カエカノックス
塗木恵良
第1話
確かにカタリナは
でもそれはこういうことじゃない。手足を括られて、膝を抱えさせられて、ざらざらした袋の中に詰め込まれて担がれて、がくんがくんと揺らされている。
外が見えないから、これは予想なのだけれど。
カタリナはいま、おそらくだけど誘拐というやつをされている。
誤解がないようにするためにまず説明しなくてはならないのは、カタリナが住むこの土地が
新世界があるからには旧世界がある。それは今カタリナがいるこの土地から見て、海を遠く隔てた向こう側だ。なぜこちらが”新”で向こうが“旧”かというと、新世界はつい半世紀前に発見されたばかりの土地だから。
とは言ってもそれは歴史の話。カタリナは物心ついたときには新世界の港町、マデラクルスに住んでいた。なので、カタリナの主観において新世界っていうのは何も新しくなんかない。旧世界には一歩も立ち入ったことがないので、むしろそっちのほうがカタリナにとってはずっと目新しく希望に満ちた世界だった。
新世界にある、マデラクルス……真の十字架の町という名前がつけられた港町、そして町の中心部にある教会と修道院が、カタリナの生活基盤だ。
これまたややこしいことに、修道院に半ば身を寄せているとは言えカタリナは司教や修道士じゃない。
カタリナは今年で十五歳。この年頃になれば、親や師匠について仕事を見て覚え、半人前として働き出していなくては遅いくらいだと言われる。だがカタリナは正式な修道士ではない。修道士の証しである茶色の
じゃあ何故カタリナがこうして教会に出入りし見習いよろしく雑事に励んでいるのかと言えば、理由などたったひとつ。
歌のためだ。
いつのころからか、カタリナの中には歌が渦巻いていた。
頭の中、臓腑の内側、血管、そのどこであるかは不明だが、ごうごうと濁流のようにうねるそれは常日頃から虎視眈々と外に出る機会を窺っている。鼻歌では我慢できない。舌も喉も肺も腹の底も震わせて体中から汗を吹くほどに歌いたい。そういう欲望がカタリナの中にはあった。
そういう意味で聖歌隊はカタリナにとってとても都合がよかった。
毎週月曜には歌誦ミサがあるし、旧世界の住人たちへの布教は時に言葉よりも伝わりやすいとして聖歌を用いることもあったからだ。それらの練習として、毎日、思うさま歌うことができるというのはカタリナにとっては得難いものがあった。それがたとえ、朝の短い時間であったとしても。それがたとえ、既存の歌で、カタリナの中の歌でなかったとしても。歌えないよりかはずっとマシだ。
歌っているときだけ、カタリナの中の歌は大人しくなる。
礼拝堂の天井は高く、声がよく響く。早朝の爽やかな空気を震わせて歌うのがカタリナは好きだった。
いつも通りの発声練習のあと、何曲か続けざまに歌ってひと心地つく。
今朝の礼拝堂にはカタリナともうひとりしかいない。
聖歌隊に所属している修道士は五人ほどだが、毎日参加しているのはカタリナくらいのものだ。それは修道士たちが怠惰であるとかお寝坊さんだとかそういうわけではなく、見習いもどきのカタリナと違って本職の修道士たちは日々本国とのやりとりや布教活動、あるいは住民たちの洗礼とその準備、そして朝昼晩に行われる聖務日課のために時間が取れないせいだ。多忙を極めている中でも週に二、三度は聖歌練習に足を運ぶ修道士たちはむしろ敬虔でこのうえなく勤勉であるらしい。時に何百人もの洗礼を行い、何十回も説法し、何
カタリナからすれば信じられない。そんなになるまで自分を追い詰める必要がどこにあるのか。神に仕える連中というのは自分を追い込んで苦しめるのが楽しくてうれしいとかいう奇妙な精神構造をしているに違いない。
「今日は、そろそろ、このあたりにしよう」
今朝の聖歌練習に参加しているもうひとり、先輩修道士からストップがかかった。顔色が悪い。声の張りにも欠けている。もっと歌いたいが修道士見習いもどきのカタリナは彼の言葉にうなずくしかない。
「…………分かったよ」
「
「……はい」
先輩修道士に諫められてしまった。表情に出てしまっていたらしい。
「はあ……君はまったく。バルトロメに言いつけておきますよ」
バルトロメはカタリナの叔父だ。カタリナが修道院に出入りする
「え。……なんで、バルトロメに?」
「僕が言っても聞かないでしょう」
