現実感が、彼女の夢みたいな言葉のせいで戻ってきたらしかった。
『うん……歌う。なんでも歌う、よ』
喉の熱が声をみっともないくらいに震わせた。少女は首を傾げたが、目的地に近づいてきたらしく足を早めた。
神殿は夜の森の中から見てもひどく目立った。何せ、とうに太陽の沈んだ時間だというのにそこだけ煌々と明るいからだ。木々の隙間から神殿の一部が覗いた時、すわ火事かとびっくりしてしまったほどだった。その神殿を前に、少女は茂みに隠れて様子を伺っている。カタリナもつられて身をかがめて声を低くした。
『……なんで、隠れてるの?』
彼女がアレホであれば、ここは敵地だ。すぐさま突撃するのではなくまずは状況観察をというのはわかる。だがここは彼女のホームではなかったのか。
『面倒なのに捕まりたくないんだよね』
『面倒なの……』
『すっごく面倒。ヒルみたいにしつこいの』
『おやおやぁ。そんな風に言われてると知ったら
「わぁ……っ!?」
飛び上がって驚いた。いつのまにかカタリナたちの背後に若い男がいたからだ。少女を真似るみたいに茂みの影に身を隠すような素振りはあるが、成人男性なので全然隠れていない。
真っ黒な貫頭衣を着て真っ黒な布で髪の毛を覆った男は新世界人らしい褐色の肌で、つまり夜に溶け込みそうなほど暗い。音がしなかったのもあって、突然その場に滲み出てきたみたいだった。
『ウイル……! いつのまに』
『
『サボってない。あれは私の仕事じゃないって何度言ったら分かるの、あの人。そろそろボケてきたんじゃない』
『……誰がボケてきたのかね』
低い声が割って入ってきた。振りあおぐと、神殿の方から黒い男が大股で歩み寄ってきたところだった。先ほどの青年と同じような格好だが、黒衣の仕立が良いせいか上背があるせいか身分が上の方に見える。
『丁度あなたの話をしてたよ。そろそろ後進に道を譲ってはどうかってね』
『それはお前の口出しするところではない。……どこから攫ってきた』
低い声の男と目が合う。男の顔にはよく見ると幾重にも深い皺が刻まれており、なるほど壮年から老年に差し掛かっているようだった。しかし彼の表情は厳然としており、老齢特有のぼんやりしたところは感じられないどころか理性と意思の強さをその渋い声に滲ませていた。しかつめらしい顔は見るだけで膝がすくむほど恐ろしい。カタリナは思わず少女の背中に隠れた。
『攫ってなんかない。人聞きが悪いよ』
『ということは拾ってきたんだな。元の場所に返してきなさい』
『ノパパ、私に指図しないで。この子は私が花巫としてやっていく上で必要だから連れてきたの』
『お前は花巫ではない。
『私はここの花巫。ノパパがなんと言おうとね』
とげとげしい会話を一方的に打ち切り、少女がぐいっとカタリナの腕を引いて立たせる。腕を組んで見下ろす厳しい顔の男はまだ話が終わっていない、と少女を引き留めようとしたがすでに少女は走り出していて、カタリナは足をもつれさせながらついていくことしかできなかった。
茂みの中からでは見えなかった神殿は、背後に巨大な石のピラミッドを控えさせていた。小山のようなそれは、遠近感が狂うほどに大きい。貴族の屋敷くらいの高さがある文字通りの台形で、上底へと続く階段には転々とともしびが焚かれていた。こんなに火を焚いているなんて今日はお祭りでもあったのだろうかと思いながら、舌を噛まないように口を引き結んでカタリナはついていく。
ピラミッドに比べると、神殿そのものは質素だった。貧相で、拍子抜けしたと正直に言ってもいい。カタリナが危惧していたような髑髏や人骨はなく、きれいに掃き清められた、これまた石組みの四角い建物の中に少女は駆け込んだ。神殿内部は、これもまた質素だった。神殿というからには貢物で中は金銀財宝、色とりどりの宝石に満ちているだろうという予想を裏切り……これはカタリナが特別欲深いのではなく、旧世界人がニカ教の神殿に抱いている一般的なイメージだ……ところどころに毒々しいほど鮮やかな花が飾られている他は松明で灯りがともされているばかり。かろうじて寒々しいとは言えないが、これだったら修道院のほうがまだ内装に凝っていると言いたくなるほどだった。
