2.蓮

 ベースを背負ってライブハウスを出ると、外はもう薄暗くなっていた。ひょいと西の空を見やると、地平線の上で崩れかけた夕陽がその色を濃くさせていた。秋の夕暮れだった。もうこんなに陽が早くなっちゃったのか。大学に入学して、軽音サークルに入って、もうそろそろ半年が過ぎたことになる。ちょっと時間が過ぎるのが早すぎる。私はいまだに、レナさんと話すのに緊張してしまうのに。

「どうしたの、ユイちゃん」

 レナさんの声。彼女は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。急に整った顔が面前に現れて、思わず大きく目を逸らしてしまう。失礼極まりない。

「あ、や、日が沈むの早くなったなあと思いまして」

「ふっ、そうだね」

 レナさんは軽く笑うばかりで、特に気にしていないようだった。そしてギターを身体の前に抱えたまま、出入り口前の灰皿の横に回り込む。

「私一本吸ってから帰るけど、ユイちゃんは?」

 レナさんはそう言って煙草の箱を軽く振った。カラカラと乾いた音が鳴った。もちろん答えは決まっている。

「ご一緒します」

「よかった」

 そう言い終わらないうちに、彼女は煙を吹かしていた。ライブが終わるまでずっと我慢してたんだろうな。ボーカルの喉は大事だ。私もレナさんと同じパッケージを取り出して、煙を吸う。視界が霞む。それはひとつには紫煙が私の視界を満たしたからであり、もうひとつには私の体内に大量の有毒物質が入り込んできたからだった。うむ、やっぱり重い。毎回、一吸い目はこうなってしまう。

「ユイちゃん、今日のライブよかったよ」

 レナさんはしかし、平然としながら言う。私は視界を安定させてから首を振る。

「ありがとうございます、でもまだまだです」

「そう? 新人ライブのときと比べて結構上手くなってたけど」

「新人のことは言わないでください! いやまああのときよりはましですけど、先輩たちと比べたら全然です」

 ゆっくり成長していけばいいとおもうけどね。そう言ってレナさんはまた煙を吐いた。私は愛想笑いをする。

「それよりも。今日のア・プリオリのコピバンもめちゃくちゃ良かったです」

「ほんと。ありがとう」

「ほんとですよ! まさか『鈍色と虹色』やってくれるなんて思ってなかったです。結構マイナーですよねあの曲」

「そうだね。この前の新歓ライブでやった曲は有名どころ中心だったし、今回は好きな曲やっちゃおうかなって」

「ほんとに全曲良かったです。もう毎月ライブ出てください」

 私が冗談めかしてそう言うと、レナさんの口元は困ったようにやや歪んだ。「毎月はちょっと大変だなあ」と言いながら。そうやって時々見せる笑顔がチャーミングでずるい。

「にしてもユイちゃん、ほんとア・プリオリ好きだよね。今回のセトリ全部分かる人、そういないよ」

「レナさんほどじゃないですよ。でも、そうですね。ア・プリオリはちょっと格別に好きです。なんでみんな聞かないんでしょうね?」

「まあ、もう十年も前のバンドだしね。しかも、今はああいったバンドは流行らないでしょう」

 たしかに。私はそう口に出す代わりに煙草を口に含んだ。でも、ア・プリオリはそれだからいいのにな。

「少なくとも、流行りのラブソングよりは好きです」

 レナさんは頷いた。そして、もう吸えなくなった煙草を灰皿に落とした。暗い灰皿の中で、微かに火花が残って光った。そう。ア・プリオリも、この時代だから私には輝いて見えたんだ。