「そう……?」
「その態度で明々白々、自白したようなものじゃないですか」
僕が何度口を出したか、と先輩修道士が肩を落とす。カタリナは記憶を探ってみたが、彼に何かを注意された記憶は存在しなかった。
心当たりがないというのが顔に出ていたのだろう。先輩修道士は神妙な顔つきになり、「君は、どうしてこの練習会にこんなに人がいないと思いますか?」と突然尋ねてきた。
話の脈絡を無視して投げかけられた質問にややうろたえる。そして質問の内容を理解してもう一度うろたえた。みんなが疲れているからとか、そういう答えでいいのだろうか。でもそのまま答えたら多分、違うと怒られるのだろう。
カタリナは賢明な選択をした。つまり、沈黙は金。
彼は口を噤んだカタリナを見て、またため息を吐く。
「君は一度、きちんと考えなくてはならないですよ」
何を考えるべきなのかも教えてもらえないらしい。それすらも自分で考えろということなのだろう。説明を横着して分かってもらおうというのはひどい懈怠だ。
先輩修道士は重たそうな腰をあげて、
「ここの掃除と片付けをお願いしますね。ああ、外に聴衆が集まっています。裏手口を使うように」
と言いおいて出ていこうとする。
歌に集中していて気が付かなかったが、礼拝堂入り口の片扉が開かれ、そこから複数の人影が見えた。朝から礼拝なんて敬虔な人たちだ。中に入れてあげればいいと思うのに、修道士たちは「あれは歌を聞きに来ているだけなのです」と口をそろえ、彼らの立ち入りを拒絶する。讃美歌を聞きに来たのに礼拝堂に入ってはいけないという理屈がカタリナにはよく分からない。
裏口を使うと遠回りになるから嫌だな、と思って返事をしないでいると、先輩修道士は念押しするように「裏手口を使うように」と言いつけて今度こそ礼拝堂をあとにした。
掃除を頼まれてしまったので仕方なく井戸に向かうと、見知った二人が何やらおしゃべりに興じている。どちらもカタリナとそう変わらない年頃の、十二〜十五歳くらいの子たちだ。一人はカタリナとおなじ旧世界人で、白いチュニックに黒いスカプラリオを着た少年、アレホ。もうひとりは肌の浅黒い新世界人だが、彼らの伝統衣装ではなく旧世界人同様のブラウスにスカートといういでたちの少女、イルミナだった。
アレホはカタリナと違って正式な修道士見習いで、ふだん朝の聖歌練習にも参加していた。見習いで仕事も少ないから出席率はかなり高くてほとんど毎回顔を突き合わせる仲だ。ただ今日は珍しく欠席だった。
「おはよう。朝の練習サボっ、たの?」
「カシミロ……サボったわけじゃない」
アレホがごほごほと咳こみながら言いつくろう。その声があまりにもざらざらでぎょっとした。
「……病気? 酒でも、飲まされた?」
「そんなわけ……ごほっ」
「声変わりですよ」
喋りにくそうなアレホに代わってイルミナが答えた。
声変わり。聞かない単語にカタリナはぱちぱちと目を瞬かせた。
「男性はこれくらいの年頃になると、こういうふうに喉を患って、そのあと大人の声になるんです。芋虫が蛹になって、蛹が蝶にかわるみたいに」
「へえ……」
イルミナの説明に、カタリナは感心し素直に頷いた。
説明されてはじめて、そういえば大人の男は声がやたらと低いなと気づいたくらいだ。それまではそういうものだと思い込んでいて、いつかアレホがそうなるということすら想像したことがなかった。マデラクルスには子供が少ない。カタリナと関わりのある同年代などアレホくらいのもので声変わりをする人を見るのは初めてだ。
蛹はあの殻の内側はどろどろが満たされているのだという。それを考えるとアレホの喉もいま大変なことになっているのだろう。カタリナがマジマジ眺めていると、アレホは呆れたように顔を顰めた。
「”へえ”、って……バルトロメ修道士が教えてくださっただろ」
「ん……忘れた」
バルトロメはカタリナの叔父だが、孤児であるアレホの後見人でもある。そういうわけだからカタリナにとってアレホは弟のようなものだった。とは言ってもカタリナがアレホの世話を焼くよりその逆のほうがずっと多く、今も保護者よろしく小言をぶつくさ言っている。
「お前、そろそろ本気で怒られるぞ。仕事もサボってばっかりだし」
「サボってる、わけじゃ……」
