第2話 派遣会社
3
通勤電車の山手線は、いつも通り平常運転だった。
誰かからする喫煙者独特の酸いた口臭。長身の、ガタイのいいサラリーマン。それらが満員電車の車内では邪魔で仕方ない。ああ、フリーランスに転職したい。とか考えていた峰子だった。誰か良い人見つけて専業主婦でもいいけど、そんな良い人いないし、どうせ結婚できたとしてもパートとかしないといけないんだろうな。この物価高じゃあ。
渋谷駅で降りて、人の波と共に駅舎から出た。
峰子は働いている派遣会社のビルに入り、受付嬢に社員証を見せる。
「峰子ちゃん。おはよう」
「おはよう」
受付嬢のひとり、椎葉林華が挨拶をし微笑みかけてくる。彼女は笑ったときにできる可愛いえくぼがチャームポイントな女性だ。
だが林華はなぜかずっと意味深な笑みを見せている。
「なんでそんなに笑っているの?」
「昨日の動画、観ましたよ」
「は?」
「意外と酒豪なんですね。可愛いです」
「いやいやちょっと待って。なんで動画のことを?」
「だって青峰さんが言ってましたもん」
あのおしゃべり。べらべらと喋りやがって。
「でも、炎上してましたね」
「そうなのよ。何でなのか理由がいまいちわからなくてね」
「雑な編集。肖像権の侵害。挙げだしたらきりがないですよ」
林華は目をきゅっと細めた。えっ、この子なに。
この林華はZ世代で。三十代半ばでこの会社に最近転職した峰子にとって、Z世代のこの子は年齢は離れているものの同僚だ。
彼女が先ほど指摘してきたのも、ネット社会の黎明期で生きてきた峰子とは違い、子供のときからネット社会に触れてきた林華の経験値に基づいたもの。
彼女、モバゲーとか知らないんだろうなあ。
峰子は少し考えて、「ねえ、私のVLOGに監修してくんない?」と提案した。すると林華はくすっと笑った。それがちょっと嫌味な笑みに思えた。心の中で「このおばさんが」とか思われてんんだろうな、とか感じてしまう。
「いいですよ。ネットコンサル、やりましょう」
「ほんと、ありがとう」
峰子は笑みを浮かべた。そして足早にこの場から去っていった。
席に着くと、青峰が苦笑を浮かべながら近付いてきた。
「あんた、ほんとにユーチューブに投稿したのね」
あんたがそうすればと言ってきたのだろう、という言葉は飲み込んで、不自然に張り付いた笑みをした。「そうなの。人生はチャンレジだと思ってね」
「チャンレジねえ」
どこか馬鹿にしたような口調に苛立ってしまうが、それも堪える。
「そう言えば、新しい派遣登録の子、今日来るらしいけど……人事に写真見せてもらったらすごいイケメンだったわ」
「でも、派遣社員登用でしょ」
「あんた何様よ。立場的には私たちと何ら変わりがないじゃない。そういうプライドが高いところが透けて見えたから、昨日の動画は炎上したんじゃないの?」
何ですって? と怒りがやはり込み上げてくるが、問題を起こせば居心地が悪くなる。だからただ「そうね……」と静かに言った。そしたら面白くないように鼻から息を吐いた青峰は自席へと向かっていった。峰子は溜め息を吐いた。
「やっぱり会社、辞めたいな」
「その相談乗るわよ」
え——
誰だろうと振り返ると和田主任がコーヒー両手に持って立っていた。そのうちの一つを峰子に差し出した。ありがとうございますと礼を言ってから口に含む。甘さの中に少しの酸味がブレンドされている。このキリっとした口当たりが美味しんだ。酒にはない良さが、コーヒーにはあるように思える。
和田主任は女性なのに、男性社会の派遣会社で管理職になれた有能で仕事が出来る人だ。和田さんの働き方を見ていると感嘆や脱帽をしてしまう。
「一応言っておくけど、この会社、副業禁止だからね。でもどうしても生活が苦して……とかが理由だったら遠慮せず私か部長に報告してね。福利厚生の面とかでカバーできないか考えてみるから。例えば住宅補助や生活費補助なんかを出せないかとかね」
「ありがとうございます。一応聞いておきたいんですけど、広告収益を外してユーチューブに動画を上げるとかは駄目ですかね?」
「その判断は難しいから、今度部長に聞いておくわ」
「ありがとうござます」
「初めまして。大勢純と申します。この会社で経理に配属されました。よろしくお願いします」
青峰が言っていたイケメンの派遣社員がやって来た。始めて見たとき、なんだろう、ジャニーズとかにいても違和感がない。それほどまでの顔面の整い方だったし、けどホストのような厭らしさのような雰囲気は香ってこない。例えるならそう、清純派、みたいな?