少女はいくつかのホールを通り過ぎ、明らかに人が住む区画へとずんずん進んでいく。カタリナが立ち入っていいのだろうか、でも手を掴まれているからどうしようもないし……とうろたえていると、少女はついに目的地に到達したようで足をとめ一室に入った。
小部屋だ。部屋の片隅には植物のマットが敷かれてブランケットのような大判の布が畳まれている。それ以外は片隅に小さな棚があるきりだ。この部屋に灯りはなく、廊下から漏れてくる光と天井付近の小窓から差し込む月明かりだけが光源だった。
『ここは……』
『私の部屋! ちょっと待ってね……』
少女はがさごそと棚を漁り始めた。その背中を見ながら、やはりイメージと違うな、とカタリナは安堵するような、けれどどこか落胆するような気持ちを感じていた。棚は彼女の私物らしい、なんだか珍妙な象らしきものだとか、色合いのおかしな腕輪だとか、がちゃがちゃした奇妙な柄のヘッドベルトが並んでいた。
『これとこれ……とこれ。ちょっと持ってて』
『う、うん……』
『ああ、ごめんねさっきの。口うるさいのには今日くらいは見つかりたくなかったんだけど……まあいつもあんな感じだから、慣れて』
『そう、なんだ……』
修道士の中にはいつも怒っているような顔のおじさんもいるので、強面のおじさんにはカタリナもそれなりに耐性があった。それより、慣れてという言葉に少し引っ掛かる。だがそれより、ここに来て初めて少女の名前すら聞いていないことに気が付いた。
『さっきの、えっと……アハ……なんとかって名前?』
『
『じゃ、じゃあ……あなたの名前はなんていうの?』
なんて呼べばいいか、と尋ねる。変な質問をしたつもりはなかったのだけれど、少女が固まってしまった。何か失礼なことをしてしまっただろうか。異文化交流の難しさにカタリナは慌てた。
『……ご、ごめん、ぼくはカタリナ……キャスでもいい、よ』
『キャス? 変な名前。カタリナって呼ぶね。……私のことは好きに呼んで』
『えっ、好きにって言われても……』
新世界語の名前は難しい。カタリナがしゃべったことがある先住民というのは基本的にみんな洗礼名を持っていた。だから彼らの元々の名前を呼ぶことなんてほとんどなかったのだ。聞いたとしても、意味の取りにくい奇妙な音の羅列は三秒もたてば忘れてしまう。
カタリナがおろおろしていると、『本当になんでもいいの。君が知ってる名前で呼んでくれれば』と譲歩してくれた。そもそも最初から名乗ってくれれば困らなくて済むのに、とカタリナは理不尽を感じた。
それに何でもいいと言ったって、ここは異教徒の神殿だ。ここがいくら不気味さにかけるただの質素な石造りの建物であって、髑髏のひとつもないとしても、確かに悪魔信仰の本拠地なのだ。そこの関係者に自分たちの洗礼名、つまるところ聖人たちの名前をつけて呼ぶのは流石に心臓を取り出されても文句は言えない所業のような気がする。
まごまごするカタリナに、少女ははあーっと溜息をついた。
『じゃあ。マリンチェでいいよ。みんなそう呼ぶし』
『マリンチェ……よろしく』
『自己紹介ついでにさっきの人たちのことも紹介しておこうか。明日
『明日、から、も?』
『君の家は今日からここだよ。ノパパの辛気臭い顔なんて毎日見たくないのは同意だけれどね』
ノパパが嫌いなのか、堂々と悪口めいたことをいいながら少女が笑う。
二人の関係性より、今日からここに住むと決定事項のように言われてカタリナはぽかんと口を開けてしまった。
ただこれは、カタリナが少し考えれば分かるはずだったことだ。ここが先住民のどこの集落かは不明だが、マデラクルスから歩いて数時間とかかる距離だろう。そんなところに一人で通うなんて何をどうやっても無理だ。となれば、神殿の中とは言わずともその近くの集落に身を寄せなくてはならない。
でもまあいいか。カタリナはあまり深く考えないことにした。歌えるなら死んでもいいとまで考えているのだから、住むところが悪魔のすみかになったとしても大した問題ではない。
