第7話 ファン
鞄を両腕で抱き締めながら、ううぅ、と迷っていると背中側にあった教室の扉ががらりと開いた。
「っ……。すみません、今、退きますので……」
登校してきた学生の邪魔になると思ったゆずりは肩を震わせつつ、小さく後ろを振り返る。
「あ」
けれど、そこにいたのは先程の男子学生だった。彼は何故か、楽しげに苦笑している。
「な、な……っ」
「『何でクラスが分かったのか』、かな? そりゃあ、八組に向かって長い一本廊下を全力でダッシュすれば、どこのクラスの人なのか、丸わかりだったよ。……同じ一年生だったんだね」
「っ……」
ということは、彼も一年生だったようだ。
彼は追い詰めるように一歩ずつ、教室内へと入ってくるため、ゆずりは後ろを見ることなく、後退するしかなかった。
がんっ、と足と腰に当たったのは同級生の机だ。
もはや、逃げ場はない。まるで獅子に追い込まれた小動物のような心地で、ゆずりは顔を見上げる。
それなのに、目の前の彼はずっと何かを待ち望んでいたと言わんばかりの笑顔を浮かべていた。
「感想を言う前に、一つ訊ねたいことがあってね」
「は、ひっ、なっ、何でしょう、かっ」
「まだ、君の名前を知らないんだ。教えてもらってもいいだろうか」
にこり、と微笑まれるものの、そこには圧が含まれていた。
「ひぇっ……。ふっ、冬原、です! 冬原、ゆずりと申しま、しゅ」
噛んでしまった。もう、最悪である。
けれど、目の前の相手は笑うことなく、どこか噛みしめるように頷いていた。
「……そう、冬原さん、か。教えてくれて、ありがとう」
「ぃ、いぃぇ……」
「ああ、僕の名前を伝えてなかったね。……一組の
「く、久賀、君、ですか」
一組ならば、合同授業はないので、ほぼ会うことは無い同級生だ。
しかし関わり合うことがないというのに何故、お互いに自己紹介をしているのか、ゆずりの頭には疑問符がたくさん浮かんできてしまう。
「え、えっと、あの、久賀君」
文化祭の日、図書室にいた時には顔を見ながら話せたが、今は出来ずにいた。それはあくまでも「図書委員」として彼に接していたからだ。
「べ、別に、本当に感想を言いにこなくても、大丈夫、ですよ……」
なので、早く自分の教室に戻って欲しい──とは言えなかった。
「二十三ページ目の『残り火の君へ捧ぐ』」
「へっ」
「君が書いた短編、だよね? ……『冬月』先生?」
「なっ……。どうして……」
文芸部の部員は部誌の「さぼてん」に作品を掲載する際、ペンネームを使う。
ネット上では「柚原ふゆき」を名乗っているゆずりだが、「さぼてん」の時は「冬月」という新しいペンネームで作品を載せていた。
「ぶ、文芸部、の人に聞いたんです、か……?」
「ん? いいや」
でも、と久賀は言葉を続ける。
「分かるよ、君が書いたものだって」
「……」
ゆずりが文芸部の部員として作品を部誌に載せたのは今回が初めてだ。それゆえにこれまでの「さぼてん」のバックナンバーにはゆずりの作品は一切ない。
つまり、「冬月」名義の作品はこれが初めてなのだ。
それなのに、彼はどうして「冬月」が自分だと分かったのだろうか。
ゆずりが考えていることが久賀には分かるのか、彼は小さく苦笑する。そこには文化祭の日に見たような憂いを帯びたものは一切、混じっていなかった。
「わ、私、実名なんて、出してないのに……。どうして……」
「君のファンだからね」
「ふぁ」
「ファンになっちゃったんだ」
ファン、という言葉を頭の中で検索してみる。ファンとはつまり、支持者や愛好者のことだ。
「好きだよ、君の作品。読んでいて切なくなるけれど、でも最後はとても温かい気持ちになって、もう一度読み直したくなる、そんな作品だ」
「……」
お世辞でも、何でもなく、真摯な表情で紡がれる言葉は、ゆずりの胸にじわじわと沁み込んでいく。
「あの時、引き留めてくれてありがとう。でなければ、出会えなかったよ」
柔らかな笑みでお礼を告げられ、ゆずりはどう返せばいいのか分からなくなる。
ただ一つ、理解できているのは、自分が作り上げた作品を好きだと言われたのが、どうしようもないくらいに嬉しかったことだ。
どうやって、「冬月」が自分だと見つけてくれたのかは、分からない。
だが、心の浮かんでいるものは、誤魔化しようがなかった。
「……っ」
思わず、俯いてしまう。
「冬原さん?」
「す、すみません……。ただ……嬉しくて……」
「……」
「え、と。あの、ありがとうございます。楽しんでもらえて、良かったです」
ふにゃり、とぎこちなく笑ってしまうのは仕方がなかった。
久賀は何故か黙り込み、そしてそれから口を開く。
「君は──」
「……?」
だが、続きの言葉が続くことはない。
どこか迷うような素振りを見せた後、久賀は口を閉じて、苦笑した。
「いや、何でもないよ」
「は、はぁ……」
一体、何だったのだろうか。
首を傾げていると、久賀は鞄からスマートフォンを取り出した。
「良かったら、連絡先を交換してもらえるだろうか」
「なっ、何で、ですかっ……!?」
「何でって、そりゃあ──君のことが、知りたいからだよ」
至極真面目に答えられたが、ゆずりの頭の中は爆発寸前だった。
高校生になってから、スマートフォンの中に入っている連絡先は全部が文芸部の部員のものだけだ。
それ以外は家族か、もしくは梅ヶ谷とその家族の連絡先しか知らない。つまり、「友達」と呼べる相手の連絡先は一つも入っていなかった。
「わ、私は面白みも何もない、人間です……」
「僕はそうだとは思わないけど。……とにかく、あの小説を読んで、君のことをもっと知りたくなったんだ」
久賀がゆずりを揶揄うつもりで、そう言っているのではないということは、彼の目を見れば分かった。
ただ、そう思ってくれた理由が分からないからこそ疑問を感じてしまう。
「君が描く世界が好きだからこそ、その目に何が映り、どう感じているのか気になってね」
何だかむずむずする言葉に、ゆずりは曖昧な表情を返すしかなかった。
「まぁ、ファンとして応援したい気持ちが半分、お近づきになりたい下心が半分って、ところかな」
「した、ごころっ!?」
「うん。冬原さんの小説、もっと読んでみたいなと思って。……お近づきになれば、習作とかでもいいから、読めるかな、と」
「正直、ですね……」
「ここで嘘をついても意味がないからね。僕が君の作品が好きなのは事実だし」
それで、と彼は言葉を続ける。
「連絡先、交換してくれるかい?」
微笑んでいるが、ゆずりには分かった。彼は連絡先を交換するまで、自分の教室に戻る気はない、と。
このままじわじわと時間が過ぎるのを待っていれば、同じ八組の同級生が登校してくるだろう。
そうすれば何故、一組の久賀がこの教室にいるのか、と疑問に思うに違いない。
追い詰められたゆずりは鞄からスマートフォンを出すしかなかった。
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