「じゃあこないだ、食事の準備をすっぽかしたのは? 俺お前のぶんまで皮剥きさせられたんだぞ」
未だに手首がじんじんする、とアレホががなる。それについては申し訳ないと思っているが、別にアレホに自分のぶんまでやってくれとカタリナが頼んだわけではない、と反論めいたものを考えてしまう。口にはしないが。
「……きちんと働いてる……」
「最低限だけな」
ただし、提供された衣食住のぶんだけ、という但し書きがつく。幼いころから一緒に時間を過ごしてきたアレホはそのあたりをよく理解しているので、せっかく伏せたのにわざわざ口に出して指摘する。
アレホが何かに耐えかねたようにうがーっと吠え、それから頭を抱えた。
「なんでバルトロメ修道士の甥なのにお前はこんななんだ……っ」
「……ぼくは、普通だよ」
お前たちが変なのだ、ということばは喉の奥に引っ込める。
先ほども思ったけれど修道士、神に仕えるやつらはちょっとおかしい。彼らは民衆に奉仕すると宣い、そして実際に無償で身を粉にして骨惜しみせず働く。それどころか、対価を求めることは下品なことだとすら考えている。そのせいで毎日薄いスープとすかすかのパンしか食べられなくても、朝から晩まで汗みずくで働くのだ。
その精神はすばらしいものかもしれない。賞賛されるべきなのだと思う。
カタリナに強要されなければの話だ。
だってカタリナにはそんなこと無理だ。カタリナは自分の食べた分だけしか働きたくない。無償奉仕なんて絶対嫌だ。
働かざるもの食うべからず。それがこの世の真理と言うなら、食わせた分以上に働かせるな。
カタリナはただ、労働に対する正当な対価を求めているだけだ。頑張ったぶん報われたい。それだけのことが、神に仕える連中には伝わらない。
アレホは完全に
「お前はどうしてそう卑しいんだ」
「育ち……」
「お前っ」
「まあまあ、落ち着いてくださいアレホさん。カシミロさんの言うことも、そんなにおかしなことじゃないですよ。みんなそんなものです」
イルミナがどうどう、とアレホをなだめる。
イルミナは布教学校の子だ。布教学校というのは
味方のはずだった相手に背中から撃たれたアレホが不満そうに唇を尖らせる。
「でも悪魔的じゃないか」
「悪魔……?」
下品だ下賤だとは今まで何度も言われてきたけれど、悪魔呼ばわりははじめてだった。そこまで鬼畜な所業をしたつもりはなかったのだが、そんなに大量の皮むきがつらかったのだろうか。
「ああ、カシミロさんには伝わらないですよね……アレホさんに、かつて私たちが神と信じていた悪魔のことを、少しお話していたんです」
かつて私たちが神と信じていたもの。変な言い回しだなとカタリナは思う。
先住民たちにも信仰があった。信仰があるからには神様もいた。
けれど、それはカタリナたちが信じていた神とは少しだけ似ていて……けれど全く違うものだった。
カタリナらからすればこの時点で意味不明なのだが、もっと恐ろしいのは神が供物を求め、その最上位には人間の生贄がおかれているということだった。
噂によると、ニカ教では生きたまま人間の胸を文字通り引き裂いてまだ動いている心臓を取り出すらしい。
そんな残虐な犠牲を求める存在は間違っても神ではない。それは悪魔だ。旧世界人はそう断じた。そういうわけだから旧世界からやってきた修道士たちは寝る間も惜しんで彼らを改修させ、悪魔信仰をこの地から払拭しようと日夜頭を悩ませている。
修道士たちの間では悪魔信仰の話は禁句であり、だから二人はこうして朝の時間に隠れるようにしてこそこそしゃべっていたのかと納得した。
「そんなこと話してたら、怒られるんじゃ……」
「でも、戦うならまず敵を知らないとだろ」
アレホは悪魔と戦うつもりなのだろうか。修道士ではなく
「話を戻しますね。何故悪魔たちに人々が生贄を捧げるか分かりますか?」
「……自分たちにひどいことをしないでほしいから?」
「それもありますが、人々は悪魔に捧げものをしなくては、雨が降らず、太陽が昇らなくなってしまうと考えていたんです。彼らにとって、悪魔は神でしたから、神さまのご機嫌を損ねたら世界がどうなってしまうか分からない。したがって、言われるがままに供物を差し出す必要があったわけです」
イルミナはすらすらと説明した。