それから彼のメンターに峰子は選ばれた。同僚からは羨望と嫉妬の目で見られたけど、そんなの気にしない。何でかって? だって自分、彼タイプじゃないもん。なんていうか、彼みたいな塩顔のイケメンって薄っぺらいんだよね。
だから色恋で仕事をするような、失態はしないと思っている。
「初めまして。赤坂峰子って言います。よろしく」
「あっ、初めまして」
ぺこりと大勢が頭を下げる。それに形上微笑んで、それから「経理の仕事ってやったことある?」と聞いてみた。すると彼は頭を横に振った。
「じゃあ事務仕事は?」
「全くの未経験です」
思わずため息を吐きそうになって、それを我慢するためにも頭を掻いた。こりゃあ私、厄介な仕事押し付けられたな。
派遣会社の事務や経理の仕事は経験が命。その経験値の高さによって会社にとって即戦力になるかどうかが決まるんだ。
「すいません。使えない新人で……」
「……お腹、減ってない?」
「え?」
和田主任に断りを入れてから会社を大勢と一緒に出る。
「どこ行くんすか」
「新人研修よ。あっ、エッチなことはしないから。期待はしないでね」
「……」
「冗談よ。本気にされたら困る。これじゃあセクハラ上司じゃない」
「すいません」
謝ってばかり。そんなんじゃあこの雑多な社会は生きていけない。
とあるラーメン店の行列に並んで、しばし一時間。券売機でとんこつラーメンのチケットを購入して、それを店主に渡す。カウンターに並んで座ると彼の体から石鹸の甘い匂いがした。ボディコロンだろうか。
ものの十分でラーメンが作られる。それがカウンターに置かれて峰子はずずっと周りの目なんか気にせずに啜った。
「このあと、腹ごしらえが済んだらファミレスに行くよ」
「まだ食べるんですか?」
「違うわ。そこでみっちり研修してあげんのよ」
「その言い方、ちょっとエッチですね」
「は?」
すると満点イケメン笑顔で、
「冗談ですよ。本気にしないでください。セクハラジョークですよ」
「まったく。本気にしちゃったじゃない」
そう体を少しのけぞらせながら言った後、峰子たちは笑い合った。
それから、ファミレスに移動してそこでPCでExcelの使い方を教えた。彼は熱心に頷きながらメモを取っていた。Excelも使ったこともないの? と訊ねると彼はありませんと答えた。なら、前職は何かと問うと、言いにくそうに「それはいいじゃないですか」とはぐらかされた。なんだか煮え切らない説明に、少し壁を感じつつも研修を終わらせた。
帰宅途中、池袋駅で彼と別れて、それから自宅の最寄り駅で降りて、それから数分歩きアパートの玄関を開けた。
ベッドに寝転がり、スマホを開いた。
なぜだろう。炎上の攻撃文を見遣っている最中でも彼のことを思い出してしまう自分がいる。
それが不思議だった。可愛い後輩に、毒されたのだろうか。はたまた癒されたのだろうか。判然としない中、峰子は少しだけ寝ようと目をつぶった。
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