カタリナが自分を納得させている間もマリンチェは怒りが治らないようで、あいつめ!と地団駄でも踏み出しそうな勢いだった。
『ノパパの言うことは大体無視していい。特に花巫に関することについては聞かないほうがいいっていうか、聞かないで』
『ノパパ……って、名前?』
『役職。ノパパは神官長……正式にはそうじゃないんだけどね。ここで一番長い
「えっ……
旧大陸には教会の総本山があり、そこには最高位の司教がいる。カタリナたちの言葉でその司教を
だがすぐに彼らの言葉で神官という意味なのだと理解した。
『それでノパパは”私の神官”って意味。うちの神殿に来る人はみんな彼をそう呼ぶの』
『うちの神殿……』
『うちは
他の神殿、つまり他の悪魔を祀っている神殿ということだろう。一神教教徒のカタリナからすれば、祀っている神が異なるということはそれすなわち異教徒という感覚なので、他の神殿に気をつけろという言葉は割合すんなり飲み込めた。
『えっと……ノパパ、さんは分かった。もう一人いたよね。あの人は? ウ……なんとかさん』
『ウイルね。あれは
『ウィル……ウィル……さん』
『ウ
『若神官、は神官見習いとは違う?』
『全然違う。若神官は神事に関わるけれど、神官見習いなんて単なる小間使いでしかないよ。掃除だの洗濯だのって!』
私は花巫だって言ってるのに! とマリンチェが吠える。相当鬱憤が溜まっているようだった。それにしても、どこも下働きのやることは変わらないらしい。さっきのパパといい見習いといい、馴染み深いことが多くて少し安心した。これならやっていけるかもしれない。
『ウイルはノパパの金魚の糞……って言いたいところだけど、そうでもないかな。こっそり食事とっておいてくれるし、無理やり仕事押し付けても文句言わないし。でも結局最後はノパパの味方だから、あんまり信頼しないほうがいいよ』
『……な、なるほど』
マリンチェは案外アグレッシブな子のようだ。少なくとも食事を抜きにされるようなことをしでかすくらいには。カタリナは既に後悔し始めていた。この子についていったら自分もその余波を食らう気がしてならない。
そういえば、今日は朝から何も食べていなかったな、とカタリナは腹を押さえた。忘れていたはずの空腹がきゅるる、と腹の底でにわかに騒ぎ始める。
『ごはんって……』
『あの感じだと今日は夕食は抜きかも……恨むならノパパを恨んで』
『あう、う、うん』
朝まで我慢すれば食べられるのであれば、苦しいが我慢ができないわけではない。カタリナはそれなりに飢えにも耐性があった。
『あっ、でも時間があれば食べられるかも。そこはお祈り。……こんなものかな』
マリンチェが棚から抜き出した大小さまざまの端切れがカタリナの手に積まれている。多色織の布にはマリンチェの巻きスカートのような幾何学模様を織り込まれており、サイズも柄も色も統一感がない。
『さ、行くよ』
『え?』
『ここには一旦、これを取りに戻ってきただけ。君にはまず、見せてあげないとだから』
『見せるって……』
『花巫の仕事! 君には、私と一緒に花巫をしてほしいの』
先ほどから何度か出てきた花巫という単語が、まさか自分に降りかかるとは。しかし生贄という意味ではないようだし、マリンチェが自称しているのであれば身の危険はないだろう。カタリナは少しほっとした。
『花巫って……なに?』
『だから、それの説明のために見せるの』
君って血の巡りが悪い、とマリンチェが零したので、カタリナは肩をすぼめて小さくなることしかできなかった。
先ほど手渡された布はクアクトリといい、マリンチェたちの間では通貨代わりに使われているらしい。カタリナからすると布が通貨というのは変な感じだった。旧大陸人は銅貨や銀貨など金属製のコインを用いてやりとりするのが一般的だ。
慌ただしくやってきた神殿を、今度は急いで後にする。その中で、マリンチェはクアクトリについて教えてくれた。彼女の足は軽やかなのに、カタリナは慣れない森の道に空腹も相まってぐったりしはじめて気力だけで足を動かすのが背一杯だった。そのせいだろう、道中あまり意識がなかった。