布教学校に入れられるような子は、先住民の貴族層だ。つまり彼らは将来的に将軍や政治高官になるはずだった子供たちで、つまり素地がそんじょそこらの庶民と違う。すでにいくつかの現地語と旧大陸語を使いこなす知的エリートでもあるイルミナは、カタリナとアレホより圧倒的に賢かった。
カタリナが慄いている横で、アレホは悪魔信仰に対する不満でぶうぶう言っている。
「神様が対価を求めるっていうのがまずあり得ないよ」
「そうですね。私は正しい導きを得ることができて幸いでした」
「う……うん……」
カタリナは黙り込んだ。否定するうまい言い分が見つからない。
人身供物を肯定するつもりはない。悪魔教徒たちは神に心臓を捧げるらしい。そのうえ肉を食らい皮を剥いでそれをマントのように被るという。嘘か本当か分からない凄惨な噂をカタリナはたくさん知っていた。
だからと言って、対価を求めることが悪魔的だと謗られるのも違う気がする。
ただ、イルミナのように論理的な説明はできない。まごまごしていると、「おい、そこで何してる」と声をかけられてカタリナとアレホの肩が跳ねた。
振り返ると、茶色のスカプラリオを身にまとった旧世界人の青年が立っていた。バルトロメだ。
「おはようございます、バルトロメ修道士!」
「おはようございます」
「……おはよう、ございます」
「ああ、おはよう。こんなところでサボってないで早く仕事、と教室に行け」
「はい!」
アレホは持ち場に、イルミナは布教学校にそれぞれ戻っていく。カタリナも反射的にその場を立ち去ろうとして、すぐにバルトロメに取っつかまった。
「お前はこっちだ」
「……はい」
怒られるな、これは。固い声色としかめっ面からそう判断し、カタリナは早々に抵抗を諦めて腕を引かれるままバルトロメについていった。
人が三人も入ったら狭苦しいだろう小礼拝室に連れ込まれ、扉がきちんと締め切られる。そこでやっと、ただの説教にしては様子がおかしいということに気が付いた。怒るだけなら場所を移動する必要はないはずだ。
「まあ座れ」
「はあ……」
促されるまま木製スツールに腰を下ろす。バルトロメも対面に座った。狭い小部屋なので膝がぶつかるくらいの距離に神妙な顔がある。
彼と視線が合って、なんだかとても嫌な予感がした。
ただ叱られるほうがマシだと思わせるくらいの、とてつもなく嫌な予感。
果たしてその虫の知らせは当たった。
「
何を言われたのかすぐには理解できなかった。
「アレホに声変わりが来た。お前の声はこれ以上ごまかしがきかない」
「それにお前の態度にも苦情が来ている。これは自業自得だが」
「猶予は長くてあと一年。それまでには除隊してもらう」
カタリナが呆然としている間に、バルトロメは何やらつらつらと理由を説明していたようだが一切耳に入らなかったし、記憶にも残らなかった。
聖歌隊をやめるということは歌えないってことだ。歌を奪われるってことだ。
カタリナは足元がすこんと抜けたような感覚を体感していた。奇妙なくらい手足に力が入らない。
生返事を繰り返すカタリナに、バルトロメは相方向コミュニケーションを諦めたようで、一通り一方的に話し終わるとしばらくしてから小部屋を出て行った。
ひとりにしてもらえて助かった。他人の気配はうるさいから。
しばらくじっと椅子に座って、何も考えられずにいた。
日が高く昇ったころ、やっとのろのろと思考が動き始めた。
──聖歌隊をやめなくてはいけない、らしい。
そもそも、最初に聖歌隊という歌の場を用意してくれたのはバルトロメだった。
好きなだけ歌ってもいい、ただし、場所は俺が指定する。
そう言いきって、バルトロメは本当に聖歌隊の席をくれた。
これはとても無茶なことだったと後年知った。
カタリナというのが彼女の本当の名前で、その名前の通り体の性別は女だ。心の性別も女。
カシミロという男性名は、修道院に紛れ込むためだけにバルトロメが考えたものだ。その偽名と骨と皮ばかりの体のおかげで、修道士見習いモドキのカシミロは皆からは少年だと思われている。この修道院で真実を知っているのはバルトロメとアレホくらいだ。
何故そんな面倒なことをしているかと言えば、このマデラクルスにおいて、修道士、そして聖歌隊とは男性しかなれないからだ。
バルトロメの協力がなくなれば、聖歌隊にはいられない。思いっきり歌うことのできる立場を失う。