 ア・プリオリは、十年前、グループアイドル全盛の時代に生まれたバンドだった。つまり、恋愛曲全盛の時代だ。メンバーはギターボーカルとベースのふたり。ドラムは適宜サポートメンバーを招いていた。そんな時代において、ギターボーカルものうげが書く詩はしかし、恋愛とはほど遠いものだった。バックパッカー時代に感じた世界の不条理や、理不尽や、憂鬱を、彼らはまっすぐに歌っていた。汚れた世界を嘆きながら、それでも一筋の希望を見いだそうとするような、そんな詩世界だった。「泥濘も そこに咲く蓮の花も 同様に愛することがつまり倫理なんだ」まさに、懶が書いたこの詩どおりだ。彼らはそれを目指していた。ラブソングが歌う綺麗事よりも綺麗な何かを探していた。少なくとも私にはそう見えた。だからこそ彼らの曲は、私や、私のような恋愛にアレルギーのある人間の心に深く刺さった。そして、懶が一人旅での事故で急逝し、バンドが解散すると、そのような人間たちはア・プリオリというバンドを半ば神聖化して語るようになった。

 私も、手に持っていた煙草を灰皿に落とした。火花はもはや光っていなかった。私たちはそれを見届けてから、それぞれの楽器を背負い直す。

「ユイちゃん、今日自転車?」

「あ、はいそうです。レナさんは阪急ですよね」

「うん、先帰ってもいいよ」

「いえ、河原町までご一緒します」

 ありがとう、レナさんはそう言って前を歩き始めた。私は自転車を押しながら、早足でそれを追う。風がレナさんの髪を持ち上げるたび、煙草とシャンプーの混じった匂いがする。レナさんの匂いだ。何のシャンプーを使ってるんだろう。さすがに訊いたらきもいだろうか。でも知りたい。レナさんの控えめなピアスも、長くてまっすぐな黒髪も、その全部が完璧だ。部分部分も完璧だし、それをまとめ上げて全体を見ても完璧だ。私は自分の髪に手をあてる。短くて癖のある茶髪だ。癖はストレートパーマをかけるとして、髪色は染めるとしても、髪の長さはどうしようもない。どのくらい待てばレナさんと同じくらいまで伸びるだろうか。結局今のレナさんの年、三回生くらいになっちゃうかも。先は長い。

「ユイちゃんさ、」

「ひゃい!」

 めっちゃ変な声が出た。さっきまできもいこと考えてたからだ。色々な意味で恥ずかしい。レナさんは手を軽く口元において笑った。

「や、なんかごめんね急に。でさ、ユイちゃんはいつかア・プリオリのコピバンやってみたい?」

 私は口を閉じて、頷く。好きなバンドだし、もちろんやれるならやりたい。でもまだ自分の技術は追いついていないし、一緒にやってくれそうな同回生もいない。いや、ほんとはレナさんとやりたいけれど、レナさんにはもう何回も一緒にバンドを組んでるメンバーがいるのだ。わざわざ私とは組まない。

「そっか。そうだよね」

 レナさんはそれだけ言って、その後は道の先をぼんやりと見つめていた。何かを考えているかのように見えた。でも、何を考えているのかは読み取れない。もう私達は河原町に辿り着いていた。阪急の乗り場はすぐだ。

「ユイちゃんさ」

「……はい」

 今度は変な声を出さないように、慎重に発音する。なんだか物々しい雰囲気になってしまった。

「全然たいした話ではないんだけど、ユイちゃんは恋愛したことある?」

 それは予想外の質問だった。文脈というものから外れた言葉だった。恋愛。でも、答えは明確だ。

「したことないから、ア・プリオリが好きなんです」

 私がそう言うと、レナさんは「そっか」とだけ呟いた。半歩先を歩く彼女の表情はよく見えない。もう阪急に降りる階段の前まで来ていた。

「じゃあね。また今度のライブで」

 しかしレナさんはそう微笑んで、階段を降りていった。少し冷えた夜の空気に、一抹の違和感が残っていた。レナさんは恋愛したことがあるのだろうか。ふと疑問が頭に浮かんだ。できればしてほしくないなと思ったけれど、それはさすがに望みすぎだと気づいていた。

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