意識がふっと戻ったとき、カタリナはまだ夜の森にいた。
意識が戻ったのはどこからか地鳴りのような低い鳴動を感じたからだった。
『なに……?』
『
『か、会場……あ、そっか……そういう……』
花巫の仕事を手伝ってくれと言われた。歌を歌ってほしいと言われた。
その二つがやっとカタリナの中で結びついた。
つまり花巫とは、歌にまつわる仕事なのだ。教会における聖歌隊のような。
つくづく、悪魔信仰は神の教えを真似るのが好きだな、とカタリナは妙に感心した。
『もうつくよ。ここかがんで、くぐって……』
道なき道が終わり……少なくともカタリナには道らしいものは分からなかった……、マリンチェに手を引かれて茂みのカーテンを抜けると、広々とした平野が広がっていた。先ほどまでの鬱蒼とした森が嘘のようで、遠くに山の影さえ見える。
けれどそれよりも異様なものが手前にあった。
まずそれは、火の山に見えた。暗闇の中に目が慣れ過ぎて、開いた瞳孔が光を散乱して見せたせいだった。落ち着いてみれば、ただ篝火で明るいだけだと分かる。だが先ほどの神殿とはくらべものにならないくらい……真昼のような明るさで、それが平野の端であるカタリナたちのところまで照らしているのだ。熱がここまで伝わってきそうだった。
光の山の周囲には、黒山の人だかりがあった。
近づくほどに、その多くは成人したむくつけき先住民の男たちで、腰巻の他に各々腕輪や耳飾りで着飾っているということが分かった。だが彼らは自分たちの一張羅を見せびらかすでもなく、一様に同じ方向を向いていた。嵐の前になると森の木立が風もなしにざわめくのに似て、彼らは言葉少なに、けれど何かを待ちわびて騒ぎ立てていた。
マリンチェとカタリナも小走りで群衆に混じったが、誰一人として二人のほうに視線をよこさない。みんな前方に釘付けだ。
『よかった、間に合った』
『花巫の仕事って……これが? この人たちも花巫なの?』
ノパパやミキナウィルのような黒衣の人間はいないし、厳かだった神殿と雑然としたこの場では雰囲気が違い過ぎる。
『花巫はこれから出てくるよ……あそこ!』
松明がひときわまぶしい一か所をマリンチェが指さす。
花畑だ、とカタリナは一瞬錯覚した。そうではないとすぐに気づく。神殿の裏手にそびえていた石のピラミッドを規模を小さく、高さを少し低くしたような、台形のステージだ。
そこに所せましと色とりどりの花が飾られ、その隙間を縫うようにして松明が林立している。それらが太陽のように、平野を明るく照らし出していた。
ステージの上は無人だった。
だが、突如一陣の風が吹いて周囲の明りが一斉に揺らいだ。炎の恩恵が、疑似太陽が陰り、夜が襲い掛かってくる。先ほどまでの明るさが仇となって、一瞬視界が陰り、けれど風が止めば今度は目がくらんだ。
きん、と耳の痛くなるような静寂が当たりを満たす。けれど、無言の喧噪はひどくなるばかりだ。カタリナたちよりも後に続々と人がやってきて、誰も彼も言葉ひとつ声ひとつ発さずに群衆に加わっていく。人波に押されるまま、カタリナはどんどんステージの近くへと流された。マリンチェが手をつないでいてくれなければ早々にはぐれてしまっていただろう。カタリナは必死になってマリンチェの腕に縋りながら、なんとか潰されないように、呼吸がしやすいように人の群れを潜り抜ける。
異様な状況だ。皆が張り詰めて、瞬きできないほどに緊張していた。誰も彼も、花に群がる蝶のようにステージにくぎ付けになり、ふらふらとその足を前に前にやろうとしている。
ぽーん、と音が響いた。
太鼓を叩く音だ。それとともに、ステージに三人の少女が上った。マリンチェとよく似た形の、巻頭衣と巻きスカートだ。けれど彼女たちのそれはより緻密な模様で、はっとするほど鮮やかだった。彼女たちは髪や耳、腕や足に思い思いのアクセサリーを飾っている。無知なカタリナが見ても、彼女たちの纏うそれらは高級品で特別なものなのだろうということが分かった。そして、おそらく彼女たちがマリンチェと同じ花巫であることも直感的に理解できた。