そのバルトロメがやめろと言ったのだから、カタリナには聖歌隊をやめる以外の選択肢がない。
命じられたのは聖歌隊の除隊だけだ。
頭では分かっているのだ。聖歌隊以外で歌うことを禁じられたわけではない、ということを理解しているはずなのに、思考は砂を噛んだみたいに鈍くて、湿気で固まった砂時計みたいだった。なんだか胸までがらんどうになったみたいだった。
そこに音楽が、歌が流れ込んでくる。カタリナの思考はまた止まり、しばらくその音色にカタリナは酔いしれた。
心が弱っているときほど、カタリナの中の歌は激しくなる。調べやテンポや歌詞が、ではない。胸を突き、外に出ようとする力が強くなるのだ。だが、人間とは不便なことに、何にもないところで突然大声で歌ったりするとおかしな人物と見られ排斥されるのだった。排斥された人間は生きて行かれず遠からず死に至る。
歌うか死ぬか。
カタリナはふらふらと、何も考えないまま小礼拝室を後にした。
何時間か町を彷徨って、気づくと見知った酒場の前にいた。
日が暮れるというにはいささか早い時間だ。がらんとしている店内に足を踏み入れた。店の端に酒瓶を抱きかかえるようにして眠る男がひとりいるが客はそれきりだ。ドアベルが来客を伝え、カウンターから店主が顔を出した。太った中年の旧世界人女性である。
「なんだ、
「ソイラ……」
ソイラは、バルトロメに引き取られる前にカタリナを養育していた人だ。
親とは言えないが、この人から受けた影響は大きい。カタリナが何事にも対価を求めるようになったところなど、ほとんどこの人のせいと言っても過言ではない。
「泣きそうな顔しやがって、ここはこどもの来るところじゃない。帰んな」
他の人にこんなことを言われたら涙を流しながら踵を返すところだが、ソイラの暴言には慣れているので無視してカウンターに座った。ソイラの憎まれ口は八割心の底から、二割は計算で構成されているので、下手な慰めは最初から期待していない。
「ソイラ、どうしよう。ぼく、聖歌隊を除隊になった」
「へえ、粘ったじゃないか」
「粘った、って」
こうなることを知っていたかのようなものいいだ。驚き目をぱちぱち瞬かせるとソイラが呆れた。
「どうしたって男に見えんだろあんた。あんたもういくつになるんだい。むしろあの坊はよくやったほうだ」
坊というのはバルトロメのことだ。バルトロメはソイラのことをひどく嫌っているし、ソイラも潔癖で面倒な男だと煙たがっている。
「それで、不貞腐れて家出かね」
家出のつもりはなかったが、結果的にはそうなるかもしれない。カタリナが無言でいると、ソイラは嘆息した。
「こればっかりは、坊に同情するね。あんたみたいな甘ったれの我儘なガキによく付き合ってるよ」
「……我儘なんて……」
「我儘ばっかりだろ。聖歌隊として歌は歌いたい、でも仕事はしたくない」
「……修道士の仕事じゃなかったら……」
ソイラの言うことはもっともだが、カタリナにも言い分というものがある。
修道士というものが、好きではない。無償奉仕が好きではないからだ。
カタリナはソイラのもとにいる間、まだ八歳にも満たなかったが食わせてもらうために何でもした。寝ている時間以外ずっと働いて、布団に入るとすぐさま気絶するくらいだった。
その時、カタリナは骨の髄まで対価を求めることを叩き込まれた。タダ働きへの嫌悪を植え付けられた。優しい奴は馬鹿を見る。親切な奴は骨の髄までしゃぶられる。だから賢くならねばならず、業突く張りは生きるために必要な形質だった。
カタリナ以外の誰かが修道士として大衆のために身を捧げるのは構わないのだ、カタリナ以外の誰かがやるのだったら。でも自分でなろうとは思わない。神に仕えるなどといって、隣人の奴隷になるようなことはしたくなかった。ただの雑用係だと切り分けられたらいいのに、バルトロメをはじめ修道士の皆はカタリナが神の下僕のひとりであると、今はそうでなくともそうあれかしと接してくる。それがひどく苦痛で、仕事を投げ出さないと呼吸できない日がたまにあった。
「……ソイラのところで歌わせて」
「無理だね」
「な、なんで?」
カタリナが稼げる、ということをソイラは知っている。カタリナがここで働いていたとき、給仕ができないから掃除や仕込みなどの裏仕事がほとんどだったけれど、短い時間ではあるがステージにあげてもらって歌わせてもらっていたのだ。それがあったからこそ、きつく苦しい労働に耐えて逃げ出さなかったとも言う。そしてそのステージは、子供が歌うという物珍しさもあってだろう、客引きとして成果をあげてソイラの懐を温かくさせた。
「理由はいくつかあるけど、あんた側の理由としては、もう稼げる年じゃない。その見てくれじゃ、遅かれ早かれベッドに引っ張り込まれるよ」
「……いい、別に」
ソイラは女衒か遣り手婆のような役割をしていて、この酒場の二階はそのための宿になっている。カタリナは幼かったから床に送り込まれることはなかったが、ここで女給をしていた女性たちはそういう仕事もしていたと知っている。
「体を空け渡すんがどうこうって話はしてない。早々に死ぬって言ってんだ」
まだ町も市場も行政機関も十分には整っていない新大陸に渡ってくるような連中が、親切心や道徳心を持ち合わせているなんて期待はできない。旧大陸でまともな仕事ができなかった鼻つまみ者、荒くれ者、野心家がほとんどだ。そんなやつらが金で買った女性をどう扱うかなんて目に見えている。
「それくらい、分かってるよ」
「あんたはすっとろいしおつむも弱いからね、どうだか」
姉のように構ってくれた人たちが、翌朝にはいなくなっているということが何度もあった。血と吐しゃ物まみれのシーツを片付けたことだってある。箒がけしていて折れた歯を見つけたことも。やりたくないと泣いてもやらせたのはソイラだ。それを忘れてしまったのだろうか。そういえば最初見た時よりも白髪が増えたような、と思ったが、むしろ皺などはなく以前より肌つやが向上しているようだった。
「ソイラ……きれいに、なったね?」
「口説いても無駄だよ。……いやあんたにそういう気の使い方は無理か」
ソイラは流れるようにカタリナを馬鹿にしてから、「あんたの理由もあるけど、あたしのほうの理由もあるんだわ」と話を戻した。
「この店畳むんだよ。もう十分稼がせてもらったし、その必要もなくなったからね」
「えっ……」
「コネができてね、
「荘園主……」
ソイラはカカカッと笑った。
新大陸人は冒険者、あるいは開拓者として見つけた土地から先住民を追い出し、自分たちの土地ということにした。そこに置かれるのが荘園主で、彼らは自分でその土地を耕したりはしない。先住民を奴隷のようにこき使い、自分は貴族のように大きな館で悠々自適に暮らすのだ。もしかしたらソイラは既に貴族のような生活をはじめているのかもしれない。肌つやがいいのはそのおかげだろう。
「そうだ、あんたもコネでもツテでも使って王様に任じられたらいいさ。旦那捕まえるんでもいい。隣の家すら見えないだだっ広い自宅で歌うぶんには誰も文句は言わないだろうさ」
ソイラはからから笑う。カタリナには笑いどころが分からなかったから首を傾げて、それがソイラの気に障ったみたいで店から追い出された。
ソイラのもとを追い出されたのは夕暮れ前だが、すっかり日が暮れてなおカタリナは家に帰り付いていなかった。
マデラクルスはそこまで大きな町ではない、のだけれど、増築に増築を重ねた町なのでとにかくごみごみしていて通りが複雑なのだ。普段でさえ迷子になるのに今日のカタリナときたら三歩あるくごとに今どこにいるのかを忘れるような気もそぞろぶりで、まっすぐ帰るどころか明日の朝までに帰りつけるか分からなかった。足がくたくただ。
家々の灯が消えはじめているのが見え、余計に焦った。心臓がどくどく早鐘を打ち、けれどすぐに飽きたみたいにいつも通りに戻る。
どうせ帰ったところで聖歌隊はやめなくてはいけないし、代替案は見つからない。ソイラのところで歌わせてもらえないなら、似たような酒場を探すしかないだろう。
歌を歌う仕事というのは賤民のするものと見なされている。王宮のある旧世界であればそこに雇われて王に傅く宮廷楽士という道もあろうが、新大陸にいる限り夢のまた夢だ。町から町へと流浪する
カタリナは開拓者や冒険者たちのように好きで新世界に来たわけではない。気が付いたらここにいたのだ。カタリナにとって、新世界は新しい世界どころか、行き詰まって閉塞的で呼吸もできないような場所だった。歌だけがよすがだった。それがなくなったら地獄と変わらない。常に飢えて乾いて苦しむなんて、カタリナはどんな罪を犯したのだろうか?