少女たちのうち、真ん中に立ったひとりがすう、と深く息を吸った。周囲の人々がそれに合わせて呼吸をやめた。心臓の音すら聞こえそうな静寂を、蜂蜜みたいに甘い声が稲妻のように駆けた。
『今日は私たちのために、来てくれてありがと~!』
どっ、と地面が揺れた。いや、地面は微動だにしていない。男たちが口々に咆哮したせいでびりびりと空気が震えたせいでそう錯覚させられただけだ。少女たちはそれぞれに口上をと挨拶を述べているようだったが、観客たちの声が大きすぎて内容が判然としない。あまりの騒音に頭が痛くなりそうでカタリナは思わず耳を塞いだが、片手はマリンチェに掴まれていた。マリンチェは目を白黒させながらどうにかこの公害レベルの騒音をしのごうとしているカタリナを見ると、
『耳塞いでたら聞き逃しちゃうよ』と耳元で忠告した。
『だって、うるさすぎる……!』
『すぐにそれどころじゃなくなるから』
これが静かになるとは思えない。それどころじゃなくなるというのはどういう意味だろうか? 懐疑的なまなざしを向けても、マリンチェは涼やかにそれを無視してもう意識はステージのほうへ戻っている。
少女たちは挨拶を終えたらしく、先ほど一番初めに挨拶をした女の子……青い鳥の羽が美しい髪飾りを付けたその子が前に出て、残る二人が袖に掃けていった。
『じゃあまずは一曲目、……《赤い風まで追い詰めて》! いっくよ~!』
彼女の掛け声を皮切りに、太鼓がリズムを取り始める。それをすぐに笛と弦楽器が追いかけ、アップテンポな曲を奏で始めた。まったく聞いたことがない旋律はしかし、妙に耳に心地よく、心臓がリズムに引きずられるようにして高鳴り始める。
『東風を追いかけて、白い泉を見つけたの』
歌だ。音楽も、観衆たちの咆哮も、それをひとつも遮ることができなかった。まるで耳のすぐそばに彼女がいるかのように、カタリナの耳に鮮明にその声が聞こえた。
『花が開いて、ハチドリが尋ねる』
『私たちはどこに行くの』
『神鳥が答えた。炎の中よ』
不思議な歌詞だ、おそらくは宗教的な意味合いなのだろうが、門外漢のカタリナには解釈ができない。悪魔たちを讃えているのだろうと思う。だが、耳を傾けずにはいられなかった。
それくらい、その歌は悪魔的だ。つまり……魅力的だったという意味で。
『わたし、きらめく光になるの!』
曲が佳境に入る。周囲の男たちが腕を突き上げながら声をそろえて少女たちを呼ぶ。自分を見て、という叫びではなかった。カタリナを素通りし、少女たちにだけ向けられた歓声は、ただただ伝えたいという想いがほとばしって空気を震わせているようだった。
ここにいる。あなたがここにいて、わたしがここにいる。ただそれだけのことを命を懸けて伝えようとしているみたいだった。
カタリナが呆然と少女たちの歌に、男たちの叫びに聞きほれていると、マリンチェがくいっと手を引いた。ステージの明りに頬を焼かれた彼女は額に汗を浮かべきらきらと輝いていた。その花のかんばせが、挑みかかるように笑みを形作る。
『これが花巫』
彼女の瞳が、そう教えてくれた。
全ての演目が終わると、舞台の明りは一斉に落とされた。足元手元が見える程度に、ぽつぽつと篝火が置かれており、ステージからやや離れたところにいくつかの屋台が出ていて人だかりはそちらに移動したようだった。
暗くなったステージの前で、カタリナは茫然としたまま動けないでいた。なんだかすごいものを見た、という余韻が皮膚一枚の下を張り詰めさせていて、それを少しも零したくなかった。その気持ちが分かるみたいに、マリンチェはカタリナを放っておいてくれた。
ただ、流石にいつまでも茫然としているわけにはいかない。まだ頭が働かないカタリナの手を取って、マリンチェがずんずんと歩き始める。おそらくは帰るのだろう。
『すごかったでしょ?』
『うん……マリンチェは、花巫になるんだよね』
『そして、君もね』