ここじゃないところに行きたい。
好きなだけ歌えるところ。
そのためならカタリナは、命だって惜しくはないのだ。
ふらふらと四辻に出て、見知らぬ光景に投げやりになりながら適当に曲がる。思ったより細い路地に出てしまった。普段ならその暗さや汚さに足がすくむところだが、今は不思議なほど足取りが軽い。ふらふらと赴くままに足を進める。
また少し大きめの通りに出よう、というところで手を強く掴まれて背中の方に引っ張られた。よろけて尻もちをつく。
「え」
驚いて声を漏らすと慌てたような気配とともに、頭に何かかぶせられる。ざりざりと肌を削られるような感覚がした。そっちに気を取られて体を硬直させていると手首と足首をこれまた粗い感触の粗雑な括られて身動きがとれなくなった。まずいとか、怖いとか考えている暇はなかった。ただ驚いていた。
人間って驚くと、状況についていけなくなる。一足す一を尋ねられてもこの時のカタリナは答えられなかった。
そうやって限界まで認知機能を低下させたカタリナが目を白黒させていると、下手人はやさしさからからようやっとカタリナの頭を強く殴って昏倒させ意識をリセットしてくれた。
暗転。
目を覚ますと暗かった。真っ暗な中でカタリナは膝を抱えており、体の妙なところが痛む。まるでずた袋に詰め込まれて、それを背負われているみたいに。一定のリズムで体が何かにぶつかって骨が肉にぶつかるのもかなり痛い。
まったく快適な状況ではないし、これから先どうなるのかもよく分からなかった。いっそ目がさめなければこんな不快な思いもせずに済んだのにと嘆息する。
不思議と恐怖はなかった。それは運搬している人物の手つきにやさしさを感じて……なんてことでは全然ない。むしろ下手人は粗雑だと思う。
ただ今のカタリナにとっては、これから向かうところがどんなところだろうと歌えないならマデラクルスと変わらないってだけだからだ。深い深い諦念がカタリナの中にあって、それが体中から感情を拭い去っていた。
死ぬかもしれない。
別にいい。
カタリナは別に、娼婦になったっていいのだ。知らない男に体を開いたっていい。それで歌うことができるんだったら。でも旧大陸で娼婦になるということは長生きできないということだ。吟遊詩人だって同じ。女の一人旅ができるような場所じゃないし、よしんばひとところにとどまったとて女なのだからと体も求められるだろう。
祭りでもない限り、普通の人は大声で歌ったりしないから、そこらへんで歌ったら吟遊詩人か目立ちたがろうとする立ちんぼとでも思われるか。
だからバルトロメはカタリナに修道士という隠れ蓑を与えて聖歌隊という場を整えた。カタリナにとってはこれ以上ない条件だった。
それなのに……。
……そもそもなぜぼくは聖歌隊から除籍になるんだっけ?
バルトロメが話していたことを思い出そうとするがよく思い出せない。
朝、先輩修道士から忠告されたあれだろうか。どうして練習会に人がいないのか? あの言い分からして、おそらくはカタリナのせいなんだろう。直接的ではなく間接的なものかもしれないが。カタリナの何が悪かったのだろう。
こんなことになるくらいだったら、最初から歌のためなら修道士として身分を偽ることくらい承服して、馬車馬のように働いて、修道士たちにいい顔をして恩を売りつけておけばよかった! カタリナの後悔はそこだった。変なこだわりなんか捨てればよかった!
未練だ。死ぬのは怖くないけれど、過去に戻りたかった。
願ったところでカタリナのために時が戻ったりはしない。カタリナは諦めて、人生最後のひと時を開き直って楽しむことにした。幸いといっていいのか、カタリナにとって暇な時間なんてものは存在しない。カタリナの中に流れている歌に耳を傾ければいいだけだからだ。
こんな時だというのに、カタリナの中の歌はひどく穏やかな調べだった。春の泉を思わせるような軽やかで清涼な雰囲気の明るい曲調。カタリナの中の歌は、
歌はだんだんと勇壮な曲調に移行していく。体を揺らすリズムが早まってきたせいだろうか。さっきの曲よりか、これから死に行く人間に似あいの曲かもしれない。とはいえカタリナは現状子牛のように出荷されているわけで、どちらかといえば悲哀に満ちた曲であるべきだ。今聞こえる音楽は、あたかも戦争に向かう戦士の出立に似合うようなそれで、いっそミスマッチだと笑いたくなる。
『いい歌だね』
最初その声が聞こえたとき、カタリナはそれをカタリナの中の歌の歌詞だと思った。空耳で、たまたま言葉のように聞こえたのだと。そう思ってしまったのは、鈴を転がしたような声があんまりにも涼やかで、そして鼓膜に直接触れたみたいに雑音ひとつなくクリアにはっきりと聞こえたせい。そして不思議な抑揚のそれは親しんだ母語ではなかったからだ。
『まるで戦争に行くみたい』
その声が頭のなかから聞こえたものじゃないと分かったのは、不思議な抑揚はしかし歌ではなかったおかげ、そして
カタリナも一応、日常会話程度であれば先住民語を理解することができる。修道院が先住民への布教活動の際、旧世界語を話しても神の教えを説く以前に理解してもらえないという問題があるわけで、そうなれば現地語で布教しなくてはならないのは当たり前といえば当たり前ではある。バルトロメに付き合わされて大量の異国語を覚えさせられたことはかなり根に持っていた。
「……ッ」
カタリナを運んでいる誰かさんは、この声の主とは知り合いではないらしい。麻袋の向こうからかすかに息を呑むような音がした。かと思うと、これまでにないほど大きく揺さぶられた。
「うぎゃっ」
逃げるつもりか知らないが、運搬されているカタリナのほうはナマモノである。
三半規管が上下左右めちゃくちゃにシェイクされて三秒とたたずに目が回った。吐かずにいられたのは、胃の中に何も入ってなかったおかげと、やすりみたいな麻袋にごりごり肌を削られる痛みのおかげだった。
暴れ馬の積み荷よろしく振り回されていた時間はそう長くなかった。と思う。体感時間としては永遠のようにも長かったが、苦しみというのは大概引き延ばされて感じるものだ。
何かに強く引っ張られたような感覚がして、次の瞬間したたかに体を打ち付けた。背中から体の側面にかけて巨岩で打ち据えられたかのような衝撃があった。
呼吸ができなくて打ち上げらた魚よろしく唇を無意味に開閉する。
地面に放り出されたと理解できるまで、たっぷり二十秒か三十秒は必要だった。耳の奥できーんと高い音が響いて、そのせいで自分の体の外で何が起こっているのか分からなかった。視界も真っ暗で耳もきかないとなると、意識が体の中に閉じ込められたみたいになる。
歌に溺れるってきっとこういうことを言うのだろう。カタリナは場違いにも恍惚となったが、そのうちだんだんと意識が浮上し、痛みの感覚と共に聴覚が戻って来た。
自分の呼吸の音が聞き取れるようになってみると袋の外がそれだけ静まり返っているのだということにも気づく。
耳鳴りにやられているうちに世界が滅びてしまったみたいだった。もぞもぞと体をよじってどうにか抜け出せないか試してみたが、すぐに諦めた。真っ暗で全く見えないが手首を縛っている布はきつく結ばれていて外れそうになかった。
『一応聞くけれど、あなたって今ピンチだったよね?』
『あ……うん、たぶん……』
『よかった、抵抗してないみたいだったから、合意だったらどうしようかと』
ころころと笑われて反応に困る。そんな特殊な趣味は持ち合わせていない。
少女は手早くカタリナを袋から出し、手足に巻かれた布と、目隠しを外してくれた。どうりで真っ暗に感じたわけだ。袋が分厚かったわけではなくもとより目がふさがれていたとは。久し振りに取り戻した視界は、眩しかった。夜ではあるが、天頂から降り注ぐ月の光を浴びてすべてが銀色に光っているような気がする。
銀色の月と紺碧の空を背景に、ひとりの少女が立っていた。この子がカタリナを助けてくれた子だろう。黒い髪を長く垂らした、手足の長いすらりとした少女は飴のようなみごとな褐色肌で、月光の中でうっすら輝いていた。先住民の顔立ちなんて、正直なところカタリナには美醜の差など分からない。だけれど理解する。彼女の猫のような目はきっと、見る者の心を射抜くためにあって、これをうつくしいと表現するに違いない。
『ねえ、わたし、あなたを拾ったわ!』
少女は飛び跳ねるように軽やかにカタリナの周囲を回った。
『これって、もらっていいってことよね?』
『はあ……』
気の抜けた返事をしてしまったのは、話についていけてなかったせいであって、了承のつもりではなかった。
けれど少女は『決まりね!』と大輪の花のように笑ったから、今更否定もできなくなってしまった。
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