無理だよ、ととっさに口から出そうになる。だが、あんなに思い切り歌うことができたらという気持ちが喉元でつっかえて、結局しどろもどろになってしまった。
花巫。
皆の前で、歌う。あれだけすばらしい歌を歌うことができるのであれば、きっとたくさん練習が必要だ。あれだけ多くの観客がいるのであれば、たぶん披露する機会はとても少なくはない。
理想的な職業だった。まるで夢みたいな。
神殿に帰りつくころには、やっと、雲の上を歩いているような足取りも少しはまともになった。日が沈んで、それどころかもう朝のほうが近い時間帯だろうに、神殿のあたりには松明が焚かれている。出てきたときと変わらない姿だ。松明の下に、黒い人影がいた。
あのいかめしい顔のノパパがまた待ち構えているのかとぎょっとしたけれど、マリンチェはぱっと表情を明るくした。
『ウイル! いこ、ごはんとっておいてくれてるかも』
『えっ』
マリンチェがぐいっと腕を引っ張って走り出す。鹿のようにしなやかだ。カタリナはほとんど転ぶように前のめりになりながら、なんとかそれについていく。あとわずかでも走る距離が長かったら顔面から地面にぶつかっていただろうというところでマリンチェが止まった。
『花巫殿、流石にちょっと遅い時間ですよ』
『ごめんって。でも待っててくれたってことは、もしかして……』
『はいはい。ちゃんと用意してありますよ。
『ありがとー!』
マリンチェは現金なものでニコニコしながらウイルに対して嬉しそうに手を振る。カタリナも脇を通り過ぎる時、何かリアクションすべきかと思ったけれど、ほとんど面識のない相手にフランクに接しすぎるのもためらわれてなんとなく目礼だけに留めた。ウイルはそれに何も返さなかったが、よく考えたら文化的な違いで伝わらなかったのかもしれない。
神殿の中の奥まった一室にマリンチェが案内してくれた。食堂と言ったが、茣蓙が敷かれている部屋で、床に皿が何枚か置かれていた。まず机がないのだ。
『座って。食べられないものはある?』
『ない、と思う……?』
『
碗のなかには野菜スープらしいものがなみなみ注がれている。皿に乗せられていたのはパンにしては黄色っぽく、かなり平べったいものだ。まじまじ眺めていると、横からマリンチェの手が伸びてきて半分に割ってくれた。
『はい。これ食べて、さっさと寝よう』
『う、うん』
薄焼きパンを口にする。小麦ではなく、トウモロコシの風味がした。香ばしいにおいがして、少し塩味がする以外強い風味やくせはなかった。焼いてから時間が経っているためかやや硬いが、その分食いでがある。こっちも飲んで、とマリンチェが碗を差し出した。マリンチェの飲みかけだが、よくよく見れば碗はひとつしかない。突然連れてきた得体の知れない娘の分の食事を用意してくれるわけがないので、これはすべてマリンチェの分だ。そのことに遅れて気が付く。
『ご、ごめん。ぼくがこれ、食べたら、マリンチェの分が……』
『気にしなくていいよ。その分、朝ごはんたくさん食べよう。タマルに鶏肉入れてもらってさ』
『お、お肉』
修道院で肉を食べられることなんて、ほとんどない。それを朝から食べられることに、カタリナはびっくりしてしまった。パンだけでは喉が渇くから、と押し付けられた碗を、ゆっくりと口に運ぶ。知らない香草が使われているのか、慣れない風味がするもののおいしい。かぼちゃやインゲンのような野菜がごろごろ入っているのがうれしい。
歌が歌えて、ごはんもたくさん食べられる。
腹が満たされてくると、だんだんとカタリナは現状を理解してきた。理解したうえで、自分が夢を見ている最中なんじゃないかと疑ってしまう。
もしかしたら自分は、天国に来てしまったかもしれない。
そんなことを、真剣に考えてしまった。
カエカノックス 塗木恵良 @OtypeAlkali
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。カエカノックスの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます